空っぽだと思いたくなかった
その日、ねむの木の眠りカフェには、
ふわりと青い風が吹き抜けた。
窓がかすかに揺れて、ねむの木の花がひとつ、
ひらりと落ちる。
「……こんにちは」
扉を開けて入ってきたのは、
二十代後半くらいの女性だった。
春の光のように明るい色の服。
でもその目は、どこか遠くを見ていた。
疲れたような笑顔を浮かべて、そっとカウンターに腰を下ろす。
「ようこそ」
寧々がやわらかく声をかけると、
女性は小さく頭を下げた。
「おすすめは……お任せで、お願いします」
そう言って、小さく笑った。
ネムは頷いて、
花と葉の浮かんだねむの木のお茶を静かに淹れた。
その香りが、カウンターを包む。
女性はカップを両手で包むようにして、一口飲む。
その瞬間、ふっと力が抜けるように、肩が落ちた。
「……ここ、静かでいいですね」
ぽつりと呟いたその声は、思いのほか弱かった。
しばらくして、
彼女は目を伏せたまま話し始めた。
「……ずっと好きだった人がいて。
その人の言葉とか、生き方とか、
私、ほんとに救われてきたんです。
SNSも毎日見て、本も全部読んで、配信も欠かさず見て」
ネムのお茶を口に含んで、
女性はしばらく黙っていた。
けれど、その沈黙は静かな水面のようで、
その下では言葉にならない感情が、渦のように渦巻いていた。
やがて、彼女はカップを置いた。
「……変なんです」
ぽつりと、呟いた。
「私、あの人のこと、すごく尊敬してて、
言葉に何度も救われて……
“この人がいるから大丈夫”って、そう思ってました」
「でも、その人が弱音を吐いたとき、
“もうみんなの希望でいるのが苦しい”って、そう言ったとき……
私、何が起きたかわからなくて」
「すごく……ざわついたんです。心の奥が」
彼女は、胸に手を当てて、震える声で続けた。
「悲しくて……でも、なぜか腹が立って……
こんなこと言う人だったんだって、思って……」
「SNSの投稿を見てるだけで、ムカムカしてきて。
何も知らない人たちが“それでも応援してるよ”って言ってるの見て、
“何言ってんの?”って……
自分でも信じられないぐらい、冷たくなってて……ってすいませんこんな話…いきなり…」
寧々は言った
「大丈夫、ここでは全部吐き出しちゃってください。」
「…私……本当は、全部、自分に向けて怒ってたんだと思う」
寧々とネムがそっと、彼女を見つめる。
「その人が弱音を吐いたとき、私、自分に向き合わされちゃったんです。
“あの人が弱くなるなら、私はどうすればいいの?”って。
“これまで私が信じてきたものって何だったの?”って……」
彼女の声が少しずつかすれていく。
「ずっと、誰かを信じることで、自分を支えてたのかもしれません。
誰かの価値が自分の価値、みたいに感じてたのかも。
“この人を信じてる私”は、正しくて、価値がある。
でも、その“この人”が揺らいだとき……私は空っぽになっちゃった」
カップの中で、ねむの木の花がそっと浮かぶ。
「……でも、私、気づいたんです」
女性はぽつりと呟いた。
「ずっと、あの人を“完璧な光”みたいに思ってたけど……
実際は、ずっと人間だったんだって。
ただそれが、見えてなかっただけ。
見ようとしてなかっただけ」
寧々は、優しく言う。
「きっと、あなたがずっと心の奥で願っていたのは、
“完璧な誰か”じゃなくて、
“完璧でなくても愛されている自分”だったのかもしれませんね」
女性の目が、大きく揺れた。
そして、しばらくの沈黙のあと、彼女は微笑んだ。
「……今なら、なんとなくわかる気がします。
あの人が、弱さを見せてくれたとき、
本当は逃げたんじゃなくて、“ちゃんと自分で立とうとした”んだなって」
「私も……私自身のこと、少しずつ応援できるようになりたいな」
ネムは、そんな彼女の言葉を聞いて、
そっとねむの木の花びらを、カップの中にもう一枚浮かべた。
ネムが静かに口を開く。
「……あなたは、その人を通して、自分を見ていたんですね」
「……たぶん、そう。
“この人を応援してる私”が、
価値のある人間だって思いたかったのかもしれない」
「私、自分に自信がなかったから。
頑張ってる自覚もないし、特別なこともできないし……
だから、あの人の輝きが、自分の中の誇りみたいだった」
「でも、その人が弱音を吐いたとたん、
その誇りが全部、崩れた気がして」
寧々は、カウンター越しにふんわりと微笑んだ。
「あなたがその人の言葉に救われてきた事実は、
その人がどんな気持ちで発信していたかに関係なく、
あなたの中にちゃんとあるものですよ」
女性の目が揺れる。
「……ほんとに?」
「ええ」
ネムが言う。
「人は、自分が救われたことを、
“相手の完全性”に結びつけがちです。
でも、誰かの言葉に心が動いたなら――
それは、あなたの心が、動ける場所にいたからなんです」
「それって……私が…私を助けてたってこと…?」
「そうかもしれませんね」
ネムが微笑む。
女性はしばらく黙っていた。
そして、お茶をもう一口、飲んだ。
その香りが、胸の奥のなにかを、
そっとほどいていくようだった。
「……私、自分が空っぽだったなんて、思いたくなかった。
だから、誰かに自分の価値を埋めてもらいたかったのかもしれない」
「でも、今度は……」
彼女はゆっくりと息を吸って、言った。
「今度は、自分のことを、自分で応援してみたいな。
できるかどうか、わからないけど……
でも、少し、やってみたいって思えた」
それを聞いて、
ねむの木の枝が、そよ風にそっと揺れた。
まるで、彼女の決意に小さく頷いたかのように。
現実に戻った彼女は、
ふとしたときに心の中で自分に声をかけるようになった。
「大丈夫だよ、少しずつでいい」
「今日はよくやったね」
「これが好きなんだね、私」
小さな言葉で、自分の心をあたためる日々が始まった。




