1話:危ない橋
その階段を降りると、薄暗い通路が真っすぐ続いている。
床と壁と天井、すべてに同じ大きさの石畳が均一に敷き詰められた通路だ。
空気はひんやりとしていて重たい。
俺たち以外に動くものの気配はなく、静謐で厳かな雰囲気に包まれていた。
「すまない」
俺の何度目か分からない謝罪の声は、壁に吸い込まれるようにして消える。
「ついにここまで来ましたね」
鈴を転がすような、可憐で美しい声が隣から聞こえた。
緊張で強張ってはいるが、俺よりは幾分か明るい声音。
俺の謝罪には答えないまま、小さくて温かい手が俺のすっかり冷たくなった手を握った。
「危ない橋を渡る、でしたっけ? 危険を冒すのはこれで最後なんですから、頑張りましょう」
驚いて隣を見ると、そこには淡い微笑みを浮かべた少女がひとり。
地母神を崇める法衣で身を包み、編み込まれた黄金色の長い髪が揺れている。
出会って三年目だから、今年で十七歳か。
こちらの世界では十五歳で成人だから十分大人だが、日本人の記憶を持つ俺からするとまだまだ幼いと感じてしまう。
「よく覚えてたな。一度しか使ったことがない慣用句だと思ったが」
「解説してくれる先生が優秀ですから」
人のことを自分のことのように、誇らしげに少女がえへんと胸を張った。
俺を励ますための空元気なのだろう。
繋いでいる手とは反対の杖を持つ手は、緊張で強く握りしめられ指先が白くなっている。
「生徒はもっと優秀みたいだけどな」
「教え甲斐があるでしょう? だからこの戦いが終わっても……これからもずっと教えて欲しい、です」
「そうだな。そのためにもこの迷宮の主を倒さないと。だが本当にいいのか?」
まだ間に合う。
今すぐにこの迷宮から逃げ出せば、この温かい手が失われることはない。
ただしそれはこの世界からという意味であって、俺の手からは確実に失われる。
身分の差というのは世界を分かつのと等しいくらい、厳しく残酷なものであった。
この手を放したくない、彼女を俺のものにしたい、という利己的な欲望で彼女を死の危険に晒している。
なんて酷い男だろうか。
「先生……アルトは悪くないです。むしろ私の我儘だから」
俺の心を見透かしたように少女が呟く。
「私が外の世界を知りたいから、無理を言ってアルトのパーティーに入れてもらいました。アルトたちはもちろん、お父様にも沢山迷惑をかけてしまった。でもここまで準備したんだから、最後までやり通したいです」
準備というのは、俺たちが現在装備している品々のことだ。
彼女の実家である侯爵家の力を使い、最高品質の武具が貸し与えられている。
「それにさっきも言いましたけど、私だってアルトとずっと一緒に居たいです。甲斐性見せてくれないと泣いちゃいますよ? 据え膳食わぬは男の恥、でしたっけ?」
「……は? ちょっと待て。間違ってはいないが、俺はそんな言葉を教えた覚えがないぞ」
「アルトが酔っぱらった時に教えてくれましたよ。ただ説明が中途半端だったので、女性が男性に言い寄るときに使うとしか理解してませんが。据え膳ってなんですか?」
「……あの夜か。お姫様に酔っ払いの俺は何を教えてるんだ」
そういえば一度だけ深酒をして記憶を飛ばした日があった。
そんな余計なことまで言っていたのか……。
思わず天を仰いだ俺を、少女の無垢な碧眼が見上げてくる。
今ここで意味を教えたら、どんな反応をするだろうか。
顔を真っ赤にして恥ずかしがるだろうか。
「今から殺し合いをするというのに、さすがにふざけすぎか。そうだな、この戦いが無事に終わって屋敷に戻ったら教えるよ」
「本当? 約束ですよ? ちゃんと守ってくださいね?」
「ああ、約束だ。それじゃあ迷宮の主を倒しに行こう、リア」
程よく緊張が取れた俺を見て、少女ことリアが嬉しそうに笑った。
そうだ、この笑顔に答えるために俺はここまで来たんだ。
いいかげん覚悟を決めよう。
この迷宮の主を倒した功績で俺は爵位を手に入れて、侯爵令嬢であるリアに相応しい男になってみせる。
俺とリアは頷き合い、手を繋いだまま薄暗い通路に足を踏み入れた。