サーラ姫の活躍と、昨日の影響
今朝も今朝とて、ペアになって揺れる鍵を閉めて学校へと向かう。
近隣の保育園がどこも一杯で、サーラは滑り込みで入園したと聞いた。
だから、いつも車で送り迎えしていた綾戸家は徒歩で帰るにはかなり遠い。
特に幼稚園児ともなると到底不可能な距離なので、飯田家にサーラが来ることはあっても、俺が綾戸家に行ったことはない。
『飯田さんの所には、いつも助けられてばかりで……』
『いーのいーの!』
綾戸家の美人の母親は、よく玄関でうちの母に頭を下げていた記憶がある。
俺としては本当に気の合う友人と楽しく遊んでるだけだったのだが、仕事が夜近くまで遅くなることも多かった綾戸両親にとって助かっていたのだろう。
そうか、先日母さんが言っていた『感謝していた』ってこれのことか。
とはいえ、かつては男だと思っていたわけだけど。
今の条件で当て嵌めると、『学園のお姫様を俺一人が毎日独占していた』みたいなもんなんだよな。
……今? 今は、まあ……サーラの方からうちに来るからなあ……。
合鍵が、チャリと音を立てる。
恋人どころか女友達もいなかった俺に、女子の部屋など想像もつかない。
あの先にその未知の空間があり、それが今学園一番人気のサーラ姫の部屋であり、俺にだけそのアクセス権がある。
入ってもバレないだろうし、鍵を渡した以上ほぼ公認だ。
だが、当然入ってしまえば俺は大切な何かを失うだろう。無論、入るつもりはない。
ない、が……それでもずっと男だと思い込んでいた幼馴染みの、女の子の部屋だと思うと……。
(ああもう……この状況、慣れる日が来るのか?)
誰もいないであろう静かな部屋に背を向けて、俺はサーラの待つクラスへと向かう。
◇
ところが、教室に着くと、サーラは登校していなかった。
他のクラスメイトも、何人かがちらりとサーラの机を確認して、自分の席に着く。
普段サーラと話している生徒達だ。
「おや、まだ来てない?」
その中でもぶっちぎりでよく喋る佐藤さんが、俺に話しかけてくる。
「来てないよ」
「ふーん、いつも早いのにね。理由知らない?」
「ん……思い当たらないかな。昨日濡れすぎただろうし、風邪かも」
佐藤さんは俺と机で視線を数度往復させると、少し首を傾げて席に戻っていった。
ホームルームが始まり、担任が教団からサーラの席を見る。
「今日の綾戸は休みです。朝になって急に熱が出たって言ってたわ。まだまだ肌寒い季節だし、みんなも気をつけるようにね」
担任の言葉に、視界の中にいた生徒が何人か振り返り空きの席を見る。
こっちを見ても、サーラはいないぞ。
とはいえ、サーラがいなくても教室は回る。
皆それぞれが仲のいいクラスメイトと喋ったり、自分の教科書を確認したりする。
俺は……まあ、いつも通り一人だな。
「おう、数学の授業始めるぞ! ん、なんだ綾戸は休みか」
「綾戸さんは熱で休みでーす」
「そうか、じゃあ仕方ないな」
どの教師もサーラのことに一度触れて、佐藤さんが答えて授業開始となった。
授業中は静かな教室ではあるが、左隣がいない授業はいつもよりかなり静かに感じた。
◇
放課後、もうクラスメイトの殆どが部活に行って、僅かばかりになった頃。
クラスのドアの前で、あまり見ない男子生徒が二人いた。
あのネクタイは……一年か。
この学園では、ネクタイの色と模様で学年を分けている
青系のベースにラインが入ったネクタイが俺達二年の色で、緑系が一年。三年は赤がベースになっている。
ちなみに三年が卒業すると、新一年生が赤系のネクタイを着ける、といった具合だ。
教室をじろじろ見ている一年に声をかけるのは、やはりこの人、佐藤さん。
