やらかしたのはそちらです
「ベス! 貴様は聖女であるリリムを虐げ自らが聖女であるなどと偽ったな! 貴様のような者を聖女であるなどと認めるはずがない! 婚約も破棄だ! 本来ならばその大罪、命をもって償ってもらうべきではあるが俺からの慈悲だ。国外追放だけで勘弁してやろう。とっとと出ていけ!!」
メルクシュテン国の王太子、ヘルムートが一方的に言い募り、その隣にしなだれかかるようにしていた女はにやにやとした笑みを隠す事なくベスと呼ばれた少女を見ていた。
みすぼらしい娘である。
神殿で日々聖女としての勤めを果たすべく生活しているだけの娘に、美容関係のあれこれを気にする余裕はなかったし、そもそもロクな休みも与えられていなかった。
かろうじて食事は与えられたもののそれだって最低限飢える事がない、といっただけのもので栄養なんてものはほとんど考えられていなかった。
睡眠時間もロクにとれず、目の下には色濃い隈が存在している。
神殿から与えられた法衣を身に纏っているからこそかろうじて浮浪者として扱われていないが、一歩間違えば物乞いか何かだと思われてもおかしくない程にベスという少女はボロボロであった。
この国の聖女として働かされて、ロクに安らぐ事もなく毎日酷使され続けて。
そうしてその結果が、傲慢で尊大な王太子との婚約。
同じ神殿に在籍していたものの、ロクに勤めを果たさずベスに嫌がらせを繰り返していたリリムは王太子を狙っていたらしく、どうやら色々と吹き込んでくれたらしい。
その結果がこれだ。
強引に前髪のあたりを掴まれて無理矢理立ち上がらされた後は、まるでゴミでも放り投げるかのように神殿から突き飛ばされて追い出された。
受け身などとれるはずもなく、ベスはごろごろと数メートル程転がって地面に倒れたまま動かなくなる。
だがしかし、やがてのろのろとした動作で立ち上がると、よろよろとした足取りで立ち去って行った。
ヘルムートやリリムがもうちょっとだけ用心深かったり賢かったりしていたならば、この時点でベスが口元に笑みを浮かべていたことに気付いていれば。
もう少しマシな結末が待ち受けていたかもしれないのだが、すべては手遅れであった。
偽の聖女を追放して真の聖女であるリリムを妻とする、と宣言しメルクシュテンの新たな王となったヘルムートであったが、その幸せは長く続かなかった。
元々メルクシュテン国はあまり大きな国ではない。けれども聖女の力で守られて、肥沃な大地であるという事だけで繁栄していたようなものだ。
聖女の護りで魔物は遠ざかり、大地の恵みを享受する。小さいながらも栄えた王国。すぐ近くの大国ロジアードの属国であったものの、だからこそそれ以外の国からも侵略される事なく栄える事ができていた。
だがしかし、ある日ロジアードの若き王ラーヴァグルート率いる大軍によって呆気なく彼らは捕まった。
そうして何が何だかわからないままに、ヘルムートだけではない。その妻であるリリムも、更には王位を譲り隠居状態になっていた先代の王とその妻も、いや、城の人間たちも全てが街へと連行された。
誰一人逃がす気はない、という状況の中、一体何事だと狼狽えるヘルムートたちは見た。
広場があった場所は、すっかり更地となり果てていた。
周辺にあった建物も取り壊されてなくなっている。
それだけではない。
メルクシュテンの民たちがそこにはいた。
国中全ての、というわけではないだろう。けれども王都に住まう者たちは例外なく捕えられているようであった。
男だとか女だとか、若者だとか老人だとか関係なく全てが、である。生まれたばかりの赤子に関してはさておき、捕えられた民たちは厳重に逃げ出す事のないように縛られていた。
例えば他国からの侵略であればもう少し別の対応ができた事だろう。けれども実行しているのはメルクシュテンからすれば決して逆らえぬ相手だ。そもそも属国であるはずなのに、まるで敵国のような扱いをされているのはどういう事だ……!? ヘルムートは異様な光景に言おうとしていた言葉を飲み込む事となった。下手に何かを言ったところで、恐らく自分の立場がより一層悪くなるだけだ。それだけは確信していた。
ラーヴァグルートがこちらへ向ける眼差しは恐ろしいまでに冷え切っている。敵を見る目と言っても過言ではないくらいに。
不安に駆られた民たちの声が時々聞こえるが、あまり大きな声で喋ると酷い目に遭わされると思っているのかその声は控えめだ。けれども異様な雰囲気と光景の中、その声はよく響いた――が、ラーヴァグルートが何らかの魔術を発動させたのと同時、声は聞こえなくなる。
一瞬の静寂。
その後に光が満ちて、とてもじゃないが目を開けていられなくなってしまった。
ヘルムートだけではない。この場にいる誰もが目を閉じていただろう。
本来ならばそれは隙であるはずだった。けれどもロクに身動きも取れない状況で逃げ出せるはずもない。
縛られていた縄の感覚が消えた気がして、そして瞼越しにあった眩しさも落ち着いたからか、ヘルムートは恐る恐る目を開けた。
「ひっ……!?」
そして気付く。自分の置かれた状況に。
大国ロジアードの王族は高い魔力を持っている。それは周辺国家含めての常識でもあった。属国でもあるメルクシュテンが知らないはずもない。けれども、なんだこれは。規格外ではないか……!!
