拒絶する勇者(惑乱)
もしもこの冒険が長い長い夢ならば、今度こそ、この瞬間に覚めてはくれないだろうか。自分の中に渦巻く願望がただの現実逃避であることは、アリスが一番よく分かっていた。ただでさえ力無く寄りかかるようだったジャックの腕から、更に力が失われていく。
「そんな……うそ……こんなの、いや……」
小刻みに震えるアリスからジャックを無理矢理引き離し、脇腹に刺したナイフを引き抜くハンプティ。夥しい量の血が飛び散り、傷口からも噴き出す。その光景を喜ばしいと言わんばかりにハンプティは「ははっ」と笑い、抵抗力を失ったジャックの胸倉を掴んだ。
「お別れだ、出来損ないの後継者」
ナイフが振り下ろされる。ジャックの左胸に向けて、真直ぐに。ハンプティの手の動きがスローモーションに見える中、アリスは力の限り叫んだ。
「ダメーっ!!!」
ここでジャックを守れないなら、勇者を名乗る資格なんてない。アリスの我儘に付き合って、こんな遠い地まで一緒に来てくれた仲間を、守らなければ。
強い願いはクラウ・ソラスを発動させ、ジャックを守る「盾」を作り出した。これでハンプティがジャックの命を取ることはない……。少しだけホッとしたアリスの目に映ったのは、ニタリという擬音が相応しいハンプティの妖しげな笑み。
「待ってたんだよ、アリス……キミ自身が無防備になる、この瞬間を」
その言葉の意味を理解するより先に、アリスはハンプティに担がれるように捕らえられていた。
「い、イヤ! 離して!!」
両手の拳でハンプティの背中を叩いて訴えるアリスだが、全くの無意味。クラウ・ソラスの「盾」内で倒れこんだままのジャックの止血に手を貸したいが、もはや駆け寄ることすら不可能な状態。
「ジャックさんっ……!」
ハンプティが地を蹴り、アリスはどんどんジャックから離れていく。あらゆる抵抗をものともせず、ハンプティは広い庭を駆け抜けて城門を過ぎ、誰もいない街中までアリスを運んでいった。
このままじゃいけない。が、クラウ・ソラスはしばらく(少なく見積もっても数分間は)戻ってこない。何か、何か武器はないか。この際うまく扱えなくてもいい。ほんの僅かでも、ハンプティを牽制できて、接近をさせにくくするような物は……。担がれて運ばれながら様々な場所に目をやるアリス。ふと、ある物が視界に飛び込んできた。
「さぁて、やっと二人きりだね。ここまで来れば、邪魔はされない」
どさっと降ろされたアリスは、体を打った痛みに耐えながら起き上がる。そして、その手に握りしめた物――ハンプティの腰のベルトに装備されていたナイフ――を、すかさず真直ぐに向けた。
「近寄らないで!!」
この抵抗すら彼にとっては喜ぶ材料にしかならないことは、百も承知だ。それでもアリスは、たとえハンプティが意図的に抵抗を促しているのだとしても、抗い続けると決めた。触れられた時は勿論、彼の声を聞くだけでも背筋が凍るのだ。「拒絶」以外の選択肢はない。
「そういうところも、すごくそそられるよ」
ナイフを握る手が震える。本能的な危険信号だ。敵わない。逃げきれない。勝てっこない。どうして自分には、戦闘力が無いんだろう。よくある冒険ファンタジーの主人公なら、何か一つ、必ず人より一歩抜き出る要素があって、それが身を助けることになって、ハッピーエンドへ続いていくのに。自分には、戦闘センスも特殊な能力も、魔力も、戦略を練るための見識や経験すら、無い。
だけど力が無いからと言って何もしないのは、違う気がする。出来る限りのことをしたいし、思いつく限りで足掻きたい。勇者として呼ばれたのなら、それぐらいはしなければ。自分を狙う敵一人くらい、退けなければ。
「私は……私はもう、逃げない……!」
「ふふっ、強がるキミは本当に可愛いね。けどその心はもう、ボクに刻まれた恐怖と憎悪に飲み込まれそうなんだろう?」
アリスが向けるナイフなど気にもとめず、ハンプティはにんまりとした笑みで一歩一歩、近付いてくる。手の震えを抑えなくてはまともな牽制にもならない……。頭ではそう分かっているのに、どうしても止められなかった。
