また笑ってくれた
カラン――
少しぎこちなく、でも丁寧にドアが開いた。
入ってきたのは、40代後半くらいの男性。
仕事終わりのようなシャツ姿、ネクタイはゆるめ、
落ち着いた目元に、どこか不安げな迷いのような影が差している。
「……あれ、ここ……カフェですか?」
「はい、そうです」
寧々が優しく微笑む。
「どうぞ、ゆっくりしていってください」
ネムも静かにカップを差し出す。
男は不思議そうな顔をしながら、それでも席に着いた。
香ばしい香りのお茶に、驚いたように目を見開く。
「……なんか、落ち着きますね。懐かしいというか……」
一口、また一口と飲むうちに、表情が和らいでいく。
そしてぽつりと、こぼれるように話し出した。
「……なんか最近、うちの奥さんが変わったんです」
寧々が微笑む。
「良い意味で、です。すごく」
「ここ数年……ずっとピリピリしてたんです、彼女。
こっちも気を遣って、なんとか支えようとしたんですけど、
なにをしても“違う”って言われて……
“もういい”って言われた時の、あの感じが……辛かったです」
彼は眉をひそめた。
「出会った頃は、すごく可愛い人だったんです。
よく笑って、素直で、何かを頼まれるたびに“ありがとう”って言ってくれて。
それが……だんだん、笑わなくなっていって」
ネムが、そっと問いかける。
「そんな奥さんの姿を見て、どう感じていましたか?」
男は、うつむいてしばらく黙った。
そして、静かに口を開いた。
「……情けなかったです。
自分が、愛した人を、笑顔にできていないってことが。
すごく悲しかった。
でも……どうしていいか分からなくなって、
だんだん僕も黙るようになっていって」
彼はふっと笑った。
「だけど、最近……
“ねえ、一緒にご飯作らない?”って、彼女が言ったんです。
笑って。しかも、“失敗してもいいじゃない”って」
「びっくりしましたよ。
でも、すごく嬉しかった。
台所で一緒に包丁持って、ぎこちなく作ったんですけど、妙に楽しくて、笑って……
そしたら、“ありがとう”って言ってくれたんです。
“その気持ちが嬉しい”って」
彼は、照れくさそうに言った。
「なんだろうな……
あの頃の彼女が、戻ってきた感じがしたんです。
いや、たぶん“戻った”んじゃなくて……
“変わった”んだと思うんです。
ちゃんと、自分の気持ちを伝えようとしてくれるようになった。
昔よりずっと、自分の心に正直になって、僕にもまっすぐに向き合ってくれてる。」
そして、ゆっくりと顔を上げた。
「……今、昔よりずっと、彼女のことを大切に思ってます。
あんなふうに笑ってくれる彼女をもっと笑わせたくて、僕もまた…頑張りたいって思えるんです」
寧々とネムは、静かに笑った。
「すてきですね」
「きっと、彼女も“あなたが変わった”って思っているかもしれませんよ」
男は、少し驚いたように目を見開き、
やがて照れたように笑った。
「そう、かもしれないですね……」
ーーー
現実世界。
男は洗い物をしながら、何気なく妻を呼んだ。
「これ……ちゃんとできてるかな…見てくれる?」
妻はタオルで手を拭きながら覗き込んで、笑った。
「うん、完璧、ありがとう。……助かるよ」
ふたりの間に、流れる空気が少しだけ軽くなる。
「“ありがとう”って、言われるだけで、
こんなに嬉しいものだったんだな……」
男の心の声にねむの木の葉がそっと揺れた。