自らの置かれた状況に気付いた者たちは、引きつったような声を上げていた。中には叫ぼうとした者もいたかもしれない。けれども、到底叫べるような状態じゃなかった。
ヘルムートを含めこの場にいるメルクシュテンの者たちは、ラーヴァグルートが魔術で召喚、もしくは作り上げたギロチンに拘束されていた。
よりにもよって刃を落とすための縄は、それぞれが自らの手に握られている。
これでは何かの拍子に自分の手から縄が滑ろうものなら、そのまま上から刃が落ちてくるのは間違いない。それに気付いたヘルムートは、手にじっとりとした汗を感じながらもしっかりと縄を握りしめた。手を離したらその時点で終わりである。
ヘルムートだけではない。他の者たちもその事実に気付いて、恐怖に引き付けのような声を上げながらもしっかりと縄を握りしめている。
「聞け! メルクシュテンの者たちよ!」
ラーヴァグルートの声が響き渡る。
恐らくは拡声魔術か、それに近しい何かが使われているのだろう。その声はとてもよく聞こえた。
「貴様らは大罪を犯した! 本日はその犯した罪の清算を行う!! メルクシュテンの者は誰一人この粛清から逃れられないと思え!!」
「ちょっとまて、まさかそれは……」
ラーヴァグルートの言葉に、嫌な予感がして思わず声を出せばラーヴァグルートはその通りだとばかりに頷いた。
「愚かしいにも程がある新王ではあるが、そこは気付いたようだな。そうだ、王都だけではない。メルクシュテンに存在する町や村、全ての人里も王都と同じく全ての民をこのようにしている」
大国の若き王の言葉に周囲が騒めいた。それはつまり、メルクシュテンの国民全員に対してこの魔術を発動させているという事だ。確かにロジアードの王族が持つ魔力は凄まじいと言われている。だがしかし、まさかこれほどのものだと一体誰が思うだろうか。
「お待ちください王よ、我らが主よ。大罪、それも国全体が、とは一体どのような罪を犯したというのですか」
声を上げたのはヘルムートの父、先王ウィルフリードだ。自らのギロチンの刃を下ろす事になる縄を持つ手がかすかに震えている。その言葉を聞いてヘルムートもまた、そうだ、一体どんな罪を犯せばこのような事になるというのだ、と思い始めていた。
父も、自分も悪政を敷いたわけじゃない。少なくとも王家も民も、こんな目に遭うはずがないのだ。
だがしかしそんなウィルフリードの言葉をラーヴァグルートは鼻で嗤った。
「罪を犯した自覚なし、とはな。救えん。
どちらにしても死ぬタイミングは貴様らに任せておこう。死ぬ覚悟ができたものから手を離すが良い。もっとも、惨めに縋り付いていたとしても、数日が限度だろう。こちらの魔力が尽きる事を期待するのは無駄だと心得るがいい」
その言葉がキッカケだったかはわからない。けれども、あまりの恐怖で手元が狂ったのかそれとも尋常じゃない手汗が出たのか、縄を持つ手が滑りその勢いで刃を落下させてしまった民がいた。
近くにいた者たちの悲鳴が上がり、首が転がり落ちる。その光景を見て咄嗟に助けようと思ったのかもしれないが、動きを封じられているという事を一時的に忘れたのか、そのまま更に手を離してしまった者が現れた。落ちる刃。転がる首が増えた。
死んでしまった者の友人か、家族かはわからないが泣き叫ぶ声が聞こえる。ヘルムートのいる位置からは遠いがそれでもその声はよく聞こえた。
父ちゃん! という子供の叫び。駆け寄ろうと思ったのか子供の手は呆気なく縄を離し、次の瞬間にはその首は胴体から離れていた。
その子供の母だろうか、いやあああああ!! という絶叫が聞こえる。
助けたくとも助けられず、駆け寄りたくとも駆け寄れない。それどころか、下手に何か行動をしようと思えばうっかり縄を手離して自分の首が次はこうなるのだ、と目の前の光景はそう伝えている。
斬首刑というものを知らないわけではないけれど、それでも普通に生きていればそんなものは自分とは無縁の存在だ。
だがしかしその無縁の存在は今、自分だけではない。友人や家族、知人、それ以外の同じ国に住んでるだけの他人であっても等しく彼らの前に在る。
上がる悲鳴。
助けを乞う声。
一体どうしてこんなことを! と真実を求める声。
様々なものが一斉に沸きあがる。
だがしかしラーヴァグルートは無感動にそれらを眺めているだけだ。
民が傷ついて心苦しい、なんて感情すら存在していない。
「メルクシュテンがロジアードの属国である事は当然そなたらも知っていよう。むしろ知らない方がどうかしている」
そう言葉を紡いだラーヴァグルートに、周囲はまだ混乱がとけていないがそれでも自分たちが置かれた状況がハッキリするとでも思ったのか、聞き逃さないようにと必死で声をおさえようとしている。けれども既に知った者を失った者たちの、引き付けのようなしゃくりあげる声までは抑えきる事ができなかったようだ。無理もない。
「数年前、我が国の至宝とまで謳われた我が妹が誘拐された。それについてはこの国も知っているな?」
「王女が誘拐されたって話か……確か、今になっても見つかっていない。だが! それとこの国と一体何の関係がある!? 属国でありながら主とした国の王族に手を出すなどあるはずがないだろう!!」
そうだ。あるはずがない。そんな事をすればこの国がどうなるかなんてわかりきった事ではないか。
だからこそかの国の王女は周辺のどこかの国がやらかしたものだと思っていた。一応それでも念の為、メルクシュテンに迷い込んではいないかとざっと捜索はしてみたが、それらしき人物の情報はなかったはずだ。
当時その話が出た時ヘルムートはまだ幼かったけれど、それでも覚えている。
下手をすればメルクシュテンの国も危うくなるのだから。ロジアードが周辺の国家と戦争を始めれば、いかに聖女の加護があろうと無事でいられるはずもない。
「だが貴様らはやらかした。結果がこれだ」
「そんな……!? それは何かの間違いだッ! メルクシュテンはロジアードに逆らうつもりはないっ! それはきっと冤罪だ!!」
ヘルムートが声をあらん限りに張り上げる。
けれどもラーヴァグルートの表情は冷ややかなまま変わる様子もない。
貴様の言葉など誰が信じるものか、というのがありありと浮かんでいた。
「――いいえ、しでかしたのです。愚かにも」
声は、静かなものだった。けれども同じように拡声魔術が使われているのか、とてもよく響いた。きっとこの言葉はこの場だけではない。メルクシュテン全土に届いているのだろう。
ラーヴァグルートではない声。その持ち主は女であった。
艶やかな長い髪を揺らし、ラーヴァグルートの隣に並び立つ。
王の隣に許可なく並び立つなど、普通であればやるはずがない。下手をすれば直後に首が飛ぶのだから。
女は美しくはあったが、やや痩せていた。もう少し肉がついていれば、きっと魅惑的な肉体だっただろうに……なんて、場違いにもヘルムートは考える。
「聞け! メルクシュテンの者たちよ! 私はロジアード王女、ヴェスヴィアス! そなたたちの罪を明らかにする者だ!」
女の声は静かでありながらも苛烈であった。その奥底にあるのは決して友好的なものではない。
行方不明であった王女の登場にその場にいた者たちはある者は困惑し、またある者は「本当に本物なのか……?」と疑いを抱いたようだ。
だがしかし、その隣にいるラーヴァグルートの態度がそれを示している。疑いは早々に消えた。
「数年前、私は視察でこの国を訪れ、国境付近の小さな村にいた」
王女の語りに、彼らは必死で耳を傾けた。
王女に何かしたなどあるはずがない。だからこそ、その話の中でどうにかしてメルクシュテンは無実であるという証明を見つけなければならないのだ。既に失われた命もあるが、だからといってこのまま全員が自らの手で断頭台の刃を下ろすなど、していいはずがない。
「メルクシュテンは属国。とはいえ、我がロジアードとの仲は悪くない。国境付近の小さな村で、危険はないものだとあの時の私は信じていた。
だが! それをこの国のやつらは容赦なく踏みにじったのだ! 私はこの国の奴らに捕らえられた!」
「なん……」
ヘルムートは信じられないとばかりに目を見開いた。だってそんな、有り得ない。あっていいわけがない。
そんな事をすれば国は終わる。メルクシュテンは聖女の護りがあっても小国で、いざ戦争となった場合ロジアードに負けるのは明らかだ。国力が圧倒的に違い過ぎる。それはまさしく、一匹の蟻が竜に挑むが如く。その状況で挑もうなど誰が思うのだ。
「私は帰りたいと必死に訴えた。その時に捕らえた者はこう答えた。
役目を果たせば帰してやる、とな。
ロジアード王女に対してなんたる無礼か。そうして連れていかれた先で私は強制労働と虐待を受けた。
王女が奴隷同然の待遇だ。この国は随分と偉くなったものだな?」
ヘルムートは危うく目の前が真っ暗になるところだった。その拍子に手元が緩んで危うくギロチンの刃を落としかけ、慌てて掴みなおす。
王女を捕らえて誘拐からの身代金要求であればまだしも、よりにもよって奴隷同然の扱い……しかもそれを行ったのがこの国の人間。
終わった。
どう考えても終わった。
しかも王女が行方不明という話が来た時点で、一応王女らしき人物の捜索はしたがあれは恐らく形だけだ。そこまでしっかりとやったわけではないだろう。何せ属国でもあるこの国が、ロジアードの王女に手を出すなどあるはずがなかったのだから!!
