勇者の提案 ―始動―
***
マーリンの作ったポトフは絶品だった。とても短時間で作られたとは思えないほど味の浸みた牛肉と野菜の数々、絶妙な香辛料の調合によるハーブの香り、忘れた頃に自己主張する黒コショウ。温かい料理だったこともあり、アリスは少し泣きそうになりながら堪能した。
そして食後、テーブルを囲むマーリン、チェシャ猫、ジャックに対して、一つの提案をする。
「私、エメラルドシティに行ってみようと思います」
「本気か? 確か嬢ちゃん、オズに処刑宣告されたんじゃ…」
「アリス嬢のことだ、お考えがあるのでしょう。お聞かせ願えますかな?」
「はい。もし私が今回も勇者として呼ばれたのなら、困っている人がいるんじゃないかなと思ったんです。でも表向き、オズの政治体制は独裁だけど、国民に不満はなさそうでした。だから、もっとちゃんと見て、深く知る必要があるなって」
「ここから民の生活を見ることは可能ですぞ。直接出向いては、クラウ・ソラスの魔力が探知され、アリス嬢の身に再び危険が及ぶのは明白」
「あの、それなんですが……クラウ・ソラスって、外せないんですか? アーサー様は普通に金具外して、私の首にかけてらしたんですけど…」
試しに首の後ろの金具に指をかけるアリス。しかし、どうしても指がすべってうまくいかない。苦戦するアリスを見て、マーリンは微笑した。
「実はクラウ・ソラスという魔法具は所有者を選ぶ物でしてな、アリス嬢は魔法具に承認されたのです」
「承認? 魔力とか全然ない私が?」
「魔力の有無でなく、祈りの強さと純粋さに呼応すると言われております。そして、一度所有者が確定すれば、その者の命が尽きるまで、クラウ・ソラスは所有者の元を常に離れぬようになるのです」
「常に、ってことは、もし奪われたら?」
「いつの間にか所有者の手元に戻っているでしょうな。恐らくその性質をオズも知っていたのでありましょう。それゆえ、発見時に奪わなかった」
オズの屋敷にて、パイパーの用意した機械であぶり出されたクラウ・ソラス。それがその場で取り上げられなかったことに、ようやく納得がいった。
「そんじゃ師匠、俺が嬢ちゃんに同行すんのはどーだ?」
「えっ? いいんですか?」
目を丸くするアリスに対して、チェシャ猫は「それ、解決になってるワケ?」と首を傾げる。マーリンが少々呆れまじりの表情になったが、ジャックは自信たっぷりに頷いた。
「勿論だぜ! クラウ・ソラスが向こうの魔力探知に引っかかんねぇようにすりゃいんだろ? カモフラージュぐれぇなら朝飯前だ」
「ってことは、お弟子サマも引っかからないのかい? 君自身の魔力は、アリスちゃんの魔法具が放つ魔力の比じゃないと思うけど」
「あー……多分いけんだろ! なっ、師匠」
期待のこもるジャックの目を見て、マーリンは溜め息を一つ。
「理論上は」
「だってよ! 嬢ちゃん!」
「しかし、リスクを伴っていることに変わりはありませぬぞ。それでもなお、敢えて直接視察に向かうことに意味があるのか……私には、測れませぬ」
片メガネの奥で静かな輝きを帯びるマーリンの瞳。気圧されて言葉を詰まらせるアリスだが、その緊張を解いたのは肩に置かれたジャックの掌だった。
「俺もちょうど、街に出て見てぇもんがあんだ。ボディガードも引き受けるぜ」
「ジャックさん……ありがとうございます、心強いです」
笑顔を向け合うアリスとジャックに、マーリンは「やれやれ」と目を閉じた。
「仕方ありませんな。危険を承知で進むことを躊躇わないのも、アリス嬢が伝説の勇者たる所以と言えるのでしょうが……。して、森番殿はどうなさるおつもりで?」
「俺は自分の使命に従うだけ。アリスちゃんの興味や思考は止められないからねぇ」
「なんだよチェシャ猫、お前も来るのか?」
