金色の来訪者 ―バターフライ―
「お望みの牢はそこだよ、アリス。何ならボクも一晩一緒にいてあげる。こんな暗くて狭い部屋で処刑の朝を待つだけなんて、寂しいだろうからさ」
「お気遣いなく! 1人で大丈夫なので」
「つれないこと言うなよ」
決して油断をしていたワケじゃないのに、次の瞬間、2メートルほどあった距離は詰められていた。ただ先ほどと違って後ろには鉄格子があり、これ以上さがれない。焦る鈴の頬に添えられるハンプティの掌。再び背筋が凍っていく。
「キミの怖がる瞳や、ボクを拒む声……もっと、もっと堪能したいんだぁ。ちなみに、怖いのを我慢して強気な発言する姿も、すごく魅力的だよ」
目を細めるハンプティの微笑みは、どれだけポジティブに考えても受け入れることが出来ない。多分(どちらかと言うと)好かれているのだろうが、ハッキリ言って「生理的に無理」である。
ただでさえ処刑前夜という鈴の人生至上ナーバスな状況なのに、追加オプションでヘンタイと2人きりだなんて、地獄以外の何物でもない。心の底からお断りしたいのだが、「抵抗と拒絶」が大好物のハンプティに対して有効なセリフの候補など、鈴の脳内に存在しなかった。
と、その時。
―「おい、いつまで遊んでいるつもりだ」
「水差さないでよ、ペーター・パイパー」
鈴に向けていた(気色の悪い)笑みから一変、ハンプティは右耳の無線を確認しながら鬱陶しそうに返す。
何を言われたのか鈴には聞こえなかったが、恐らく急かされたんだろう。
―「過度な接触は控えろ。汚らわしい魔法具保持者だ」
「別に抱いたりしないって。余計なお世話どーも」
―「オズ様がお呼びだ。次の仕事が控えている」
「はいはーい」
小さな溜息をついてアリスに視線を戻すハンプティ。
「あーあ、折角楽しいトコだったのに。また明日ね。キミが処刑されちゃうのは惜しいけど、オズ様の判断は絶対だし。せめて、朝のうちにもう一回楽しみに来ようかなぁ」
「……来なくていい」
「強気なキミならそう言うと思ったよ。でもねぇアリス、もう少しだけ自分の置かれてる状況をきちんと把握した方がいいよ」
肩を掴まれたと思ったら、シャキンッとナイフで手のロープを切られ、すぐ牢屋の中に押し飛ばされる。突然のことに受け身も取れず、軽くヒジを擦りむいた。
直後、ガシャンと鍵がかけられる音。
「じゃあ、最後の1日……と言っても、じき陽も沈むけど、1人でゆっくり満喫してね。ボクはキミに出会えて嬉しかったよ、可愛いアリス」
ひらひらと手を振り、ハンプティは遠ざかっていった。
一応念のため、試しに鉄格子を前後に揺さぶってみる。が、やはりきちんと施錠されているようだ。
最奥の牢屋に窓はなく、一番近い窓でも、鈴の入れられた牢から5メートルは離れていた。もちろん鉄格子付き。
待つしかないのか、明日の朝、この牢が再び開けられる瞬間を。あの悪趣味なハンプティ・ダンプティは「その前に来ちゃおうかな」的なことを言っていた。
ただし、彼はただのヘンタイなのではなく、オズに従う隠密……つまり、処刑前に牢を開けられたとしても、彼を出し抜いて逃げるなど一般人の鈴には到底できっこない。悔しいがハンプティの言う通り、鈴の置かれた状況は溜め息も出ないほど絶望的だった。
せめて、この世界の何処かに生きていると思われるマーリンと連絡が取れれば……協力を仰げる可能性は高いし、大魔法使いの彼がいれば百人力なのに。
「……もう、無理」
大声をあげるには、疲れすぎていた。
全速力で走って、それでも捕まって、オズとパイパーに尋問され、ハンプティに弄ばれ……鈴は肉体的にも精神的にも、更に言えば結構頭を使って考えまくったので頭脳的にも、疲労のピークだった。為す術なく、牢の真ん中で膝を抱えて座る。
擦りむいたヒジがじんじんと痛むのを感じながら、自分の呼吸の音だけを聞いていた。動きたくない。考えたくない。考えたとしても、ここから出られなければ意味がない。
「制服、ボロボロになってるし……最悪」
帰りたい。このまま帰ったらきっと母に「買ったばっかりの制服なのに!」と文句を言われるだろうが、それでもいい。帰りたい。
この世界は、どうして鈴を呼んだのだろう。鈴に何を求めているのだろう。先程の尋問で現れたクラウ・ソラス――ペンドラゴン王家の宝物を返せ、ということなのだろうか。それだけで帰れるなら喜んで返却するのに、この状況では返却先へ出向くことすらできない。
考えてみれば牢屋に幽閉されるのは初めてで、意外と蒸し暑くも寒くもないんだな、と思った。というか、街中で全力疾走した後も、夏場ほどひどい汗をかかなかった。今、この世界では夏の手前……春ぐらいなのかも知れない。