ここでヘルムートたちが何らかの情報を掴んでいて、それで王女を救い出したとかであればまだ助かる道はあった。だが既に王女はラーヴァグルートの隣にいる。この国の誰かが助けたわけではない、というのはこの時点で察する他ない。むしろ助けていたのであれば、国民総出でこんな目に遭うはずがないのだ。
「私を捕らえた者はある建物に私を閉じ込めた。そうしてそこから出られないよう、制約の魔術を我が身に刻んだ。これで私は逃げられない。
それだけではない。その後、望まぬ相手との婚約を無理矢理結ばされたのだ!!」
なんって事しでかしてるんだどこの誰かは知らないが!!
ヘルムートは叫ばなかったが、内心は穏やかではない。
とんでもない事をしでかしてくれたな……そいつのせいで今この国は、自分たちがこんなことになってるのかと思えば殺意しか沸かない。誰だそいつ。むしろそいつこっちで処刑させてくれないかな。そんな風に思ってしまう。そいつのせいで今自分たちが死にそうな目に遭っていると思えばその感情の帰結は当然のものであった。
「その婚約者が私を丁重に扱えばまだしも、そいつは私に暴言を吐き、あまつさえ結婚してやるのだから有難く思えなどと言い放つ始末。
それだけではない、制約魔術によって私は余計な事が言えないよう、最低限の受答えしかできないようにされていた。だからこそ相手に反論したくともできず、虐げられる日々は長く続いた」
どこのどいつか知らないが大国の王女、それもかなりの美人相手になんて態度だ。
むしろこっちから結婚して下さいと願っても叶わないような相手に何たる無礼。
「その建物で日々過去の因習かは知らぬが無駄な禊をさせられ、建物の中での掃除を強いられ、更には毎日一定量の魔力を無理矢理供給させられた。食事は常に残飯のようなもの、更には休みなどロクに与えられず!
それだけではない。そこには私と同じ立場の者もいたが、そいつらは私と同じ立場でありながら私と同じ事をしていたわけではなかった。
本来ならばそやつらの役目も含まれていたのだろう。私は、無能の尻拭いをさせられ! あまつさえ! そいつらに手柄を横取りされ! 更にはこちらが虐げられているというのに自分こそが被害者だなどという戯けた戯言を言いふらされたのだ!」
ゆらり、とヴェスヴィアスの周辺の空気が揺れた。
あまりにも高密度の魔力が陽炎のように揺らめいている。それが怒りによるものだというのは、言われずとも理解するしかない。この期に及んで理解できていない奴がいる方がヘルムートとしては恐ろしいくらいだ。
「そして望んではいないが一方的に婚約者となった男はその言葉をまんまと信じ込み、掃除をした直後で汚れていたバケツの水をかけられた私と、加害者でありながら被害者ぶったそいつとを見て、加害者が私であるなどと信じる始末! 望まぬ婚約者ではあるが、その婚約者を狙っていたその女も大概であるな。
こんな愚か者を誑し込んだところで、落とせて当然だろうになぁ?
まぁ、そやつができた事など精々が制約で縛られ自由を失った相手に威張り散らす事と男に擦り寄り股を開くだけ。娼婦以下と言ってもいい。
ある意味で似合いではあったな」
は、と鼻で嗤う王女に、そこまで言われてる奴は一体誰なんだ……と思う。
そんな大馬鹿のせいで今こうなっているのだ。留まるところを知らぬ底なしの馬鹿。
まさか自国にそこまでの愚か者がいたとは……知っていたならこうなる前にそいつを始末していたものを……!
「だが、その阿婆擦れには多少感謝をしているのだ。そいつが愚かにも婚約者を奪ったおかげで、私は解放された。婚約を破棄され、それと同時に制約も解除されたのだからな。そして建物を追い出され、こうして無事国へ戻る事となった」
あー、やっぱりかー。
馬鹿はどこまでも馬鹿なんだなー。
ヘルムートは王女の言葉に死んだ目をして見える範囲を見回した。
今いる位置からその大馬鹿者の姿が見えたりしないだろうか、なんて思ったからだ。まぁ誰がそうなのかわからないのだが。
「感謝しているからこそ、このような処刑方法にしたというわけだ。そうでなければ今頃もっと酷い殺し方をしていた。メルクシュテンの民たちよ、良かったな。まだ尊厳を保てる死に方だ」
そう言って嗤う王女の表情はまさしく大輪の毒の華であった。
多少痩せているのはつまり、今までロクに与えられなかった食事のせい。それでも自国へと帰還を果たし、ある程度健康になったからこその今なのだろう。ここでの事が終わり帰還すれば、自国で自らを危険に晒すような者が近くにいない環境で生活していけばきっともう少し健康的な身体になる事だろう。
そうなれば、この女は今よりもっと美しさを増すのだろうな――ヘルムートはどこか現実味のないままにそう思っていた。
「さて、そろそろ気になっているのではないか? そのような愚行を犯した愚か者の存在を。
教えてやろう。己が立場を弁えず私を婚約者としておきながら虐げてきた者の名をヘルムート、そして私を虐げ偽りの聖女でありながら真の聖女を名乗り、男の妻へとおさまった毒婦の名をリリムという。
そう、そこにいる新王とその妃だな」
「――っ!?」
驚きの余り握っていた縄を手放さなかった事だけでもマシだっただろう。
すぐ近くの断頭台から「そんな、まさか……」といった声が聞こえた。それが誰の声かなんて今更すぎる。妻だ。真の聖女であると自分が認め、結婚し王妃となった女の声。
それだけではない。
その名が公表された瞬間、周囲から凄まじいくらいに鋭い視線が飛んできた。
視線だけで穴が開いてしまうのではないかと思えるような鋭さ。間違いなくそこには殺気も含まれていた。
ヘルムートだってこの場に下手人がいて、それが自分でなければその相手を睨みつけていた自信がある。
そんなまさか、とリリムが呟いていたが、それはヘルムートも口に出しかけていたものだ。
「誘拐された直後の私は恐怖であまり口が回る事もなく、名を聞かれた時にヴェスと告げたが捕えた神殿の者はベスと認識した。あぁ、そうだな。聖女候補として連れてきた逸材によって神殿内部での立場を向上させた神官長、元凶は間違いなくそなたであろうな」
その言葉に。
ヘルムートは自分の事を棚に上げて神官長がいる方向へと首を向けて睨みつけていた。
聖女とは国の宝である。
聖女の守りによってこの国は栄えているのだから、宝であって当たり前だ。
そんな象徴でもある聖女と王とが共に在れば国は安泰だと思われる。
そしてあの時点で聖女としての力が最も強かったのはベスだ。
それはそうだろう。規格外の魔力を持ったロジアードの王族だ。それとただの魔力持ちの人間と比べれば月とスッポン。
だが、そうか、そういう事か……とヘルムートは今更すぎる事実に気付く。
ベスは陰気な娘だった。
ロクに喋らず、こちらがそれでもせめてと接触しようとすればそれを拒絶する。
