自分で選んでいく
また雨が降った夜だった。
ねむの木の葉が、雨粒をはじく音が静かに響いている。
「……あっ」
寧々が、ドアの音に気づいて顔を上げた。
そこに立っていたのは、あの女性だった。
少しだけ緊張した面持ちで、でも前回よりもすこし――肩の力が抜けている気がした。
「こんばんは。……また、来れたみたいです」
「おかえりなさい」
寧々の声が、ほんのりとやわらかく空気をあたためる。
彼女は前と同じ席に座った。
ネムが変わらぬ手つきでお茶を淹れる。
「……あの日から、いろいろ考えてたんです」
言葉がこぼれるように出た。
でもその声は前よりも落ち着いていて、自分の内側と丁寧に向き合った跡があった。
「私は、母のことを“優しい人”だってずっと思ってた。
でも同時に……“期待に応えなきゃ”“がっかりさせちゃいけない”って、
無意識に思い続けてたんです」
ネムが黙ってうなずく。
「選ぶ時、何かを決める時……
“私がどうしたいか”じゃなくて、“母ならどう思うか”で選んでた。
それって、ずっと“私じゃない誰かの人生”だったんだなって、ようやく気づいたんです」
雨音が、感情の波をそっと受け止めてくれているようだった。
「今もまだ……母をがっかりさせたくないって、どこかで思ってます。
でも、選ぶ基準は少しずつ変えられそうです。
“私はどうしたい?”って、自分に聞いてみるようになった」
ネムが、カップにねむの花を一片落とした。
湯気の中に、静かな香りが広がる。
「……母の愛は、きっと本物だったと思う。
でも、望んだ形ではなかった。
私は、“こうしてほしかった”って、ちゃんと思ってたんだってことも分かってきて」
寧々がそっと、テーブルの上に手を置いた。
「……それを感じていいんです。
望んでいた形じゃなかったからこそ、つらかった。
でも、確かにそこに“愛”があったことは、否定しなくていい」
「うん……」女性は静かに頷いた。
「その愛を、“受け取る”ことはできると思います。
でも、“望まない形”で差し出されたものまで、自分の中に無理に入れなくてもいい。
“受け止める”だけでいいんです」
「受け止めるけど、受け入れない」
「そう。ちゃんと見て、感じて、それはそれとして自分の外に置いておく。
それが、心を守る境界線になるんです」
カップを持ち上げた女性の手が、少しだけ震えた。
でも、それは悲しみの震えではなかった。
「そういうふうに考えたこと、なかった……。
なんだか、すごく楽になりました」
ネムが、葉を揺らしながら微笑む。
「誰かの愛を受け取ることも、誰かの期待から離れることも、別のことなんです。
君は、君の人生を取り戻していい」
雨の音が、遠くから優しく響いていた。
ねむの木の葉は、静かに揺れながら――その場のすべてを包んでいた。
ーーーー
現実世界で目を覚ました彼女は、
その日の朝、自分のクローゼットをひとつ整理した。
母に選ばれた服ではなく、
自分が「これが好き」と思えるものを、一枚、手に取った。
鏡に映った自分に、まだ自信はなかったけれど――
少しだけ、ほんの少しだけ、やわらかい笑顔が浮かんでいた。
「私は、私の選択で、生きていく」
それが、彼女の第一歩になった。




