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睡る魚


まただ。


正太郎は顔をしかめると、急いで目を閉じました。頭の芯のあたりが、疼くように痛むのです。

小学校に上がってから、正太郎はひんぱんにこの痛みに悩まされていました。痛みは前ぶれなくやってきて、強い痛みと気持ち悪さで正太郎を苦しめます。

暗くなった視界で、先程まで観ていたテレビの画面が、ちかりちかりと動いているのがぼんやりと見えました。だんだんと強くなる痛みに耐えかねて、正太郎は目を閉じたまま、手探りで隣に座っているお父さんの腕を探り当て、ねぇ、と引っぱりました。


「どうしたの?」

正太郎がじゃれてきたと思ったのか、弾んだ声でお父さんが答えます。しかし、最後まで言い終わらないうちに、一転して心配そうな声色に変わりました。

「また、痛くなっちゃった?」

お父さんが顔をのぞきこんできた気配を感じて、正太郎は小さく頷きました。お父さんはすぐにテレビを消すと、先ほどまで座っていた畳に正太郎を寝かせ、丸めた座布団を頭の下に差し入れてくれました。


痛みをがまんし、されるがままになっていると、お父さんの大きな手が、正太郎のまぶたをそっとおおい隠しました。目の前が、完全に暗くなります。

頭が痛くなると、まぶたごしに入ってくる光でさえ、強い刺激に感じてしまいます。なので、正太郎の頭が痛くなると、お父さんはいつもこうして目を手のひらでおおってくれるのです。少し冷たいお父さんの手が、とても良い気持ちです。まぶたの裏側に広がる星空をながめながら、正太郎はじっと痛みが過ぎるのを待ちました。


どれくらい経ったでしょうか。

ようやく痛みも落ち着いてきました。そろそろ治るかな。そんなことをぼんやりと考えながら、正太郎はうつらうつらと舟をこいでいます。

むくむくとふくれてきた眠気に身を任せていると、ふと、足に冷たいものが当たった感覚がして、正太郎の意識は一気に引き戻されました。


「わっ」

正太郎は、驚いて足を跳ね上げました。

ぱちゃん。大きな音に続いて、顔や服にぱたぱたと何かが飛んできました。驚いた正太郎は、跳ね上げた足もそのままに、ぴたりと動きを止めました。


水だ。


飛んできたものが頬を流れ、服にじわりと染み込んでくるのを感じて、正太郎はすぐにその正体に気づきました。

だけどおかしい。ここは海でもプールでもなく、まぎれもない正太郎の家の中のはずなのです。

どうして水があるのかと驚いている間に、冷たい感覚は足の先からどんどんと顔の方へと上がってきて、とうとう正太郎の肩のあたりまでせり上がってきたかと思うと、まるで海の波打ち際のように、お腹の辺りまで水が引いては肩のあたりまで上がってくるのを、ゆっくりとくり返しだしました。


この不思議な状況に、正太郎はどうしても自分の目で確認をしたくなりました。急いで目をおおっているお父さんの手にすがりつくと、大きな声を上げました。

「ねえ、水が来てるよ、お父さん!」

しかし、お父さんの手はびくともしないばかりか、正太郎がどんなに声をはり上げても、反応が返ってくることもありませんでした。


「お父さん、水が来てるよ!ねえってば!」

すがりついた手をどんなに引っぱっても、叩いても、お父さんからの反応はこれっぽっちもありません。

とたんに、正太郎は自分の胸にじわりと広がった不安のシミが、どんどん広がっていくのを感じて、自分のTシャツの胸元を両手でぎゅっと握りしめました。

(お父さん、いなくなっちゃったの?)

水が打ち寄せる音と波の動き、そして目をおおう手の感触だけが、正太郎がまぶたの裏の暗い世界で感じられる、ゆいいつの感覚となっていました。



じゃぷん。


誰かが水の中を歩いているようなかすかな音が、少し離れた所から聞こえてきました。

突然聞こえた音に、正太郎の体はこわばります。目をおおう手にすがり付きながら、正太郎は震えました。恐怖で体に力を入れ続けたため、治まりかけていた頭痛が、再び熱を持ったように、じぃんと痛みだしました。痛みと恐怖に耐えかねて、こらえきれなくなった涙が、正太郎の目からこぼれ落ちました。


