平穏な生活へ突然の来訪者現る
「それじゃ、また後で」
「うん」
アパートに着いて、サーラがドアに入るのを見届けてからドアに鍵を入れる。
スルリ、と何の音もなく鍵は回った。
(あれ……もしかして施錠忘れたか?)
もしもの可能性にヒヤリとしつつも、ドアを開ける。
何事もなければいいが——。
「あっ、おかえりー」
——家の中には、うちの母親がいた。
いかにもラフなシャツとジーンズ姿で、タブレットを操作している。
「来てたのかよ」
「メッセージ送ったのに未読じゃん。スマホ依存症じゃないようで実に結構だけど、連絡は小まめに取らないとモテないよ」
「別にいいでしょ」
そう返事をしつつ、電源を入れ忘れていたなとスマホの起動画面を見ながら靴を脱ぐ。
画面がゆっくり読み込まれ、アプリのアイコンが表示されると同時に通知欄にメッセージが出る。
『私まだ見てないんだ。今日行っていい?』
そのメッセージを見て……俺は一瞬で血の気が引いた。
朝、何て送った?
通知欄をクリックしてアプリを開き、自分の最後の発信履歴を見る。
『変わりすぎてびっくりした』
あ、あああああ〜〜〜っ!
そうだよな、そりゃあ見たことなけりゃ、見に来るよなうちの母なら!
問題は、母さんがサーラを見ることではない。
サーラがどういう行動を取ってくるかを見られることで……!
俺の内面を余所に、無情にも扉がチャイムの直後に遠慮なく開き、ビニール袋のこすれる音と靴を脱ぐ音が聞こえてくる。
そうか、スマホの起動に時間がかかっていたんだ。食材を用意する時間ぐらいは十分にあったな……。
「入るよー。昨日買ってた枝豆もあるし、今日、は……」
勝手知ったる他人の家とばかりに慣れた様子でやってきたサーラが、母を見て凍り付く。
あちゃー……。
「……その、ど、どうも……お世話になっております、綾戸紗亜良です……」
うちの母は一瞬はっとすると、まじまじと顔を見ながら明るく返事した。
「お久しぶりだね紗亜良ちゃん! あの小さい子がこんなに綺麗に変わっちゃうなんて、おばさんびっくりしちゃった! それにしても……」
それから、実に愉快そうにニヤニヤしながら俺達を見比べ始める。
「美女と野獣もいいところだね〜」
「もういいだろ、帰ってくれ……」
「やーん反抗期!」
野次馬根性丸出しの質問でけらけら笑いながら、母さんは自分の鞄からいろいろと物を取り出した。
「郵送にしてもよかったんだけど、ついでだからこれ。本みりんを、大きいので二本ね」
机の上に置かれたものは、俺達学生では買えない調味料。
先日、足りなくなるかもしれないから送って欲しいと頼んだものだ。
元々あのみりんは俺も使っていたから、それなりに減ってたんだよな。
「あっ、助かりますおばさん」
「急に送ってほしいとか言ってくるからびっくりしちゃったけど、紗亜良ちゃんが使ってたんだね」
「はい。今日も、ちょっとお礼を兼ねて作りたいなと思っていて」
お礼? と思ったけど、放課後のことか。
「お世話されっぱなしだったら怒鳴りつけてやろうと思ったけど、紗亜良ちゃんも蒼空に助けられてるんだね。それなら良きかな」
偶然ではあったけど、たまたま教師の頼みを聞いておいてよかったな。
何が幸運になるかは分からん。
母さんの質問に答えつつも、紗亜良はまな板を取り出して水に濡らし始める。
小さいボウルに水を張りながら、話を続けた。
「今日、知らない先輩から呼び出されて」
「まあ! そりゃあ紗亜良ちゃんならモテるわよね」
「無理矢理掴まれそうになったところを、助けに来てくれて」
「へえ……」
母さんは再びこちらを見て意味ありげに笑う。
「まあ、二人のことは二人に任せるとして。あんたも一歩出られるようになったんだね」
「……昔のことはいいだろ」
俺が返事をすると、母さんは俺の前髪を指で触れる。
「そろそろ切らないの? ちょっと長いでしょ」
「いいでしょ別に、これぐらいで」
「あっ! 私もそれ思ってました!」
話をはぐらかそうとしていたところに、サーラが会話に入ってきた。
「そら君、今日私すごく怒ったけど……言われるの、やっぱり前髪長すぎるせいだよ。私、切ってほしいな」
「紗亜良も長いと思うか?」
「長過ぎっ。……ねえ、日頃のお礼だと思って、切ってくれない……かな?」
う……それを言われると弱いなあ。
どうしても俺の中で、圧倒的に貰っているものが多いという負い目があるので、今日助けに入ったことも含めて、なるべくサーラの願いを聞いたり助けになったりしたい。
「……分かったよ、明日あたり床屋に行ってみる」
「やった! 楽しみ」
「あまり期待しないでくれよ、切ったところで美女と野獣だし」
まあそんなもんだろうという軽口をさらっと返すと……サーラは、一旦包丁を止めた。
「ううん、全然そんなことないと思う。私は、そら君のこと、クラスで一番だと思うよ」
「買いかぶりすぎもいいところじゃない? サーラほどの変化は」
「——変化、するよ」
妙にはっきりとした声で断定し、サーラはキッチンから振り返る。
「自信を持って言うけど、そら君は変わるよ。私だって変わることができたんだから」
「……そ、そうか」
「うん」
そう返事すると、再び調理に戻った。
本当に、そこまで期待するようなことなんてないのにな……。
ふと見ると、母さんの表情がさっきまでのからかい好きの顔から、目を細めて母親のような——実際に母親なんだけど——表情になっていた。
「きっと、今度はあんたの番なんだろうね」
「どういう意味?」
「そこは自分で考えるか、時間が解決するだろうね」
そう返事をすると、すぐにニヤリと笑って鞄の中からもう一種類の瓶を出す。
「……日本酒? まだ料理用のはあるからいいって言っただろ?」
「何言ってんの、これは私が吞む用」
「子供の下宿先でいきなり食前酒するなよ……」
呆れた母親に溜息を吐きつつも、紗亜良から料理が出来たことを告げられて俺も食器を出す。
明日は、散髪か……。あまり気は進まないが、このままでいいとも思わない。
この機会だ、少し変われるよう頑張ってみるか。
ちなみに、夕食は。
「……枝豆入ったひじきの煮物! 切り干し大根! わさび漬け! 紗亜良ちゃん、これは酒飲みになるね! 食前酒いっとく?」
「あんたマジで帰れ」
実にサーラらしい、和食メニューであった。あとこのダメ母は軽くはたいておいた。
今日の料理も美味かったので、一つ一つ丁寧に褒めていく。その度に大げさに喜んでくれるものだから、こっちも言ってて気持ちいいんだよな。
もちろん感想も本心からだ。本当に過不足ない味付けで、努力したんだなあって分かるし。
自分でも作るだけに、それはひしひしと感じる。
これだけ作ってもらったものを食べてると……たまには俺も、食べてもらいたくなるな。