……怖い、この男が怖い。こちらが向ける敵意をむしろ至上の馳走として食らい尽くそうとする、底なしの闇であるかのよう。同時に感じる悔しさと、憎しみにも似た怒り。この男さえいなければ、自分の仲間たちは重傷を負わなかった。この男は、快楽のままにこちらの希望を根絶やしにしていく。ここで、どうにかしなければ。
他人の感情に敏感なハンプティは、入り乱れたアリスの思考をとても正確に把握していた。その上で、ナイフの先端に触れるか触れないかの距離で止まり、震えながらナイフを握るアリスの手に、自分の手をそうっと添えた。
「ねぇアリス、ボクのモノになりなよ。いつまでも、いつまでも大切に可愛がってあげる。それにボクなら、キミの処刑を望むオズ様からも、守ってあげられるよ」
「絶対……イヤ……」
ハンプティの細められた瞳から、うっとりとした視線がアリスに注がれる。かろうじて絞り出される精一杯の抵抗が、愛おしくてたまらないと言わんばかりに。
「じゃあ、このままボクを刺してみるかい? 恐怖と憎悪に身を委ねてさ」
アリスの手に重ねられていたハンプティの手が、スッと上がり、ゆっくりと、ナイフを握った。
「な、何、して……!」
「ああ、キミに与えられる痛みなら、悪くないね」
ナイフを伝って流れてくる、どろりとした生温かい液体……紛れもない、ハンプティの血だ。そんな、どうして、意味がわからない。自分からナイフを握るなんて、狂ってる。距離を取りたいのに、ハンプティの握力が強くて、動かせない。
ゆるりと流れ出る赤が、アリスの手を伝って、ワンピースの袖口を染め始める。自分が、目の前の人を、傷つけている……怪我をさせている……。いやだ、そんなことしたくない。もっと穏便に解決したい。こんなやり方は違う。でもこの人を放っておいたら、きっとまた仲間が傷つけられてしまう。だったらこの光景は正しいのか。このまま血を流させるべきなのか。わからない、わからない、わからない……!
「いいね……その調子。ボクがちゃーんと、キミの心を、染めてあげる」
「あ、貴方なんて……大嫌い……!」
今なら、このナイフでこの敵を無力化できる。今しか、チャンスはない。散々仲間を傷つけた、この人を。今度は、こっちが…………――
刹那、アリスとハンプティの立つ真下、荒廃した地面に、ライトグリーンに光る魔法陣が出現した。
「ん?」
直径2メートルほどのそれを見て、警戒したハンプティはナイフから手を放し魔法陣の外に出る。魔力のないアリスに魔法陣を描くのは不可能。加えて先程見た光の色。とすれば、転移魔法の陣である可能性が非常に高い。白い煙が立ち込めて、その中にアリス以外の人影が一つ。
「往生際が悪い出来損ないだなぁ。やっぱりちゃんと始末しとけば……」
「いい加減、諦めてくれないかなぁ?」
聞こえてきた声は、ジャックの声ではなかった。現れたシルエットも、大柄のジャックのものとは似ても似つかない。それに、この声は……聞き覚えがある。
「良いの持ってるね、借りるよ、アリスちゃん」
煙で霞む視界の中で、現れたその人にナイフを奪われ、茫然とするアリス。そんなはず、ないのに。けれどこの声は、語り口調は、その呼び方をするのは……彼しかいない。
アリスを庇うようにハンプティとの間に立つ後ろ姿を、とてもとても懐かしく感じる。くるるんっと跳ねる尻尾に、ピンと立った耳。
あんなにひどい怪我をしていたのに、嘘みたいだ。これが夢なら、覚めないで欲しい。震えの収まったアリスの両手は、祈りを捧げるように固く握られていた。
「……キミは一体、何回ボクの邪魔をすれば気が済むんだい?」
「そっちが折れない限り、何回だって茶々入れさせてもらうさ。アリスちゃんは、俺の大事な勇者だからね」
どくん、と脈打つ心臓。恐怖で圧迫されていた思考が、五感が、心の奥が、熱を取り戻していく。
「さぁ、この間の続きを始めようじゃないか」




