善意の苦しみ
うすく夕暮れ色に染まった空。
風がそよぐたび、葉のこすれる音が耳にやさしく届く。
どこからともなく甘い香りが漂い、木の花のやわらかな輪郭が、ふわふわと視界をかすめる。
気づけば、目の前に古びた木造のカフェがあった。
窓からこぼれるあたたかな光に導かれるように、彼女は扉を押した。
「いらっしゃいませ。お好きな席へどうぞ」
そう声をかけたのは、淡い色のワンピースを着た若い女性――寧々。
やさしげな眼差しで、小さな笑みをたたえている。
彼女はことばもなく、ふらりと空いた席に腰を下ろした。
何かを考える余裕もないまま、ただ心のままに足を運んできた。
そういうときだってある。
しばらくして運ばれてきたのは、花の香りがふんわり立ち上るお茶。
透明なカップに注がれたその液体は、光に透けて淡い桃色に揺れていた。
ひとくち、そっと口に含む。
それだけで、ぴんと張り詰めていたものが少しずつほどけていくようだった。
重たい肩の力が抜け、あたたかい湯気が目の奥まで沁みていく。
しばらく静けさの中にいた彼女は、ぽつりと語りはじめた。
「……NPOで働いてるんです。虐待を受けた子とか、生活に困ってる家庭の支援とか……
毎日、いろんなことがあって、目の前の人のために必死で……」
そこまで言って、ふ、と苦笑する。
「もう十年やってます。なのに最近、時々、ぐらぐらするんです。
なんで私はこんなに必死なのに、誰にも見えないんだろう、って。
“感謝されたいわけじゃない”って言い聞かせても、やっぱり苦しくなるときがある」
寧々は黙って耳を傾け、優しく彼女に湯のみを差し出した。
「SNSで“クラファンで◯◯ちゃんを救おう”みたいな投稿がバズって、
応援コメントで溢れてるのを見て……
“うらやましい”って、思っちゃうんです。
こんな私、最低ですよね……?」
彼女の声がかすれる。
「私は現場で泥まみれになって、時には心を切り刻まれるようなこともあって、
でも地味で、目立たないから誰にも気づかれない。
それでも“私がやらなきゃこの子たちは……”って、
ずっとそう思い込んできたんです」
奥のカウンターで静かに佇んでいたネムが、そっと近づいてきた。
やさしい声で問いかける。
「……その子たち、あなたに“助けて”って言った?」
彼女は目を見開いた。
「え……」
「あなたの善意が、本当の意味で届くにはね、
まず“あなた自身”が満たされていないといけないと思うんだ」
ネムの声は風のようにやわらかかった。
「助けるってことは、上から手を伸ばすことじゃない。
隣に座って、“一緒にいよう”って言うことだよ」
彼女の手が、小さく震えた。
「……この間、支援してる中学生の子がね。
“別に来なくていいよ”って言ってきたんです。
その瞬間、腹が立ったんです。
“助けてあげてるのに”って、思ってしまった」
彼女は、涙をこらえるように瞼を閉じた。
「そんなつもりじゃなかったのに。
気がついたら、“私はあなたの味方だ”って言いながら、
その子の自由も尊厳も、押しつぶしてたのかもしれない。
ただ、私が満たされていなかっただけなのに」
寧々は静かに言った。
「……まず自分を満たさないと、
本当の意味で誰かを救うことなんて、できないよ」
ネムが続ける。
「“ありがとう”って言ってもらいたいって気持ち、
それは恥ずかしいことでも、打算でもないよ。
でもね――
誰かに言ってもらう前に、自分で自分に“ありがとう”って言ってあげて」
彼女はぽろりと、涙をこぼした。
「ずっと……“善い人”でいようとしてた。
誰かに、必要とされることでしか、自分の価値を証明できなかった」
カフェの外で、小鳥がさえずる声が聞こえた。
その声にまぎれて、ふと胸の奥に、かすかな温かさが灯る。
「今、ようやくわかりました。
私、自分自身にありがとうって言いたかったんだと思う。
“がんばってたね”って。
“誰にも見えなかったけど、よくやったね”って……」
その日、彼女は少し涙ぐんだまま、でもすこし、微笑んで帰っていった。
⸻
数日後
ドアが開いて、再び彼女が現れた。
表情は前より少し柔らかく、着ている服の色も少しだけ明るかった。
「また……来れた。あの日から、色々考えてて」
席につくなり、ぽつりと笑って話し始めた。
「ずっと、“誰かの役に立たなきゃ意味がない”って思ってたけど……
最近は、“私が幸せでいることが、誰かの希望になるかもしれない”って
そんなふうに思えるようになってきた」
「まだ怖いけどね。
でも、“人の役に立てないと意味がない”っていう考えを
少しずつ手放してみようと思う」
寧々が優しく頷く。
「それは、“自分を愛する勇気”だね」
ネムもそっと言った。
「あなたの善意は、これからもっと優しくなると思うよ。
“満たされた人”が差し出す手は、あったかいから」
そして、窓の外に揺れるねむの木が、淡く風にゆれていた。
小さな花が、ひとつ、やさしく舞い落ちた。




