べきという名前の檻の中
夜の森に、ひとつの足音が紛れ込んでいた。
少し早足だが何かに追われているわけでもない足音。
やがて、ねむの木の葉がさらさらと揺れると、ドアがカラン、と鳴った。
「こんばんは」
少し張りつめた声で、一人の女性が入ってくる。
30代半ば、黒髪を後ろでまとめ、アイロンのかかったシャツがきちんと整っている。
けれどその目元には、張り詰めた疲労が色濃くにじんでいた。
「いらっしゃいませ」
寧々が笑顔で迎えると、女性は小さく会釈して、空いている席に腰を下ろした。
「……不思議なところですね」
「夢の中のカフェですから」
ネムがそっとお茶を淹れる。
カップから立ちのぼるのは、ねむの木の花と穏やかなハーブが合わさった香り。
ほのかに甘く、心の奥に静かに染み込んでくる。
女性はふぅ、と息を吐きながらカップを手にした。
「……はぁ、なんだか……やっと座れたって感じです」
「お仕事の帰りですか?」
寧々がたずねると、女性は少し笑った。
「たぶん、そんな感じだと思います。
現実か夢かも曖昧だけど……とにかく、ずっと張りつめてたんです。…今日は特に、職場で……」
そこまで話すと、女性は少し黙って、お茶を一口。
「……ああ、…あの人ときたら…本当にもう…!」
カップを置く音が少しだけ強く響いた。
「時間守らないわ、報告は忘れるわ、謝る時は“てへへ”とか言ってふざけてて……
なのに、誰も強く言わない。いつも私ばっかりイライラしてて……!」
ネムと寧々が静かに見守る中、女性はなおも言葉を吐き出す。
「私だって、やりたくなんてないですよ!
ミスの尻拭いとか、後輩のフォローとか。
でも、誰かがやらなきゃいけないし、誰もやらないから“私がやらなきゃ”って…我慢して、怒られないように必死で動いて……
それなのに、なんであの人だけあんなに自由なの!?
……なんで、私だけ……」
感情の波が押し寄せ、目元に滲む涙を指でごまかす。
「……本当は、怒ってるのは相手じゃないんですね。…ずっと…自分に怒ってるんですね…」
言った瞬間、女性の肩が落ちた。
「“私ばっかり我慢してる”って、ずっと思ってた。
“やらなきゃ”って自分を叱って、誰にも甘えず、
“ちゃんとやらなきゃ評価されない”って、自分に言い聞かせてきた」
寧々が、ゆっくりと口を開く。
「“頑張ってる私”しか、許せなかったんですね」
「……そう。
だから、頑張らない誰かを見ると、
許せないんです。自分が否定された気がして。
“頑張らない人に腹が立つ”んじゃなくて――
本当は、“頑張りたくない自分を見てしまう”から、苦しかったんだ」
ネムが、やさしく言葉を添える。
「怒りは、悲しみの鎧です。
“わかってほしかった”“助けてほしかった”――
その想いが、言葉にできずに怒りに変わっていくんです」
女性は、お茶を見つめる。
「……ずっと“ちゃんとしなきゃ”って思ってきたけど、
誰も、“あなたはちゃんとしてない”なんて言ってなかったのかもしれません」
寧々が、そっともう一杯お茶を差し出した。
「今度は、自分に言ってあげてください。
“あなたは、もう十分頑張ってる”って」
「……うん」
少し笑って、女性はカップを両手で包み込むように持ち上げた。
ーー
現実に戻った彼女は、
翌朝、職場に着いて席についたとき――
ふとカレンダーを見て、スケジュールをひとつ空けた。
そして、その日の夜。
お気に入りのカフェに寄って、本を一冊だけ持って行った。
誰のためでもない時間。
“ねばならない”を離れて、自分に戻る時間。
「怒らなくても、自分を守っていい」
「“頑張らない私”にも、ちゃんと価値があるんだ」
その気づきが、そっと心に根を張りはじめていた。