そのせいで余計にヘルムートはベスに対して苛立ちを覚える結果となったわけだが、こうして明らかにされれば当然だ。
ヴェスヴィアスからすれば属国の王子が許可も取らずに馴れ馴れしく接してくる。立場も弁えずにだ。
制約があったからこそ、ヘルムートは無事だった。そうでなければあの時点で彼女の有り余る魔力によって滅ぼされていたかもしれない。
いや、こうして結果を見れば遅かれ早かれといったものだが、それでも。
自分に対して一向に受け入れる様子もなく拒絶の姿勢を保ち続けていたベスに、ヘルムートだってこんな娘と結婚など! と思っていたのは事実だ。
だが、彼女は制約のせいでロクに言葉を喋れないようにされていただけで、内心では様々にヘルムートやこの国を罵っていた事だろう。
ロクな食事を与えられず、それでいて他の聖女候補の分まで聖女の役目を強いられたのであれば、確かにマトモに休めるはずもない。
そうして酷使され続ければ、健康からは遠ざかる。
ベスの目の下に常に隈があったのは当然であったのだ。
なんて事だ……! さっきまで聞いていた話は、言われてみればまさしく神殿での事だ。
ヘルムートにも覚えがある。
どうして気付けなかったのか。話の途中でも気付けていたら、そこで誠心誠意謝罪をしていれば。
聖女候補として捕えたのはヘルムートではない。当時はまだ一神官の立場であった今の神官長だ。
あいつは有力な聖女候補を連れてきた事で神殿内部での権力を得て、そうして一気に神殿内での権力の頂点へと駆け上がった。
この時点ではまだ、メルクシュテン全土を粛正するまでではない罪だ。この時点であれば誘拐犯の首を差し出すだけで済んだはずだ。
だがしかし今、その責任は国全土に追及され、挙句この国の王はヘルムートである。
まだ先王の時点であれば自分はリリムに騙されていた、などと言い逃れる事ができたかもしれない。いや、相手を考えるとその可能性はとても低いが、それでも見目の悪い娘を婚約者に勝手に宛がわれた精神的に未熟な王子が拗ねていただけだ、だとか自分の人間性を貶める結果となってでも可能性はゼロではなかった。
ひたすら自らの人間性の未熟さに焦点を当てれば、或いは――などと思えてしまう。
直接的にやらかしているのはヘルムートもであるが、比重としてはリリムの方が圧倒的に多いだろう。何せ同じ聖女候補として神殿で生活していたのだ。接する時間が段違い。
リリムもまた、大勢の前で毒婦などと呼ばれ周囲からの鋭い視線に晒されているせいか、その表情はすっかり血の気をなくし真っ白になっている。
違う、違うの……なんて小さく呟いて首を横に振っていやいやをするようにしているが、首は拘束されているので思っているよりも動いていない。カタカタと震える手はそれでも縄をしっかりと握りしめているが、何かの拍子にすり抜けてしまいそうだった。
「……待て、さっき男に擦り寄り股を開く、とか言ってたな。俺は、リリムとは結婚するまで清い関係だったぞ……? では、他に相手がいたという事か……?」
今聞くような事ではないのはわかっている。わかっているけれど、今聞かなければこのまま有耶無耶になると判断して思わずヘルムートはそんな事を口にしていた。
「ちがっ、ちがうわ、貴方だけよヘルムート! 信じて頂戴!!」
リリムが叫ぶ。それは考えてというよりはほとんど反射のようなものだった。
「何を言っている。そなたは神殿の中で自由を得るために神官長だけではなく、それ以外の者ともまぐわっていたではないか。正直おぞましいとしか言いようがなかったが私は確かにこの目で見たぞ」
「いやあああああああ! 違うッ! 違うのぉぉおおおおおおお!!」
狂ったようにリリムが叫ぶ。
「何が違う。私はこれでもロジアードの王族だ。言葉の重みは理解している。そしてその私が見た、聞いたと証言しているのだ。それを疑うのは王家に対して不審を抱くという事だが……属国であるメルクシュテンの新たな王妃は我が国に対して何か不満が?」
「あっ……ぁ」
リリムとてそこまでの馬鹿ではない。
属国であるというのは理解している。その上で、小国であるが次期王となるヘルムートを篭絡したのだから。流石に大国の王族と知り合う機会など普通に神殿で聖女候補として生活している時点であるはずがない。それならば、自分が知り合える範囲の中で最高の権力者を狙うのはリリムにとってはある意味で当然の事だった。
そしてリリムとて、属国の立場でありながら、ロジアードに歯向かうという事がどういう事か、それくらいは理解できている。理解しているからこそ、ヴェスヴィアスに今までしてきた仕打ちを思えばどう足掻いても自分が助かる道はない。それもまた理解していた。
ヘルムートもまた信じられないようなものを見る目をリリムに向けてしまっていた。
神官長はそれなりに年だ。それこそリリムとは親と子くらいに離れている。
リリムに対してヘルムートはそれなりに誠実であった。婚前交渉はしていなかったのだ。驚く事に。
そりゃあ、もっとイチャイチャしたいと思った事もあったし、だからこそ二人きりの時はそれこそお互いに離れないとばかりに抱きしめ合って激しい口付けをかわしたり、まぁちょっと身体をまさぐったりはしたけれど。それでも最後までは致していない。
ヘルムートなりに結婚するまではお預けだと自分を律していたのに。
けれどそれ以前に、他の男に股を開いていた、などと言われて。
「この売女が……!」
裏切られた、という思いが広がる。
結婚して初夜を迎えた時、確かに純潔の証があったはずだが、それも仕込みだったという事か。そういえば聞いた事がある。娼婦の中でも初めてを売りにする者がいて、実際は初めてじゃなくてもそれっぽく見せる小道具があるのだと。
恐らく自分はまんまとそれに騙された。
もしくは治癒魔術で膜を治したのかもしれない。
どちらにしても汚らわしい。
自分の親くらいに年の離れた男と平然と寝た挙句、それ以外の男とも既に関係を持っていたなんて。そのくせ自分には清純を気取って、自分はそれにまんまと騙され。
「幸い、私の自称婚約者様は私に対してロクに触れる事もなかったからな。純潔を失うような事がなかったのは救いだった。神殿の中でも私という存在は単なる魔力供給器だったのだろう。とはいえ、その行為を許せるものではないが」
ヴェスヴィアスの言葉に冷や水を掛けられたような気がした。
そうだ、もし婚約者なのだからと無理矢理コトに及んでいたら。
そうしたら今頃はどうなっていたのだろう。
間違いなく今以上に酷い事になっていたはずだ。
「愛しているのは貴方だけなの信じてちょうだいヘルムート……!!」
「黙れ。汚らわしい。貴様のような女に騙されていたとは業腹だ。何が聖女だ。もう顔も見たくない」
「そん、な……」
もし拘束されていなければきっとリリムはヘルムートに縋りついていただろう。だがギロチンによって固定されていたのでヘルムートがリリムから視線を逸らせばそれだけで彼女の存在は視界から消える。
