番外編③モンテヴィダ侯爵視点
フィリップ・モンテヴィダ侯爵は、かつての幸せだった日々を思い出していた。
「フィリップ様、お嬢様が産まれましたよ。」
初めてアデルを抱いた日のことを、まるで昨日のことのように覚えている。小さな手で私の指を握りしめ、ふにゃりと笑ったその表情が、どれほど愛おしかったことか。最愛の妻エレナもまた、その小さな命を大切に抱きしめていた。
「この子は、私たちの宝ですわ。健やかに育ちますように。」
エレナの穏やかな微笑みと、温かな眼差し。その姿を思い出すたびに、胸が痛む。
しかし、その幸せは長くは続かなかった。エレナが病に倒れ、日に日に衰弱していく姿を目の当たりにしながらも、フィリップはどうすることもできなかった。
「あなた…アデルを、どうか守って…あの子は、きっとあなたの支えになるわ…。」
最後に残したその言葉を、私は生涯忘れたことはなかった。だが、守るどころか――。
エレナを失い、失意に沈んでいたフィリップに近づいたのが、レティシアだった。
「侯爵様、お一人では何かとお困りでしょう?私があなたを支えて差し上げます。」
その美しい微笑みと優雅な振る舞いに、私は次第に心を許し、やがて再婚を決意した。しかし、それがどれほどの過ちであったのかを、後になって思い知ることとなる。
レティシアは次第に本性を現し、アデルを疎ましげに扱い始めた。
「侯爵様、アデル様は少し自由にさせすぎではありませんか?跡継ぎとしての自覚を持たせるためにも、もう少し厳しくするべきですわ。」
そう言われるたびに、フィリップは何となく納得してしまい、気づけばアデルにかける言葉も減っていた。
「お父様、少しお話を…。」
アデルが必死に話そうとすると、つい冷たくあしらってしまうようになっていた。
「今忙しい。またにしなさい。」
レティシアとアリシアは対照的に、私の前では完璧な母娘を演じていた。
「お父様、アデル姉様が私に意地悪をするの…。」
「そうよ、侯爵様。アデル様はまだお母様の死を引きずっていて、素直になれないのでしょう。」
その言葉を信じてしまった私は、アデルの訴えを聞くこともなくなり、レティシアの言うがままに過ごしていた。
そして、ある日、ルシウスからアデルとの婚約破棄を伝えられた。
それを聞いたアデルは私に訴えてきた。
「お父様、お願いです!どうか話を聞いてください!」
わがままな娘の言い分に、正直私はとても面倒だと思った。
「くだらない泣き言を言うな。お前がそんな娘に育つとは、恥ずかしい。」
きっぱりと伝えると、彼女は何も言わず去って行った。しかし、その心がどれほどの悲しみを隠していたのか、私は考えもしなかった。
アデルはその日のうちに屋敷を去った。
誰も彼女がいつどのように出て行ったのか気づいていなかった。気がついた時にはすでに彼女の姿はなく、使用人たちも何も語らなかった。屋敷の中は静まり返り、私はどこか心の奥で違和感を覚えていた。しかし、その時はまだ認めることができなかった。それどころか、私は不思議と安堵さえしていた。これで厄介事が減る、と。だが、それがどれほど愚かな考えだったのか、後に思い知ることとなる。
そしてアデルが去り、気づけば、領地の経営は悪化していた。
「どういうことだ!? 領地の帳簿が滅茶苦茶じゃないか!」
私は怒りで怒鳴り声をあげていた。
「以前はアデル様がずっと一人で領地を管理し、書類を整理しておられました。」
古くから仕えている老齢の執事が震える声で言った。
「侯爵様、取引先の減少と奥様とアリシア様の散財で財政が厳しくなっております。このままでは立て直しが難しく…。」
執事の報告に私は頭を抱えた。今までアデルが書類を全て管理していたことなど初めて知った。レティシアからはアデルは何もできない、ただわがままで怠け者だと聞いていた。しかも、レティシアとアリシアは我が侯爵家の現状を把握しておらず、浪費をやめようとしない。
「大丈夫ですわ、夫の威厳を示すためにも、ここで倹約などしてはいけません。」
「お父様、新しいドレスが欲しいの!だって、社交界で笑われたくないわ。」
私はつい、ため息をつくだけだった。
そして、王宮のパーティでアデルに再会した時、美しく成長した姿を目の当たりにし、私は驚きとともに複雑な感情を抱いた。彼女の隣にはラモンテ公爵夫妻が並び、彼らの慈愛に満ちた表情が、かつて自分が持っていたはずの父親としての誇りを思い起こさせた。
「アデルをラモンテ公爵家の正式な養子とする。」
ラモンテ公爵のその一言に、私の胸に怒りが込み上げた。
「勝手なことを……!」
しかし、公爵は静かに言葉を続けた。
「アデルが受けてきた仕打ちについて、我々は証拠を握っている。彼女に対する虐待の数々、その全てを。」
その言葉に、私は何も言い返せなかった。思い返せば、レティシアとアリシアを迎えた日から、アデルに対する態度が次第に冷たくなっていったことを自覚していた。それでも、私はそれを認めたくなかった。だが今、すべての事実を突きつけられ、ようやく自分の過ちに気付かされる。
私はアデルの姿を目で追った。彼女はもう自分の娘ではない。心の中にむなしさだけが残った。
モンテヴィダ侯爵家が没落した今になって、私はようやく自らの過ちを悟る。
「あの子は…最初から私を助けようとしていたのに…。」
アデルの母エレナとの約束も果たせず、我が子を傷つけ、追い出した自分。ようやくそれに気づいたときには、すべてが手遅れだった。
「アデル…私は、お前に何をしてしまったのだ…。」
そう呟いても、返ってくる答えはなかった。
彼は静かに目を閉じ、心の中で呟いた。
「アデル…どうか、幸せになってくれ…。」
それだけが、彼に残された唯一の願いだった。