体育座りで俯いていた鈴は、ふっと顔を上げた。
「……何だろう?」
5メートル手前の窓から差すオレンジの光と、細長く伸びた鉄格子の影が、暗い床に溶けて不気味さを醸し出す。
鈴の目に留まったのは、沈みかけた太陽の最後の光の中で舞う、金色の何かだった。ひらひらと、小さな羽をはためかせながらこちらへ飛んでくる。
蝶だと判断するのに、あまり時間はかからなかった。やはりこの世界の季節は春のようだ。が、分かっても別に状況が好転するわけではない。溜め息をついた鈴の膝上に、金色の小さな小さな蝶はとまった。
「窓の外に戻りなよ、キレイなチョウチョさん」
こんな薄暗い牢屋に迷い込んでしまった金色の蝶を、憐れに思うと同時に羨ましく思った。
小さければ鉄格子を抜けられる。羽があれば窓から脱出できる。蝶は500円玉ほどの大きさながらも、キラキラと輝く羽はとても目立つものだった。モンキチョウの亜種だろうか、まるでハチミツを塗ったようなきらめきと、ほんの僅かだが漂う甘い香り。
処刑の前に、せめて何か美味しいものを一口でも食べさせてもらえれば良かったのに、と、膝上の蝶を眺めながら考えていた鈴。ところがふと、その蝶の羽に一筋の茶色い線が入っているのに気付く。
「あれ?」
線ではない、文字だ。金色に輝く蝶の羽には、茶色い文字で「EAT ME」と書かれていた。
さすがに目を疑う。ぐりぐりっと両手でこすってから、もう一度目を凝らす鈴。やはり間違いない。だが、食べるべきなのか違うのか、鈴は考えを巡らせる。
さっきまでの何も考えたくない投げやりな精神状態が嘘のようだ。
食べていいのだとしたら、この蝶から甘い香りがするのも納得できる。きっと、この世界には食用の蝶が存在するのだ。しかし食べれば蝶は命を失うことになる。
何故そんな自殺行為を、しかも処刑前日の鈴のところで……もしや蝶の意思ではなく、蝶の飼い主の意思なのではないか。魔法の存在が否定されるこの世界で、こんな不思議な生き物を操れるとしたら、その人は……――
「……私、小さくなりたい。出来るかな…?」
遠い昔、アニメ映画で見た『不思議の国のアリス』では、「EAT ME」と書かれたお菓子や「DRINK ME」というタグのついたドリンクによって、体の大きさを変えられていた。量を間違えて大変なことになっていたから、それだけは避けたいと思う。
巨大化するか、豆粒になるか……覚悟を決めて、鈴は金色の羽をぺろりと舐め、ギュッと目を閉じた。
「伝説の通りですね」
「えっ? ……わ!」
優しい女性の声が聞こえ、目を開けると、正面に金色の幕があった。
驚いて辺りを見回した鈴は、混乱しながらもなんとか状況を把握する。金色の幕ではない、先ほどまで自分の膝上に乗っていた、蝶の羽だ。つまり、鈴は見事願望の通りに小さくなることができたのだ。
「思慮深きレディ・アリス、私の羽をもう少しかじりなさい」
「え、でも、そんなことしたら飛べなくなるんじゃ……」
「大丈夫です。さぁ、私に乗ってここから出るには、もう少しだけ小さくなってもらわなければ」
躊躇いなく羽を向ける蝶に、鈴は「すみません、いただきます」と頭を下げた。最小限、前歯だけでサクッと齧る。
と、口の中にフレンチトーストの甘さが広がった。バターとバニラとハチミツ、ほんのり香るのはカラメルソースだろうか。あまりの美味しさにパアアッと表情を輝かせる鈴を見て、蝶は「お気に召したのなら光栄です」と微笑する。
こうして鈴の身体は、(元の)親指の半分くらいまで縮み、500円玉サイズの蝶に跨ることができた。
「あの、本当に重くないですか? てゆーか一体誰が手助けを……」
「私は知識を譲渡した身であり、貴女の質問には答えられないのです。でも安心なさい。私がこれから案内するのは、この世界において最も賢い者の住み処」
「最も賢い?」
「ええ、貴女を呼んでいるのは、我が子です」
美しい羽が上下に羽ばたき、鈴は蝶の胴体にしっかりと捕まった。思い描いた夢のように、鉄格子を抜けて、隔離棟の外へ飛び出す。
オズがいた建物の外観は国会議事堂のようで、周囲は大きな庭園と深そうな堀に囲まれていた。
日没直後、紺とオレンジが溶け合う空を、蝶の上から眺める。水平線近くを漂う雲は大きく黒く、怪物のように動いて街を呑みこんでしまいそうだ。
妖しげな色合いにオズの印象を重ね身震いした鈴は、ダイヤモンドのような一番星に、祈らずにはいられなかった。どうか、早く帰れますようにと。