シャン、という音がして、ギロチンの刃が落ちる。
一瞬遅れてごとり、と重い音がして首が一つ転がった。
転がった首はリリムのものだった。
ヘルムートの視界に、彼女の首が転がり入り込んでくる。
ヘルムートからの拒絶の言葉に絶望したリリムは、無意識のうちに手の力を緩めてしまった。その結果がギロチンの刃を落としてしまった。ただそれだけの事ではあるのだが。
王妃が死んだという事実に、周囲にいたメルクシュテンの民たちの悲鳴が上がる。
その中には罵倒も一部含まれていた。
既に命の灯を消してしまったリリムの首は、その目に光など宿していない。それでも彼女の眼球は、ヘルムートがいる場所を向いていた。
リリムが死んでしまった事に、ヘルムートの胸にぽっかりと穴が開いたような空虚な感覚を覚える。顔も見たくないと今しがた言ったのは本心ではあるけれど、だからといって死んでしまえと思ったわけではない。
裏切られた気持ちになっていたけれど、だからといって永遠の別れを、とまでは思っていなかったのだ。
けれどもリリムの首は転がってそこにある。もう彼女がこちらに笑いかけてくることもない。
彼女と出会ってから今までの事が脳裏をよぎって、ヘルムートは彼女に対してとんでもない事を言ったのだと自覚する。
確かに裏切られたという思いもある。汚らわしいという思いもある。
けれど、彼女を好きだった気持ちまで完全に失ったわけじゃない。
もしかしたら時間の経過と共に許せないと思えたかもしれないし、逆に許せる日が来たかもしれない。だが、それはあくまでもお互いが生きている事が前提だ。死んでしまった以上、先の言葉は取り消すなどと言おうにも相手に伝わる事はない。
「さて、神官長よ、一応そなたの言い分も聞いてやろうではないか。どうせロクなものではないだろうがな」
「仕方がなかった! あの時のメルクシュテンは先代聖女の力がなくなりかけていて、あのままでは国の危機であったのだ。だからこそ早急に次なる聖女になり得そうな者を集める必要があった! お……貴方様がロジアードの王族であったなど、当時のわたくしには知る由もなかったのです!!」
「ほう? 国の危機、なぁ?」
にやり、とヴェスヴィアスは口の端を吊り上げた。
「私が故郷に帰りたいと言った時、役目を果たせば帰れると言ったな。
だがそなた、その後故郷は滅んだと、確かにそう言った。その時点でお前の言葉は信用に値しないと思っていた。メルクシュテンがロジアードに勝てるはずがない。我が故郷が滅ぶなど、もしそうであればそれより先にメルクシュテンが滅びておるわ。
とはいえ、その言葉が気にかかっていてな。こうして自由を得たので一応調べてみたのだが……なぁ神官長よ、お前、私が視察に訪れていた村を滅ぼしたな?」
偽りの聖女であったリリムの死に未だ動揺していた周囲の民たちがその言葉に一瞬静まり返った。
ロジアードとメルクシュテンの国境付近にある、メルクシュテンからすれば辺境扱いの小さな村。
特に何があるでもない、あえて言うなら自然が豊富な、主に森での狩りや田畑での実りで日々の糧を得る平和でのどかな村だ。
暮らしは裕福であったか、と聞かれれば王都などとは当然比べるべくもない。が、それでも当時、ヴェスヴィアスが視察で訪れた時、あの村の人たちは満ち足りた顔をして暮らしていた。
自国の、ちっぽけな村。
当時まだ単なる神官であった男は、ヴェスヴィアスをあの村の子だと勘違いしたのだろう。視察であったが、いかにも王女である! といった見た目で行ったわけではないのだ。もっと露骨にわかりやすければそもそもこんな事にはなっていなかった。
小さな村の娘。であれば何の権力も持つはずがない。
親と引き離され帰りたいと訴える小娘を脅すなど、そうして言う事をきかせるべく術を施すなど、当時の神官たちからすればとても容易かったに違いない。
いくら絶大な魔力を持つロジアードの王族と言えど、幼いうちから圧倒的な力を所持していたわけでもない。当時のヴェスヴィアスは周囲と比べて頭一つ飛びぬけているが、それでもまだ脅威と恐れられる程ではなかったのだ。だからこそ、今こうして彼らにとっての悲劇は訪れているのだが。
故郷に帰りたいと願う小娘の心の縁である村を滅ぼし、お前の聖女としての力不足であったからあの村は魔物に襲われ滅んだのだと確かに当時、神官長補佐になっていた男は告げた。
もし、実際にどこかから実は村は無事であった、などと知られなぁんだ無事なんだ、と安心されてそこで聖女としての役目を果たさなくなるのも困ると思い、娘の大切なものは徹底的に奪う事を決めたし、他の――それこそ自分が神官長になってから便宜を図ると言って味方に引き込んだ者たちとであの村を滅ぼした。
国一つ攻め滅ぼすのであればそう簡単にはいかないが、小さな村一つならそこまで苦労する事もない。
村の井戸に遅効性の睡眠薬を投げ込んで、すっかり寝入った頃を見計らって燃やせばそれでほとんど片が付いた。
娘の両親と思しき者を人質に、と考えなかったわけではないが、それらしい人物は見かけなかった。娘がいなくなりもしかしたら僅かな希望を持って探しに出た可能性もあったけれど、それが王都の神殿まで来る可能性はとても低い。些事である、と神に仕えるはずの男は己の計画が達成されたのだと判断した。
「国の危機であるならなおの事、自国の民には一丸となって協力してもらうべきではないだろうか。まさか何の罪もない村一つ、焼き払うなど思いもしなかったぞ。
国の危機が何かは知らぬが、少なくとも危機的状況を呼び込んだ存在が言っていい言葉ではない」
「う、うぅ……」
言い返せるはずがなかった。娘があの村の人間であれば神官長のやった事は褒められたものではないが、まぁ効果はあったかもしれない。けれども実際は一切の無関係。たまたま立ち寄っただけの場所でしかなかったのだから。
「そなたが今どき流行りもしない昔の聖女が行っていたとされる禊だのを強制したおかげかは知らぬが、神殿にいる間に私の魔力も磨かれる事となった。結果として聖女として力を搾り取られる事にもなったが、それから解放された今、この身に宿る魔力は確かに私にとっての財となったのは事実だ」
「で、では……では、なにとぞ、お慈悲を!」
何を考えるでもなく神官長はそう叫んでいた。
自分だけでも助けてくれ! そんな思いがありありとその言葉にはあった。
ある意味で元凶でもある男の言葉に周囲からふざけるな!! という罵声が飛ぶ。だがしかし神官長はその言葉に怯むでもなくヴェスヴィアスを見つめていた。
魔力を多く持つ娘。聖女候補。自分は国のためにそれを見つけてきただけ。
そうして修行させて、国のためにその力を使わせた。国は聖女の護りを得、結果として栄えたのだから、男の行いは国からすれば褒められこそすれ誹られる事など……!!
