小鳥の歌とお客さま
寧々とネムは、ねむの木のふもとのカフェで暮らすことにした。
ふたりがこの場所に住むことを決めてからゆったりとした時間が流れている。
この世界では、現実のような“時間の感覚”は曖昧だ。
朝のようでいて夜のような光。時おり風の香りが季節を伝えてくれる。
お腹が空くこともない。けれど、温かいお茶や、スープの味わいはちゃんと感じられる。
カフェの裏庭には、不思議な野菜やハーブが生えている。
夜になると香る花、葉の裏に光をたたえる小さな草――
それらを摘んで、寧々は少しずつ料理を覚えていった。
毎朝、小鳥たちがやって来る。
鮮やかな羽根を広げて、枝から枝へと跳ねながら歌をうたう。
その声はメロディでもあり、ことばでもあるようだった。
「今日の歌、ちょっと寂しそうだね」
寧々がそうつぶやくと、ネムはうなずいた。
「……うん。誰か、来るのかもしれない」
風が木の葉を揺らした、そのとき――
店の扉の前で、小さな鈴の音が鳴った。
ふわりと光の粒が舞い、一人の訪問者が現れた。
寝巻きのままの若い女性。目をまばたかせながら、戸惑った様子であたりを見回す。
「ここ……夢…かな?」
「こんばんは」
ネムがやさしく声をかける。
「ここは“ねむの木の眠りカフェ”…よければ、少し休んでいきませんか?」
彼女は一瞬迷ったようだったが、寧々と目が合うと、どこか安心したように席に着いた。
寧々は、裏庭の夜草とねむの花のつぼみを入れたお茶をゆっくり差し出す。
「どうぞ。少し不思議な香りがしますけど、体が楽になりますよ」
「……ありがとう」
彼女はお茶の湯気を見つめながら、ぽつりぽつりと話し始めた。
仕事のこと、最近増えたため息のこと。
別に大事件があったわけじゃない。ただ、日々が少しだけ重たくなっていた。
「ここ、静かで……落ち着く…。
久しぶりに深呼吸ができたような気持ち…。」
「多分、ねむの木が呼んでくれたんだと思いますよ」
カップの中のお茶が減っていくにつれて、彼女の顔から緊張がとけていく。
あたたかさがじんわりと広がるように。
やがて彼女は、空になった湯のみを見下ろして、寧々に向き直った。
「……ここは不思議な場所ね。
また、来てもいい?……来られるといいな」
寧々は、にっこりと笑った。
「ええ、いつでもお待ちしています。
夢の中でまた、会えますように」
彼女は微笑み返し、ゆっくりと立ち上がった。
光の粒がまとうように彼女を包み、ふわりと姿を消していく。
静けさが戻る。
ネムはそっと、ねむの木の花を手に取った。
その花びらの中に、
目覚めた女性がふと空を見上げる姿が、やわらかく映っていた。
「……良かった…前を向けてる」
寧々がつぶやく。
「うん。
ねむの木の花はね、来訪者が戻ったあとに“心の欠片”を映してくれるんだ。
その人がどんな気持ちで目覚めたか、何かが変わったか。
すこしだけだけど、僕たちにも見えるようになってる」
「そういうふうになってるのね……」
寧々は花を見つめながら、ゆっくりうなずいた。
「……そういえば」
寧々はふっと笑うように言った。
「私、昔おばあちゃんの家でねむの木のお茶を飲んだことがあったの。
淡いピンクの花からはやさしい香りがして……
おばあちゃんの庭にいた時の感じ、今思えばちょっとだけこのカフェに似てるかもしれない。それにここでは…忘れていた大切なことを思い出すわ。」
ネムは少し目を細めて聞いていた。
そして、ゆっくりと説明するように言う。
「ねむの木の花には、精神を落ち着かせる作用があるんだ。
ここでは、多分その効果がもっと強くなってる。
だから、寧々も、みんなも安心して話せるんだと思う」
「うん……わかる。私も、ここに来てから心がほどけていく感じがするの」
寧々は、ねむの木を見上げた。枝の先に、小さなつぼみが揺れていた。
「きっと、ここには来るべき人が、ちゃんと呼ばれるのね」
「うん。ねむの木はね、ずっと見てるんだよ。その人が“やさしさ”を思い出せる瞬間を」
カフェの外では、小鳥たちが歌を続けている。
今日の歌は、少しあたたかくなっていた。