ネムとの出会い
なんか思いつきました。良かったら読んでやってくださいm(__)m
祖母の家の裏庭に、大きなねむの木があった。
葉は夜になるとそっと閉じて、風が吹くたび、ふわふわと枝が揺れる。
その先に咲く淡いピンクの花は、派手ではないのに、なぜだか目を引いた。
祖母はそれを「夜の眠り花」と呼んでいた。
「寧々、この花のお茶を飲むとね、心がふわっと軽くなるのよ」
幼い私にそう言って、小さな急須でお茶を淹れてくれたことがある。
あの時の香りは、もう覚えていない。
けれど、ぬくもりだけは、今も胸の奥に残っている。
祖母が亡くなって、家は空き家になった。
やがて土地は売られ、あのねむの木も、伐採されてしまった。
それでも私は時々、夢を見る。
風に揺れる花の影。木漏れ日の柔らかさ。
あの木の下で、じっと空を見上げている夢。
――だから、目を覚ましたとき、その花の香りを感じたのは不思議ではなかった。
土の上に私は横たわっていた。
どこか現実とは違う空気。やけに澄んでいて、でも肌寒くて、遠くで鳥の声がする。
ゆっくりと身体を起こすとすぐ目の前に、大きな木が立っていた。
ねむの木。
……祖母の庭にあった、あの木にそっくりだった。
だけど、もっとずっと大きい。
幹は人が十人腕を伸ばしても届かなさそうなほど太く、枝は空に向かって滑らかに伸びている。
淡いピンクの花が、風に揺れている。
「起きたんだね」
声がして、私は振り返った。
そこにいたのは、一人の少年。
歳は十歳前後。柔らかそうな髪と、淡い色の瞳をした子どもだった。
裸足で、木の根元に腰かけている。服はどこか古風で、でも清潔だった。
「……ここはどこ?」
「うーん……僕も自分の名前がネムって事以外よくわからないんだ。気がついたらここにいたから」
ネムという名の少年はふわりと笑って、木を見上げた。
「多分、ここは僕の家なんだと思う。……もう、何年ここにいるのかも、わかんないけどね」
私が黙ったまま見つめていると、ネムは立ち上がり、木の幹の方へと歩き出した。
よく見ると、幹の途中に小さな扉がある。まるでカフェの入り口のように。
「よかったら、お茶でも飲む?」
そう言って、ふり返る。
その瞳は、どこか懐かしい色をしていた。
風が吹いた。
花が、ふわりと揺れた。
私は、気づけばその背を追っていた。
扉の中は、静かだった。
木の内側とは思えないほど広く、あたたかな明かりに包まれていた。
天井には花を模したランプが灯り、木の香りとどこか甘い匂いが漂っている。
壁には本が並び、カウンターには小さな急須と湯のみが並べられていた。
「ここ、カフェみたい……」
「うん。“ねむの木の眠りカフェ”って、名前がついてるらしいよ。
誰がつけたのかはわからないけど……僕がここにいる事に気がついた時には既にこうだったんだ。」
ネムは湯を沸かし始めた。
動作は慣れていて、まるでずっとここで誰かを迎えてきたかのようだった。
「お茶はね、この木の花で作ってるんだ。香りがすごく優しいから……
飲むと、心がほどけるんだって」
しゅう、と湯気が立つ。
花びらを乾かして作ったというそのお茶は、ほんのりバナナのような甘い香りがした。
一口飲んだ瞬間、胸の奥に熱が広がる。
――ふと、記憶の奥から風が吹いた。
祖母の笑顔。
縁側で笑っていた夏の日。
小さな湯呑み。
日が落ちる頃に聞こえた蝉の声。
冷えた麦茶。ねむの木の影。
小さな手をひいてくれた感触。
「あっ……」
次々に蘇る。忘れたわけじゃない。
ただ、閉じていた。
涙が、こぼれた。
止めようとしたのに、あふれてきて、
でもそれは痛みではなかった。
苦しかった想いも、寂しさも、
まるで涙と一緒に、溶けていくような気がした。
「……ごめんね、急に……」
「ううん、いいんだよ」
ネムは、そっと湯を足しながら微笑んだ。
「このお茶はね、忘れるためじゃなくて、思い出すためのものだから。
心が大事なものを取りこぼさないように、ちょっとだけ開いてくれるんだ」
寧々は、ふっと息をついた。
温かいカップを両手で包み込みながら、
ゆっくりと、初めての眠りのような安らぎが体に満ちていくのを感じた。
ーーー
木漏れ日の中、寧々は静かに深呼吸をした。
ここに来てから何日経ったのか、もう分からない。
でも不思議と時間の感覚がなかった。
ただ、この場所の空気とネムの存在が彼女を優しく包み込んでいた。
ある日のことだった。
ふとした瞬間に、胸の奥に冷たい痛みが走った。
それは、遠い遠い記憶の底からの呼び声のようで、
「…私…現実に戻ったら……もう長くない」
という事実が、まるで薄く張った氷のように静かに、しかし確かに彼女の心に降りてきた。
夜になって、寧々はネムの前に座った。
静かなカフェの一角で、揺れるランプの光が二人を包む。
「ネム……私、知らなかった。ずっとわからなかった。
でも、今はっきりわかる。私、事故に遭ったんだ。多分、すごく大きな。
体はもう動かせないんじゃないかって、そんな気がする」
ネムは黙って彼女の手を握った。
「ここに来たときから、君はただの来訪者じゃない…命の境目に立っている人なんだって、なんとなくだけど僕は感じてた。」
寧々は涙をこぼした。
それは悲しみではなく諦めと、でもどこか安堵も混じった涙。
「戻ったら、たぶんもう長く生きられない。
戻った途端に死んじゃうかもしれない…いや、もしかしたらもうこの瞬間にも死んじゃってるかもしれない。
こんな時にちゃんと考えなきゃいけないってわかってるんだけど、でもここにいると、なんだか温かくて……私…ここに残りたい」
ネムは微笑んだ。
「寧々がここにいてくれたら、僕もひとりじゃなくなる。
僕たちで、この場所を大切にしよう」
ねむの木の花びらが、そっと舞い落ちた。
寧々は静かにうなずいた。
ここが、今の自分の居場所だと、心の底から信じられた。
ここは、ひとときの安らぎを求めた人が迷い込むカフェ。扉を開けると、寧々とネムが柔らかな笑顔で出迎えてくれる。