自分はもうそれなりに年なのだから、今後の人生を謳歌して然るべきはずなのだ。国のために働き、結果を出してきた。であれば、救われてもよいではないか……!!
神官長となった男は、本気でそう信じていた。
その手を出した相手がとても悪かったという部分は今までの働きで帳消しにでもなると思い込んでいるのかもしれない。そんな事、ロジアードからすれば知った事ではないのだが。
「ふむ、そうだな……」
ぽつり、と呟かれた言葉に神官長は目を見開いた。その言葉はまさしく救いの一手となりうるかもしれないものだったのだから。
「古臭い、それこそ無駄としか言いようのない禊を、そなたは神官なら、他の聖女候補たちも皆やっている、と言っていたな。実際実行しているのを目にした事は神殿に捕らえられていた間、一度たりとてなかったが」
連れてきた当初、確かにベスはそう言った。その後はやりたくないとごねるのを宥めすかすのも面倒だと思い早々に必要最低限の会話以外を封じるため制約をかけたが、確かにあの方法はベスだけがやらされていた。
他の者も、と言いはしたが正直誰もやっていない。修行にしろ禊にしろ、今の時代にはナンセンスな代物であったからだ。
「私よりも長い事神殿に身を置いていた神官長だ。きっとさぞ、洗練されているのだろうなその魔力は」
助かるかもしれない……! と思っていたが、ここに来て途端に嫌な予感がし始めた。
「よし、ではここで一日に聖女が国のためにおさめていた魔力と同じ量を放出してもらおう。そもそも属国のために私の魔力が一方的に搾取されていたのだ。本来ならばそなたらは懇願すべき立場であるはずなのに、我が物顔で使いそれを享受し当たり前だと思い込んでいた。
実に――許し難い。
既にお前らはロジアードから見れば属国などではない。ただの寄生虫だ。そうだろう?」
「な、あ、ぁ、ぎゃあああああああああ!?」
途端神官長から絶叫が迸る。
カッと彼がいた場所から光の柱が立ち上り、凄まじい勢いで魔力が放出されているのを、周囲にいた者たちはただ呆然と眺める事しかできなかった。
ヴェスヴィアスの言い分を、ヘルムートとて理解できないはずもない。
王族の財産を使用人が我が物顔で食い潰しておいて何の咎もない、などあってはならない事だ。
盗人には罰を。
メルクシュテンは主と仰ぐ王族を搾取していた、つまりはそういう事になってしまう。
王族だけではない。この国で暮らし聖女の護りの内で安寧に過ごしていた者たち全てが対象となる、というそれに、ようやく気付いた者たちが狼狽えだした。
カシャン、という音とともにギロチンの刃が落ちたのはそれからすぐだった。
「おや」
ころりと落ちた首に、ヴェスヴィアスは特に感情を浮かべるでもなく見下ろす。
「私の一日の消費魔力量にはまだ達していなかったのだが、数秒もたなかったのだな。神官長の魔力は」
強制的に絞りとられた魔力だけでも足りず、どうやら生命力さえも魔力に変換したようだ。
それなりの年であった神官長はそれでも贅沢をしていたせいか肥え太っていた。だが今では別人のように、しわくちゃの、まるで枯れ木のような存在になり果てていた。
手にしていたはずの縄は、一瞬で萎れた時に掴む力が追い付かず手の中からするりと滑っていったのだろう。結果としてギロチンは、更に残りかす状態であった神官長から何もかもを搾り取る前にその生命に終わりを告げた。どちらがマシな最期であったかはわからない。何せ結果はほとんど同じだ。
神官長の最期に驚いた拍子に数名手を離してしまったものがいたらしく、連続してギロチンの刃が落ちる音が聞こえたが、ヘルムートはもう何も思わなくなってしまっていた。
助かる道はどこにもない。
こうなれば嫌でも理解する以外ないからだ。自分たちは関係ない、と思う民もいるだろう。けれど、聖女の護りの上で過ごしていた以上、関係ないは通用しない。メルクシュテンで暮らしていただけで聖女の恩恵にあずかっている。日々の安寧を得ておきながら関係ない、など通用するはずがないのだ。
「……そうだ、メルクシュテン以外の者たちは……?」
小国ではあるメルクシュテンであっても、自国の民だけしかいない、なんて事はない。
他国から商売に訪れた者、留学のためにこの国に滞在していた者など様々な理由でこの国に訪れていた者がいるはずだ。
ヘルムートのそんな呟きに、今まで傍観していたラーヴァグルートはあぁそんな事か、とあっさりとこたえた。
「そういった者たちはとっくにこの国から脱出させている。ここでこうなっているのは、あくまでもこの国の民だけだ」
その言葉に安心すればいいのかは謎だった。
この国の民、とはどこからどこまでを指すのか。
他国からここに渡ってきてここで暮らそうとした者は……?
