飯田蒼空の過去
アヤトこと綾戸紗亜良が遠くに引っ越してから、俺は地元の小学校に入学。
たった一人の幼稚園児が家に来なくなっただけなのに、自分の家が突然広くなってしまった気がしたのを覚えている。
クラスの人数は多く、友達は僅かに出来た。
学年が変わるとクラスが変わり、友達とは離れ離れになる。
新しい友達を作っては、またクラスが変わる。そういうのが卒業まで繰り返されてきた。
普通……だったと思う。普通に友達を作って、勉強して、遊んで、卒業した。
中学に上がると、狙ったかのように仲良くなった友達と別々の学校になった。
学校が変われば出会うことも少なくなる。
俺の中学は、また一からのスタートとなった。
成績は良かったけど、運動はそれなり。
それでも決して暗い存在ではなかったし、学校でもそれなりに明るかった。
そう。
普通だった。
どこにでもいる普通の生徒、それが俺こと飯田蒼空の六年だった。
どこの学校にも、不良グループというのはいるもので、学校の先生も手を焼いている。
ただ、本当に厄介なのは、ああいう連中ではないのかもしれない。
女子のグループが遊び歩いているのはクラスの会話で知っていたが、教員達の評判は悪くなかった。
教員達の見える範囲で下手なことを起こすようなヘマをする奴はいなかった。
俺も女子が具体的に何をしているかは全く知らなかった。
それが良くなかったのだろう。
『放課後、教室に残っていてください』
中学三年の、秋。
その手紙が俺の机の中に入っていたのは、昼休みが終わった頃だった。
運動場で適当に集まったサッカーのグループに参加し、授業の教科書を出そうとすると中に入っていた。
封筒にハートのシール、そして中には一枚のメモ。
俺はそれをもらった瞬間、すぐにこれがラブレターだと思い当たった。
なんつーか、そういうのを貰うことが全くなかっただけに舞い上がっていた。
(ついに俺にも彼女かあ!)
そんな呑気なことを思って、放課後教室に残った。
今日の日直は、ちょうど俺。
教室の鍵を閉めるのも、俺の役目だ。
——これは待つにはいいチャンスだ!
もしかして、手紙を入れてくれたのは同じクラスだろうか?
と、そんなことを考えながら、誰もいない教室で待った。
誰も居なくなってから、十分ぐらい経った。
スマホを触ってはポケットに入れて、うろうろしたり、椅子に座ったり、落ち着かなくて頭を掻いたりしていた。
クラスの女子一人一人の顔を思い出したり、あまり交流のない他のクラスにいる女子の顔を思い浮かべていた。
二十分が経った。
教科書を開いて勉強の復習をした。
もうちょっと待つべきか、もう帰るべきか……いや今帰って入れ違いになったら、このチャンスが……。
三十分。
さすがにもう、好意よりも苛立ちの方が強くなってきていた。
腕を組んで唸っていると……クラスを通りかかった学年主任の厳しい先生と目が合った。
「飯田じゃないか、どうした?」
「あ、いえ、その……」
「部活をサボって何をしているんだ、担任の評価に響くぞ」
推しい気もしたけど、同時に助かったかもなとも思っていた。
これ以上待つのはさすがにどうかと思い、クラスの鍵を閉めた。
教室の外でポケットからラブレターを出し、再び仕舞い込んで家へと帰る。
結局、何もない一日だった。
——異変は、翌日に起こった。
クラスに入ると、妙に俺を見ている連中がいる。
目を向けると、視線を逸らして何やらクスクス笑っている。
寝癖でもついているのかと髪に触れたり、シャツや襟元などを見るも問題らしい問題はない。
首を傾げながら、いつもの友人に話しかける。
「おはよう」
「……ああ」
「どうした?」
歯切れの悪い返事をもらい、何事かと聞こうとするも、はぐらかされてしまう。
他の友人は、ほぼ無視という形を取った。
ホームルームになり、担任が来る。
担任は、この違和感に全く気付かない。
何事か分からないまま、一日が終わった。
今日だけ、たまたまだ。
そう思いたかったのかもしれない。
クラスの雰囲気は、次の日も、その次の日も……ずっと変わらなかった。
明らかにチャラいやつも、ニヤニヤと俺を見ていた。
……何だ、何かやらかしたか?
ある日、違和感のあった初日の朝一番に挨拶した友人に、下校途中に呼ばれた。
無言で見せてきたのは、グループチャットだった。
「……これだ」
そこにはクラスのリーダー格である女が、俺の机に入れたラブレターを見せびらかしていた。
その下には、別校舎からスマホのカメラで撮影された俺が、『嘘告白に、飯田君待つ!』というツリーとともに幾度となく投稿されていた。
『ニヤニヤしててうける』
『今のクネクネしてるの動画に撮りましたーキモ!』
『イライラし始めてる、女の子を待っているのに生意気すぎね?』
何度も現れる写真には、投稿時刻と日光の傾きで俺がずっと待っていたのがありありと写し出されている。
「な……何だよこれ……」
絶望した。
俺は、嘘告白のターゲットになったのだ。
「これ、あの委員らしい……チャット欄に名前はねーけど」
何が厄介かって、その女子はクラス委員であり、見た目は派手でもなく成績も抜群に良い。
内面が不真面目だろうと、勉強なんていくらでもできる。
受験を直前に控えた教師は、そういう面を内面と同一視して考える。
訴えようがない。第一、こんな惨めな姿を教師に見せて自ら広めるのか?
教員達に、こんな俺の姿が見られて広められる。
しかも、犯人が確定するとは限らない。
それは……嫌だ……!
「俺も最近見せられた、話したことを知られると危ない」
目の前の友人は言った。
「バレたら、間違いなくターゲットは俺になるから。明日からは、声かけるな」
「……。……分かった、ありがとう」
「悪く思うなよ」
むしろ、これを教えてくれた友人に感謝こそすれ恨むなんてことはできない。
できないが……これで俺の味方はいなくなった。
クラスの大多数が知っている、騙された俺の姿。
このことを知った俺は、最初に思った。
(目立ちたくない……誰からも、見られたくない……何にも注目されない存在になりたい……)
前髪を伸ばした。
外に出歩かなくなった。
服を、目立たない色で揃えた。
姿が見えにくくなるよう、地味な色の帽子も揃えた。
中学後半は誰とも遊ばず、黙々と授業を受けて、勉強をした。
地元から離れたかった。
ただ、親としては電車ですぐに行ける範囲まで、というのが約束だった。
今思えば何かしら気付いていたんだと思う。
それでも母さんは、追求して聞くようなことはしてこなかった。
今の『桐花学園高等部』は、電車で行くにはかなり遠い高校。
俺はここで、誰も知らない状態にリセットしたかった。
だが。
「……飯田蒼空、です。よろしくお願いします」
結局俺は、あのクラスの雰囲気を忘れられず……前髪を下ろしたまま、目立たない姿で一年を過ごした。
目立たないのは、慣れると楽だった。
誰も自分に期待しない。何も問題が起こらない。
だから、このまま何も変わらなくていいと思っていた。
——綾戸紗亜良と再会するまでは。




