心の中の声は誰の声?
雨の夜だった。
細くやさしい雨音が、カフェの屋根に静かに降り続いていた。
扉が開いたとき、ほんの少しだけ冷たい空気が流れ込んできて、そしてひとりの女性が入ってきた。
30代半ば、雨に濡れた傘をたたむ手が少しぎこちない。
「こんばんは。どうぞ、お好きな席へ」
寧々の声に、彼女は小さく頭を下げ、
カウンターの端にそっと腰を下ろした。
ネムが湯気の立つお茶を差し出すと、
ふわりとねむの木の花の香りが広がった。
「……なんだか、懐かしい香り」
ぽつりとこぼれた言葉に、
ネムも寧々も、声をかけずにそっと耳を傾ける。
しばらくして、彼女は静かに話し始めた。
「……私、何もかも中途半端で。
やりたいことも分からないし、何もできない気がするんです。
昔から……“いい子”だったから、大きな失敗もなくて。
でも、何も自分で選んでこなかった気がする」
お茶を見つめたまま、言葉が続く。
「母は優しかったんです。私が困らないようにと先回りして、守ってくれた。私のため、私のためって…でも……それがずっと、苦しかったんです。
“そんなふうに思う私のほうが悪い”って、ずっと思ってきました」
寧々が、そっと言葉を返す。
「“優しい誰か”から離れることって、すごく怖いですよね」
「……はい。
でも最近、そんな母に対して怒りが湧いてくるようになって。
私は、私の人生を生きてきたのかなって、わからなくなって」
雨音が静かに響く。
ねむの木の葉が、窓の外で風に揺れていた。
ネムが、ゆっくりと口を開く。
「君の中の“母親”を、手放すことはできますか?」
「……え?」
「母親の声じゃなくて、君の声を選ぶんです。
きっと、ずっと心の中にあったはずです――でも、ずっとかき消されてきた。
“こんなこと言ったら怒られる”とか、“こんな自分じゃだめだ”って思ってたんじゃない?」
女性は、目を伏せる。
震える指が、湯飲みの縁をなぞっていた。
「……それでも、母は私を愛してくれたんです」
「もちろん。それは事実でしょう。
でも、“愛された”ことと、“自由でいられた”ことは、同じじゃない」
寧々が、そっと言葉を継いだ。
「自分のために、少しずつでも歩いていっていいんです。
“いい娘”じゃなくても、“誰かの期待通り”じゃなくても……
それでも、ちゃんと愛される存在のままでいられる」
女性の瞳に、じわりと涙がにじんだ。
「……怖いです。母を否定してしまいそうで……。
それに、もし自分の人生がうまくいかなかったら……全部、自分の責任になっちゃう……」
ネムが、やわらかく言った。
「それでも。――“自分の人生”を、生きたいと思ったんでしょう?」
彼女は、カップを両手で包んで、深くうなずいた。
「……はい。
私は、私を選びたい。
怒りも悲しみも、誰かのせいにせず、ちゃんと…ちゃんと失敗もしてみたい。」
その言葉が口からこぼれた瞬間、
ねむの木の花が、ひとひら――ふわりと棚から落ちてきた。
寧々が、笑った。
「花が、聞いてたみたい」
ーーー
現実に戻った女性は、少しずつ変わり始めた。
母との距離を取り始め、
初めて自分の“好きなこと”を紙に書き出してみた。
完璧じゃなくていい。
“自分のため”に選ぶ一日を、生きてみよう。
そんな日記の一行が、彼女の小さなスタートだった。