いや、考えるのはよそう。
今になってやはりこの国の住人ではないと否定し難を逃れたにしろそれができなかったにしろ、それがまかり通るようであれば今拘束されている者たちもこの国を捨て他の国の民となる、なんてこぞって言い始めるのが目に見えている。一人二人であっても煩わしい可能性があるのに、この場の大勢がそんな事を言い出した場合ラーヴァグルートが、いや、ヴェスヴィアスの機嫌も損ねるのが目に見えている。
そうなれば最悪ギロチン以外の死刑方法に変更されるかもしれないのだ。
最終的に死ぬ未来はどう足掻いても変わらない――
どうして。
一体どうしてこんなことに。
何度目かもわからない嘆き。自分がもっとベスの事を大事にしていればもしかしたらこうはならなかっただろうか。リリムがベスに嫌がらせをされている、なんていうあからさまな嘘を信じなければ或いは――
いや、どうあってもあの時の自分はベスよりリリムをとっていただろう。
見た目にも陰気でロクに喋れない――制約のせいではあるのだが――じっとりとした目で睨みつけてくるようなベスと、彼女とは異なり明るく時として健気さすら感じられる――まぁこれは大半演技だっただろう――まさしく聖女の鑑であると思われていたリリム。
いつぞやびしょぬれになったベスと何事もないリリムとを見ても、ベスが被害者だとは思えなかった。
むしろ被害者ぶっているように見えていたくらいだ。
「属国でありながら我がロジアードの王族を食い物にした罪は重いぞ。犬であればまだ如何様にも躾けられたであろう。だが貴様らは犬以下だ。畜生にも劣りロジアードにとっては害獣にも等しい。であれば、処分は決定事項である。
三日。貴様らに与えられた猶予だ。それまでに覚悟を決めて潔く刃を落とすがよい」
ラーヴァグルートが静かな声で告げる。
静かな、といっても拡声魔術でメルクシュテン全土にこの声は通達されているわけだが。
「三日、経っても生きていた場合は……?」
ヘルムートの近くからそんな疑問の声が上がる。
騎士団長だろうか。どちらにしてもヘルムートは既に悟っている。その質問は無意味だと。
中にはその疑問に希望を見出した者もいるかもしれない。愚かな事だ。もう誰もこの国の人間は助からない。
そもそもギロチンの刃を落とす事になる縄は自らの手に委ねられているが、このまま三日も持ちこたえられるかという話でもある。三日間不眠不休で縄から手を離さず、というのを実行できる者が果たしてこの中にどれだけいるだろうか。
緊張のし過ぎで眠れない可能性はある。けれども、突然眠気に襲われてその拍子に手の力を緩めてしまう可能性の方が圧倒的に高いだろう。
それにこの状態で身動きが取れないまま三日、となれば空腹は勿論、トイレに行きたくとも行けず、そうなれば垂れ流すしかない。
いっそ死んだ方がマシだと思う者は多いのではないだろうか。
そのあたりを考えれば希望なんて到底あるはずもないだろうに。
事実ラーヴァグルートはその質問をした相手に一瞬だけ視線を向けこそしたものの、それだけだった。
その瞳にはなんの感情もこもっていない。怒りも憎しみも憐れみも、何も。
「三日目にはこの土地は浄化される。転がり落ちた首を弔うつもりはないが、そのままというわけにもいかぬだろう。であるからして、焼き尽くす。首も身体も骨の一片すら残らず。
その時点でまだ生きている者も例外ではない」
事も無げに告げられた言葉に、一体何が言えただろうか。
誰かの息を飲む音が聞こえた。質問者か、それ以外か。もうこの際どちらでもいいだろう。
メルクシュテンの民全てを拘束しギロチンを各個人に宛がう時点で、これを行ったラーヴァグルートの魔術が早々に尽きるとは思っていない。けれどもロジアードの王族の魔力が凄いと聞いてはいてもそれがどれほどのものかを知らぬ者たちはきっと淡い期待を抱いた事だろう。
三日、乗り越えたらもしかしたら……と。
恩赦とは違うだろうけれど、それでも万が一を願ったはずだ。
しかし実際は。
更なる地獄が待ち構えているだけだった。
三日後には全てが焼かれる。
灰燼に帰す。
その時点で生きていたならば、確実に生きたまま焼かれ死ぬのだ。
「いやああああ! 火あぶりなんて冗談じゃないわよおおおおお!!」
「あっ、おい!」
遠くで聞こえた女の絶叫。それとは違う男の声。
カシャン、と刃の落ちる音。
何が起きたかなんてもう今更だった。
助かる道などありはしない。ならばいっそさっさと終わらせた方が――そこまで考えたかはわからないが、それでも次々に刃の落ちる音がする。
「そもそも、聖女は国の税金で養われているらしいが、そしてその上で自分たちの払った税金で養ってやっているのだからもっとその力を使え、などと言っていた民がいたがな。
養ってもらった上で残飯以下のものしか食せず、ロクに休みも与えられず酷使され続けていたくらいだ。
我が国の奴隷の方が余程高待遇だと言えような。
その程度でご高説を垂れ流すくらいであれば、いっそ聖女などに頼らなければよかろうに……」
心底あきれ果てていると言わんばかりのヴェスヴィアスの声に、心当たりがある者がいたのだろう。何とも言えない呻き声が聞こえてきたが、それが誰であったのかヘルムートにはわからなかった。
いや、確かにそうだ。聖女は国の象徴となるものでもあるので、国で保護しその生活費用は神殿経由であるが確かに聖女の暮らしを支えているものではあるのだ。
だが、間違いなくあの神官長は着服していただろうし、リリムあたりは自分はいい暮らしをしていたかもしれない。他の聖女候補であったものも、まぁ規定に沿った水準での暮らしは与えられていただろう。
ただ一人、最も高待遇で接するべきだった相手に全ての皺寄せを押し付けて。
ロジアードに奴隷はいない。かつてはいたが、今はもう廃止されている。そんな過去のものではあるが、それでもまだそちらの方がマシな待遇だと言われるというのがどういう意味であるかなんて、言われるまでもない。
この国の文明がそれだけ遅れていると揶揄されている。それだけだ。実際はそうでなかったとしても、ヴェスヴィアスにした事が消えてなくなるわけではない。反論などできようはずもなかった。
彼女が、ベスが、ロジアードの王族であるという事を知らなかったとはいえ、けれども本来は最も手厚く持て成さなければならない相手。しかし実際の待遇を見れば確かに奴隷同然と言われても仕方のないもので。
「では諸君、我らも暇ではないのでこれで失礼させていただこう。あまり手間を掛けさせるなよ」
ラーヴァグルートの言葉に他意などありはしない。そしてこの時点でこの場を去る事も彼らにとっては予定通りだったのだろう。
馬車が一台近づいてくる。
だがそれは馬の代わりに細身の竜が二体繋がれていた。
翼こそないが、陸を駆け回る速度は圧倒的と言われている種類の竜である、というのをヘルムートはぼんやりと思い出しその姿を眺めていた。
馬と違い竜というものは飼い慣らすにも難しく、こうして使役されている竜を見る事はかなり珍しい。
それがこうも従順な姿を見せているというだけで、それがどれだけ珍しい事か――
馬車――いや竜車と言うべきか――に乗り颯爽と去っていくロジアードの王族たちは、きっともうこちらの事など意識に留めてすらいないだろう。
そう理解しながらも、一体どうしてこんな事に……とヘルムートは何度目かの後悔をしていた。
――その後の事は、特にこれと言って何があったわけでもない。
大国でもあるロジアードの王族を聖女候補に仕立て上げ奴隷のように扱き使っていたという事実に、そしてその結果がこうであるという状況に、まだ生きていた者たちはそれぞれが喚き始めた。
先程まではラーヴァグルートがいた。下手な事を言えば直後その暴力的なまでの魔力でもって蹂躙されるかもしれないと思っていたけれど、既にいない。
