困惑(疑問)の始まり
とりあえず瞬きを繰り返して、目をこすってみる。夜7時前に白昼夢など見るのか。いや、普通に生きていてそんなことはあり得ない。
「……疲れてんのかな」
目の前に広がる長閑な田園風景(しかも昼下がり)と、その少し向こうに見えるレンガで作られたような住宅街に、鈴は唖然とした。いつの間に、自分の部屋のベッドが、小高い丘の上にあるちょっとオシャレなベンチに変わったのだろう。
再び目を閉じて、両手で顔を覆って、深呼吸を数回。大丈夫、大丈夫。ここは自分の部屋だから。もうすぐ夕飯だから。さっき見た感じ、今夜のメインはヒレカツ……――
シュゴーーーーーッ!
ボフォオーーーーッ!
折角落ち着こうとしていたのに、意識的な瞑想状態は突如響き渡った汽笛によって遮断される。そんな非現代的な音が聞こえてしまったら、目を開けざるを得ない。
「何なのよ、もう……」
当然そこには相変わらずの長閑な田園風景。そして、少し大きな川を挟んだ向こうは住宅街。その川にかかる橋の上、黒いボディを光らせた立派な蒸気機関車が…………
「……え?」
何で、どうして、蒸気機関車って、社会科見学で行った歴史博物館とかに展示してなかったっけ? それが走ってるってどういうこと? ここは、この場所は、一体何?
「おねーさんも汽車好きなの?」
「へ?」
不意に話しかけられ、右を向く。ベンチの脇にちょこんと立っていたのは、白いブラウスにサスペンダー付のショートパンツという格好の少年だった。7歳くらいだろうか。
「あ……うん、まぁ」
「やっぱりかっこいいよね! もくもく煙出して、毎日すっごーく早くあっちの街まで行って、帰ってくるんだよ!」
少年は鈴の隣に腰かけて、続ける。
「僕の父さん、アレで街の工場に通ってるんだ」
「そう、なんだ……えっと、あっちの街って、工場がたくさんあるの?」
「おねーさん、行ったことないの?」
きょとんとする少年に、鈴は小さく頷く。置かれた状況はワケが分からないが、とにかく、情報収集をしなければ。こんな小さな子供でも、言葉が通じるだけマシだ。
「あの街にはね、オズ様がいるんだよ」
「オズ様?」
「えっ、知らないの!? この国で、いっちばん偉い人なのに!?」
ますます驚く少年に、咄嗟に「最近引っ越してきたんだ」と返せば、「すんごい田舎から来たんだねー」と悪びれないくせに刺さるコメントをされた。
「オズ様って、そんなに有名で凄い人なんだ……王様なの?」
「ううん、オズ様はこの国の大臣だよ」
現代の総理大臣と似たような立場なんだろうか。前に訪れた異世界では、中世ヨーロッパのように王族が国を統治していたが、その体制とは違う環境にあるらしい。
そもそも鈴にとって、今やって来てしまったこの世界が、前に訪れたあの世界と同じであるかどうかも疑問だった。
「父さんから聞いたんだけどね、オズ様は大臣になる前から、色んなことをしてきたんだって。この道に沿って立ってる街灯とか、あそこにある電話とか、あの蒸気機関車だって、オズ様が発明したんだよ! それにそれに、お空の研究もしてて、明日雨が降るかどうか、いつ流れ星が来るかも分かるんだって!」
なるほど、と鈴は推測する。オズという人物は研究者もしくは学者であり発明家でもあるらしい。その功績が周りに指示されたことで総理大臣にまで上り詰めた、というところだろうか。
「あとね、色んな病気も治せるんだよ! 人間だけじゃなくて、動物も!」
「すごく頭の良い人なんだね」
「僕もね、目が悪かったんだけど、お父さんがエメラルドシティでオズ様の作った薬を買ってきてくれて、それを毎日飲んでたら治ったんだ。今はね、あの川の向こうの木にとまってる鳥さんまで見えるよ!」
「え!? あんなトコまで!?」
川の向こうの木だなんて、ここから軽く100メートル……いや、少なく見積もっても150メートルはあるんじゃないか。鈴も目を凝らしてみるが、鳥がとまっているかどうかも判別がつかない。
「ホントのホントに、薬飲んだだけで目が良くなったの?」
「うん!」
「なんか、凄すぎて信じられない……魔法の薬みたいだね」
何気ない一言だった。鈴が率直に抱いた感想をそのまま口にしただけの。だからこそ、鈴には分からなった。笑顔で会話していた少年が、犯罪者を軽蔑するような視線を向けてきた理由が。
少年の声は、関わってはいけない人に敢えて話しかける覚悟を含み、震える。
「お姉さん、もしかして……マーリン一派、なの?」
「え?」
少年の問いかけに反応したかのように、近くの街灯から警報が鳴り響く。それに連動して周りの街灯からも警報が次々に発せられ、鈴は立ち上がって辺りを見回す。と、赤いランプが連なりながらこちらへ登り迫ってくるのが目に留まった。
「何アレ……パトカー? ねぇ、あの……」
再び少年に質問しようとした鈴は、振り向いて茫然。さっきまで親しげに話してくれていたのに、彼は全速力で鈴から逃げていく。
「ま、待って!」
引きとめてみるが、無意味。
一体どうして少年の態度が急変したのか、何が不自然だったのか、異常だったのか、それは発言か態度か仕草か、思い当たるところが何も無い。
しかし今は、それをぐるぐると考え込んでいる場合ではない。響き渡る警報は鳴りやむ気配を見せない。
こちらに迫ってくる赤いランプの群れがパトカーの軍勢だとすれば、間違いなく鈴は「犯罪者」として連行されてしまう。そして仮に捕まって尋問など受けた場合、恐らく鈴の受け答えはこの世界の人々にとって不可解で、マイナスの印象を与えるのだろう。
道端で偶然出会った無垢な少年にさえ、結果的に怪しまれてしまったのだから。