「そこで泣いてるのは、だぁれ?」

小さな女の子のような、ささやくような声。その声を聞いて、正太郎は少しだけ、体に入った力を抜くことができました。

自分と同い年か、もう少し幼いようなその声は、なんだか怖い人の声には聞こえなかったからです。

じゃぷん、じゃぷんと、ゆっくりと近づいて来たその子は、正太郎のすぐ側まで来ると、隣に座り込んでこう聞きました。


「あなた、お名前は?」

「…正太郎」

女の子のような小さい声に負けないくらい小さな声で、正太郎は答えました。

「きみは、だれ?」

正太郎の問いかけに、その子は少し考えこんだように間をおいて、

「あたしは、そうねぇ、お母さんよ」

と、少し笑いながら答えました。


お母さんだって?正太郎は驚きました。

誰のお母さんなんだろう。お友だちの陽子ちゃん?それとも、耕助くん?いや、そもそもこんな小さな子がお母さんだなんて。

次々とお友だちの顔と名前を思い浮かべて、考えれば考えるほど、正太郎の頭はますます痛くなってしまいます。


正太郎がむっつりと考え込んでいると、「まぁ!」と驚いた声を上げて、お母さんは小さな手を正太郎のお腹にそえると、ゆっくりと円を描くように撫でまわしだしました。


「あなたのお魚、とっても大きいのねぇ」

くすくすと笑いながら、お母さんは、正太郎のお腹を、右にぐるぐる、左にぐるぐると、ゆっくり大きく撫でていきます。すると、あれだけじくじくと痛んでいた頭から、みるみる痛みが引いていくのを感じて、正太郎は驚きました。


「あれ、どうして・・・」

驚いて声を上げた正太郎のお腹を優しく撫で続けながら、暗闇の中で、お母さんがにこりと微笑んだ気配がしました。

「きみのお魚はとっても大きくて、とっても元気なんだよ。そんな大きなお魚が、小さなきみの体の中でたくさん泳ぎ回るものだから、体の中はずっと、大きな波が立っている状態なの。だから、その波がお腹や頭にまで伝わって、痛くなっちゃうんだよ。大丈夫、きみくらいの子にはよくあることだから。大きくなるにつれて、お魚が体になじんで、痛くなくなるからね」

たまにまだ痛む大人もいるけれどね、と、お母さんは小さな声で付け加えます。そんなお母さんの説明を、正太郎はぽかんと口を開けて聞いていました。


「僕の中に、お魚が、いるの?」

驚きすぎて回りにくい口で、ようやく疑問を口にすると、暗闇の向こうで、お母さんが驚いたような気配がして、その後すぐに笑い声が聞こえて来ました。

「当り前じゃない!みんな一匹、体にお魚が泳いでいるのよ」

おかしくて仕方ないというように、お母さんは無邪気にコロコロと笑います。さも当たり前のように言うお母さんの言葉に、正太郎はさらに驚いてしまいました。

「でも、そんなの聞いたことないし、そんなの、なんだか…」

怖いよ、と、正太郎は消え入りそうな声で呟きました。お母さんは、正太郎を安心させるように、ぽんぽん、と優しく正太郎のお腹を触りながら続けます。


「人の体はね、半分以上水分で出来ているのよ。こんなに水があるんだもの、お魚が泳いでいても不思議ではないでしょう?」

お母さんがもっともらしく言うので、だんだんと正太郎も、なんだかそれが当たり前のことであるように感じてきました。

それと同時に、どっと疲れが押し寄せてきて、一度収まった眠気がむくむくとふくれ上がり、無意識にあくびがこぼれました。


大きく開けた口に、カロン、と何かが入ってきました。小石のようにゴツゴツとしたそれを口にふくんだ瞬間、まるで砂糖菓子のような上品な甘さが、口いっぱいに広がりました。

「この甘さで、きみのお魚は眠りにつくよ」

お母さんのささやく声が、まどろみに沈みこんでいく正太郎の頭の中に響きます。


「お魚は、いつ、起きるの?」

「きみが、もっと大きくなったらね」

波が体をゆらす感覚と、波の音が心地良い。「そっか」と返事をして、正太郎は眠気に身をゆだねました。眠ってしまうほんの少し前、遠くでお母さんの声が聞こえた気がしました。


「おやすみ、わたしの可愛いお魚」

 


目を覚ますと、部屋はとっぷりと暗くなっていました。

お父さんが掛けてくれたらしいタオルケットを抱きしめて、正太郎は畳の床にころんと横になっていました。

ぼんやりと、まだまどろみの中に浮かびながら、正太郎はさっきまでの出来事を思い出していました。

自分の服や畳を触って、どこも濡れていないことを確認すると、正太郎は寝ころんだまま大きく伸びをして起き上がりました。


ひどかった頭痛は、もうすっかりと良くなっています。夢の中で、顔の見えなかった誰かのお母さんの事を思い出しながら、正太郎は優しく自分のお腹を撫でました。右にぐるぐる、左にぐるぐる、と。


「おやすみ。ぼくのお魚」

お腹の中で眠るお魚が起きないように、正太郎は小さな声でささやきました。

ほんのりと、砂糖菓子のような上品な甘さが残る口で。



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