「当たり前だろ。本来の役割なんだから」
チェシャ猫の返答に対してジャックはいっそう目を丸くしたが、アリスは照れくさそうに微笑んだ。
「宜しくね、チェシャ。あと、毎回ごめんね」
「二言目は余計だよ。で、教えてくれるかい? こちらにおわす大魔法使いサマがストップかけてるにも関わらず、エメラルドシティに出向く目的」
「んーと……私、やっぱり直接対話がしたくて……。エメラルドシティの人たちの様子を見るだけじゃなくて、実際の空気に触れたい。ワイズ・ワームさんに情報はもらったけど、その前にオズと対面できたのは大きかったと思うの。オズの雰囲気とか、こういうこと考えそうって、想像できるようになったから」
紡ぎ出すように答えを作り上げていくアリス。頬杖をついて聞いていたチェシャ猫は、「ふーん、なるほどね」と小さくこぼし、マーリンとジャックに言った。
「それじゃ出立は明日の朝。お弟子サマも含めて、今夜は休むべきだしね。あとマーリン、例のデザインはまだ覚えてるかい?」
「勿論にございます」
「デザイン?」
アリスは首を傾げたが、ジャックは思い出したように立ち上がった。
「師匠っ、俺にイメージくれよ。師匠が魔力使っちまうより、有り余ってる俺に創らせてくれ!」
「ならば、私の杖に触れなさい」
「はいよっ!」
マーリンの杖に触れてから、ジャックはアリスに豆を一粒渡した。
「あの、コレは……?」
「いーからいーから。んーと、こんな感じか? ここに与えん。勇者の正装」
ジャックの詠唱に反応して、アリスの手の中で豆が輝く。その眩さに目を瞑り、次に目を開けた時には、見事なワンピースが出来上がっていた。しかもそれは、アリスが以前こちらの世界に来た時に、ロゼ女王がデザインしてくれた物と同じ。じわりと懐かしさが込み上げて、ゆっくりとその服を抱きしめた。
「ジャックさん、マーリンさん、ありがとうございます…」
「いーってことよ! 師匠、コーティングはこれで大丈夫か?」
「私のイメージだけで作り上げたにしては上出来だ。アリス嬢、前回と同様、その衣服には魔法を使用者に返すというオプションをお付けしております。このような時代になりましたが、保険ですゆえ」
「はい。大事に着ます」
***
彼の記憶の中で最も新しい景色は、燃えるような夕日に染められた湖に、サラサラと流れる風に身を傾ける針葉樹林。とても熱く、それでいて静かなその光景は、彼の心をそっくり写しているようだった。動物の気配はなく、風だけが水面に波紋を描いていく。
―「ごめんね」
車椅子に座った親友は、力なく笑う。ひざ掛けを握る手は、珍しく後悔を顕わにしていた。謝ってもらうことなど無い。謝りたいのは彼の方だった。
あれから、どれほどの時間が流れたのだろう。自分の望みはまだ、叶えられていないようだ。仕方ない、唯一無二の親友に多大な苦労をかけてしまったのだから。天上に神が存在するとして、自分など到底受け入れられる者ではない。
では、どのような贖罪が求められているのか。全身が焼き焦がれる錯覚を抱くほど強い陽の光が、再び降り注いだことにも、意味があるのか。
「重たかったぁ……でもこれで、ちゃんと揃った」
暗闇を裂いた甲高いその声には、にじり寄る悪意すら感じられた。かと思えば、今度は嗅覚を刺激する情熱的な香り。久しく出会わなかったその香りは、彼の本能的欲求を存分にくすぐった。
欲しい。目の前にあるのなら欲しい、欲しい、欲しい、欲しい……!
しかし、それだけは拒まなければ。自分の弱さを許してくれた親友のため、自分の能力を認めてくれた国王のため、そして……――自分という存在を受け入れてくれた、親愛なる勇者のために。
「…………やめてくれ」
絞り出した理性的な懇願は、届かなかった。