おねしょのはなしを書く
以前に書いた「読書感想文のせいで読書が嫌いになっていた」。そのエッセイが私のpt の約6割を稼いでいる。
今回はその後書きで述べたおねしょのはなしについて書こうと思う。
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外せないのが椋鳩十編「ねしょんべんものがたり」か。男の子、女の子、小学校入学前なのに治らない子から、いつもはしないのに何故かしてしまう子まで。
発行が昭和46年。一か月半で3万部を超えたベストセラー。昭和54年10月に文庫本第一刷が発行されている。
児童文学者を中心に24人のおねしょの思い出が語られた。
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「起」として、寝る前に何をしていた、何を飲んだ、体調がどうだったとか。いきなり夢の中から始まるものもあれば、お便所を探しているものもある。
大抵はどんな夢を見ていたかが書かれている。
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「承」として、尿意により夢の内容が変わってしまう。
例えば、遠足や公園にて遊戯をしていたが、尿意によりお便所や路傍のおしっこ出来る場所を探してしまうのだ。
Wikipediaページを編纂していてここで[要出典] が付いた。
根拠は鍼灸の書籍なのですが、過去の引っ越しによりそれは失った。記事名も「おねしょ」から「寝小便」に変わってしまい、本エッセイで取扱う「おしっこの夢」とも椋鳩十先生の児童書とも関連性が無くなってしまっている。
百科事典という性質上、それが妥当なのでしょう。
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そこから「おしっこしたい」という欲と、「させまい」とする理性との戦いになる。
ここがものがたりの盛り上がり処でしょう。
夢はあらゆる手段を使っておしっこの邪魔をして来る。お便所が見つからない、どの個室も塞がっている、お便所の取り合い等々。
祖母にも言われたことがある。便器が壊れていたり、とても汚れている。
「そこでしたらあかんねんで」と。
ここまでで夢が覚めなければ次の段階へと転ずる。
だが、私は邪魔をされたことがない。
いつも学校で使う便器或いは、実家のお便所に邪魔されずに辿り着いてしまっていた。
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「転」として、我慢の限界を超える。
夢の中では欲が理性に勝ち、おしっこすることを許可してしまうのだ。
お便所が見つかる、個室が空き、自身の順が廻って来る、お便所の取り合いに勝つ或いは、他でするか漏らすか、汚いのを我慢してするか。
そのおしっこした時の気持ちのいいこと。おしっこしない、水に関連する夢であってもそこには爽快感があるのだ。
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「結」として、おしっこしたことだけが現実であり、他は夢の中の出来事に過ぎないのだ。後に始末や後日談が語られる。
北畑静子作「わたしの おねしょのはなし」では町で一番大きな病院へ連れて行かれ偉い医師に診せられる。
「どこも悪くないですよ。神経です。おねしょしまいと一生懸命に思うからしてしまうのです」
この医師のお言葉は幼かった静子先生の助けになります。なんて本当のことをわかっているのだろう、初めて会ったのに私の本当の気持ちを知っていると。
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医学的にはおしっこの夢とは関連性が無いそうです。
でも、それを書かなければおねしょのお話が書けないではありませんか。
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引用元:北畑静子作「わたしの おねしょのはなし」(椋鳩十編「ねしょんべんものがたり」より)
私は夜尿症じゃありませんでした。
就学年齢であっても継続しない夜尿については夜尿症と定義されないようです。
お便所を探す夢、不思議なお便所で躊躇う場面、結局おしっこしてしまう夢は時々見ることがあるのですが、ありがたいことに布団も寝間着もパンツも平気なのでした。