そうして今まで黙るしかなかった者たちの不満は一斉にここで溢れかえってしまったわけだ。
とはいえ、聖女候補として誘拐してきた神官長は既に亡くなっている。恨み言をぶつけたくとも既に死んだ相手に何を言ったとて伝わるはずもない。
更にあの村が滅んだ原因であるという事で、あの村と交流していた近隣の町や村の者たちからも非難の声はあがったが、これもやはり元凶は死んでいるので意味のない暴言となり果てるだけ。
本来の聖女を虐げてその功績を奪い自分こそが本当の聖女だとのたまっていた王妃リリムもとっくに死んでいる。
ロジアードの王女が行方不明だという情報が流れてきた時点で、もっと腰を据えて捜索に関わっていればこうはならなかっただろうに、と嘆いたところで意味はなく、また先王にも非難の声は上がりこそしたがとっくに先王はその妻ともどもギロチンの刃の露と消えていた。
そうなると不満の行きつく先はただ一つ。
現王ヘルムートである。
婚約者でありながらその対応は不誠実。更には毒婦を妻に迎え入れるという体たらく。暗君などという言葉ですら生温い、などという声が上がる。
とはいえ言葉だけだ。
石が飛んでくるわけでもない。何せメルクシュテンの民は全てがギロチンにかけられた状態だ。そうでなければ今頃は民たちの手でヘルムートが断頭台にかけられていたか、はたまた火炙りの刑となっていたか……
王としての矜持がなかったわけではない。最期まで見届けるべきか、少しだけ悩みはした。
だが。
ヘルムートが先に死のうと後に死のうと結果に何ら変わりはない。
せめて最後に謝罪の言葉一つでもかける事ができていれば……いや、本来ならそれが最初に出て然るべきだったのに……そう思いながらもヘルムートは自らの手にあった縄をそっと手離した。
ラーヴァグルートやヴェスヴィアスのように拡声魔術で持ってメルクシュテン全土に声を届ける事ができるなら、民に謝罪の言葉くらいは出せたかもしれない。けれども、拡声魔術を使えるでもないヘルムートの声など、怒りと怨嗟が渦巻くこの場においてすら、誰の耳にも届く事はない。
であればできる事はただ一つ。
速やかに己の命を差し出すだけだった。
「さて、これで当面は大人しくなるだろうな」
「そうですね。そのために小さいとはいえ国一つ滅ぼす事になろうとは思いませんでしたが」
馬車の中、ラーヴァグルートとヴェスヴィアスは一仕事終えたような気怠さをもって小窓から外を眺めていた。
馬車を引いているのは馬ではなく竜だ。だからこそその速度は本来の馬車の数倍ある。あっという間に流れていく景色の途中途中に小さな町や村が存在しているが、それだって一瞬で視界の外だ。
生存者がどれだけいるかはわからない。けれども三日後には綺麗さっぱり焼き尽くされるのが決まった以上、賢い者なら早々に命を投げ出しているはずだ。
「それにしてもまさか神殿の外に出る事すらできなかったとはな……」
「当時の私では未熟さ故にあの制約を打ち破る事叶わず……兄上には心配をおかけしました」
「いや、生きて帰って来てくれただけで充分だ。戻ってきたばかりの頃にも伝えたが、もうしばらくはゆっくり休むとよい」
「ですが……構わないのですか? メルクシュテンはともかくそれ以外の周辺諸国やその他の属国の動きが不審であったのでしょう?」
「あぁ、それなら問題はないだろう。此度の一件、メルクシュテン全土だけではなく周辺諸国にも魔術で光景と音声を届けておいた。我がロジアードの敵となるなら、こうなってもおかしくはない、というのがイヤでも理解できただろう」
「昔から兄上の魔力は殊更に規格外ですね」
魔力で作り上げたギロチンの具現化。メルクシュテンの民全ての拘束。拡声魔術で一連の流れを大陸全土に届けるという事をやり遂げ、更にその光景は周辺諸国にも見る事ができるようにさせている。
ヴェスヴィアスが気付いていない小さな魔術もいくつか使いこなしているはずだ。メルクシュテンの民ではないと判断された者に関しては早々にメルクシュテンから追い出している。それだって魔術で転移させているわけで。
ヴェスヴィアスも前時代的としか言いようのない聖女の禊だとかで毎日氷水かと思うくらい冷たい水で身を清めさせられたし、精進料理と呼ぶにはどう足掻いても難しいくらいの粗食。カビが生えてないだけマシといった代物を気休め程度の量しか出されず、常に空腹が付きまとっていた。
ある意味で極限状態であったために昔に比べて随分と魔力量が増えたのは事実だが、どう考えてもこの方法は正道ではない。結果が出たにしたって途中経過を考えると効率が悪すぎる。
こうまでしないといけない聖女とか、そりゃあ廃れてしまえと思うわけで。
本人が望んでやるならともかく強制されてやるとなれば、そんな事を言い出した相手に殺意が募るだけだ。
聖女候補となっていたヴェスヴィアスであるが、実際確かに彼女は聖女としてこの国で認められていた。とはいえその存在は大いに軽んじられていたが。候補とずっとついていたのは、聖女となった時点でヘルムートとの婚約が結婚に変わるからだろう。つまりは完全に向こうの都合でしかない。
とはいえ、ヴェスヴィアスとてヘルムートとの結婚など何の冗談だとしか思えなかったので、そこで候補のままにされていたのは都合が良かった。
あの日、聖女ですらないと言われここから出ていけと突き飛ばされた事で制約は解けた。
呪いを解くのが真実の愛のキスであるならば、あの制約を解く方法はヴェスヴィアスが聖女として認められ王子と結婚する時だ。王子自ら突き飛ばしてくれたおかげで聖女でないと言われたにも関わらず王子の手で神殿から連れ出される事となったと判定されたことで、ようやくヴェスヴィアスは自由を得たのだ。
とはいえ常に栄養失調状態で飢えと寒さにあえいでいたようなものだ。
制約魔術が解除されたからとて、即座に健康になれるわけでもない。
だからこそ、ロジアードに戻るのはとても大変だった。
国に帰ってからも、しばらくは体調を整えるのに時間がかかった。どうにか人並みの体型になったけれど、それでもまだ痩せすぎているように見える。
兄はそれを心配しているのだろう。
帰ったらまた、あれこれ色々食べろと言われるのだろうな。そう思う。
そういえば結婚などはどうするつもりだろうか。
誘拐される前はまだ早いとそんな話は出ていなかったけれど、流石に今は年齢的にもそういった話が出て当然のように思う。
兄が王となっているのであれば、ヴェスヴィアスは国のための政略結婚をする事だって構わないと思ってはいる。
まぁ、でも、お相手はヘルムートみたいなやつじゃなければいいなという願いもあるのだが。
そんな疑問を兄に問えば、兄はふっ、と笑って何も問題はないと言い切った。
今回の件でロジアードに逆らおうという軽率な国は鳴りを潜める。ヴェスヴィアスに対する態度次第ではメルクシュテンと同じ結末を迎える事になる、というのは流石に理解できただろう。
仮に周囲の国が結束してロジアードを滅ぼそうとしたとして、国力の差が違い過ぎる。戦争吹っ掛けたところで民が大量に死ぬのがわかりきっている挙句、勝てる見込みも薄いとなればなおの事。
ヴェスヴィアスが攫われる以前であればまだしも、今はこちらが選ぶ側だ。
「――だから、我が妹よ、お前が本当にこの人となら……という者であれば反対などするはずがない。もしそうなれば国を挙げて盛大に祝福しようではないか」
攫われて、神殿の中に閉じ込められ、外に出る事ができなかった数年間。
その間、それでもロジアードはヴェスヴィアスを見捨ててはいなかった。生きていると信じてこうして探し続けてくれていた。
それだけでもヴェスヴィアスにとっては充分であったのに、そうまで言われてしまえば――
「ありがとう、お兄様」
ようやく帰ってきたのだと。
もう虚勢は張らずともよいのだと。
ようやくそう理解できて、ヴェスヴィアスはホッと安堵の笑みを浮かべたのである。