「後輩君だね。何か用かい?」
「あっ、えっと、綾戸先輩を……」
「サーラっちは休みだねー」
「えっ、次俺なのに」
その言葉で、この後輩達がどういうヤツなのか明確に分かった。
「ちょっといいか?」
「あ、はい……」
俺は、二人のうち話さなかった一人の方を向く。
少し俺の方が大きいので、あまり威圧しないように離れておこうか。
「そこの君、昨日綾戸さんを倉庫裏に呼び出したので合ってるな?」
「え、いや何で知ってるんですか」
「……クラスメイトだし、俺も部活ぐらいはしているので会う。あいつが放課後出たのは見てるし、部活にも出ていたからな」
嘘は言っていない。
ずぶ濡れの状態でハンドボール部に来たことは、部員の皆が知っている。
「でも、昨日を逃したら……」
「別に俺は君の親でも教師でもないが……一応言っておこう」
なんつーか、やっぱり今ひとつこいつらは分かってないらしい。
溜息を吐いて答えを言った。
「そういう時に配慮できないようでは嫌われてしまうし、その話題を女子同士が共有するかもしれないだろ。俺は君のことを言いふらさないし、きっと綾戸さんは言わないが……」
俺は、佐藤さんの方を見た。
「えっ何? 私が言いふらすとでも思ってるの?」
「渡辺先輩の件は」
「サーラっち転入前に学園頂点の高嶺の花だった会長とか、野球マネちゃんとかに言いふらしちゃいました! テヘ」
「とまあこういうヤツもいる」
佐藤さんは、青ざめる後輩二人にひらひらと手を振った。
「渡辺先輩はサーラっちに危害加えようとしたケがあったのでマジになったけど、あんまり悪い噂ばっか流してたら私が嫌われちゃうからね」
確かにいくら人付き合いがいい佐藤さんといえど、誰彼構わず陥れていたらサーラも友人として嫌だろう。
それに、その判断をするべき人物はここにはいない。
「サーラ姫の事情となると私以外にも知ってる子がいるだろうし、そこから先の評判は甘んじて受け入れてくれたまえ。私からは勘弁しといてあげる」
後輩二人は、必死に小刻みに頷いた。
怖がらせないようにしたつもりが、佐藤さんが十二分に怖がらせてしまったな……。
「ま、サーラっちは今もうサッカー部主将、バスケ部主将、あともう何人も先輩断ってるぐらい尋常じゃなくガードが堅いので、別の子狙いなー?」
佐藤さんが手をひらひらさせて、二人ともその言葉に頷いた。
まあ、今の言葉を聞いて自分がOKもらえるとは誰も思わないだろう。
「ところで、質問いいか?」
「えっと、はい」
「綾戸さんは、何故ここまで急に人気になったんだ? 直接部活を見ていないから分からないんだが」
その言葉を聞いて、後輩のうち今日告白するつもりだった方が話した。
「サッカー部に来た時、ユニフォーム姿が綺麗で——」
「ああ」
「——そのままオーバーヘッドシュートを体験入部で決めまして」
目立ちすぎだろサーラ姫。
そりゃあ有名にもなるわ。
いやほんと、あのうちでおにぎり喰ってたアヤトがここまでになるとは。
「運動部の間では、どこに入るのかという話で持ちきりです」
「納得だな……」
「むしろ何故先輩が知らないのですか?」
「何故っていうと、あいつが自分の活躍を話さないからだろうな」
俺の返答に、後輩達は「やっぱり凄い」と言い合っていた。
……ま、悪い奴らじゃなさそうだし、この辺りで開放するか。
それに、だ。
「あ、飯田君は部活?」
「そろそろ帰らせてもらうよ」
「おっけー、また明日ねー」
俺には今日、予定が出来た。
妙に楽しげに俺を見て笑う佐藤さんに手を振って見送ると、俺はスマホを取り出してチャットアプリを開いた。




