一時休戦(保留)
***
ゆっくりと息を吸って、吐いて、上を向く。見えるのは青空ではなく、土の天井。この地下空間はきっと、追われるマーリンが身を潜めるために魔法で作り上げたのだろう。
「……いっつもそうなんですよね」
「いつも?」
「多分ですけど、私が今まで見たり聞いたりしてきたチェシャって、一面に過ぎないっていうか……偽物でもないけど本物でもないっていうか……。言葉巧みだから、情報量が多くて、パンクしちゃうんです」
「だったら話は簡単だな!」
「え?」
ニカッと笑ったジャックは、ベンチから立ち上がって大きく背伸びをする。
「嬢ちゃん、あんたは賢い。加減間違っちまう俺なんかより、ずぅっとな」
「いえ、そんなこと…」
「けど賢い人間には二種類あるんだって、師匠が言っててな。シュパンッてタイプと、じっくりなタイプだ。んで、じっくりなタイプは本質を見つけやすいんだってよ」
ワイズ・ワームに言われたことを思い出す。
―「君は、言葉に込められた奥深くまで読み取ろうとすることができるが、時間を要する」
こちらの世界にいる間に限ったことではなく、アリスは「考えること」が好きなだけなのだ。込められた意味や、最善策や、行動の理由などを。ただ、間違いなく時間はかかり、即決はできない。
「チェシャ猫はシュパンッてタイプなんだろーぜ。だから嬢ちゃんと足並みが揃わない時がある。まぁ、そんなこたぁ普通に起こるからよ、嬢ちゃんがアイツの袖引っ張ってやればいーんだ。早すぎるからちょっと待てバーカ、ってな」
「ジャックさん……ありがとうございます」
思考の速度が違うだけ……その解釈で、アリスは救われたような気がした。アリスの脳内をぐちゃぐちゃにしていたのは、この世界の全体像や、チェシャ猫の考えが見えないことへの「焦り」だったのだ、と。
「帰れそうか? 嬢ちゃん」
「……もう少し、1人で考えたいです」
「そか。んじゃあ俺はここら辺の見回りしながら戻るぜ。さっきみてーなムカデはもう出てこねぇはずだから、安心してくれ」
「はい、ありがとうございます」
「それと、帰りは……もし迎えが来なかったら、そのベンチつっついて『帰り道を示せ』って唱えりゃいい。蔓が師匠のトコまで伸びるからな」
「分かりました」
ほんの少し、先ほどより晴れた表情で微笑むアリス。手を振ってから帰路につくジャックには、分かっていた。自分の魔力を辿って、こちらに「迎え」が来ていることが。
「素直に言ってやれば済む話だろーが、バカ猫」
***
あの頃と変わらず、耳の魔力探知機能は生きている。レーダーに引っかかったのは、マーリンが一番弟子としてここ数年大切に育てているジャック・ビーンズの魔力だろう。また自覚なしに強大な転生魔法を使ってしまったらしい。
まだマーリンの協力者となっていない虫が多い地下森林で、武器も無いまま飛び出していったアリスだが、ジャックがついているなら大概の危機は回避できるはずだ。
「始祖の呪い、か……」
チェシャ猫の脳裏に、先ほどのマーリンとの会話が蘇る。
小さい頃の記憶がないことなど、彼にとってはどうでも良かった。そんなもの有ろうが無かろうが、今とこれからを生きることには変わりない。けれどもし、過去に受けた呪いによって、今の自分が生きづらくなっているとしたら……解くための努力や、記憶を探す旅でもすべきなのだろうか。
もしくは、解くための努力などしようとしなくても、ただ「勇者アリス」を導くことさえしていれば、彼女のゴールに自分の目指すべきものもあるのだろうか。
おぼろげな記憶の中に、厳かな声だけが残っている。「お前は、その捻くれまみれの減らず口で、勇者を導け」と。
「…………アリスちゃん、」
縦横無尽な根の森を抜けた先、蔓で生成されたベンチの上に、目を閉じたアリスが、1人で腰かけていた。チェシャ猫の呼びかけに反応して、スッと横を向く。その瞳はしっとりと潤み、焦点はややぼやけていた。
「瞑想でもしてたのかい?」
「……うん」
チェシャ猫から目を逸らし、俯いたアリスは、深呼吸を一つしてから、少し大きな声で主張した。
「私、やっぱりチェシャが分からない」
両掌で顔を覆うその姿は、まるでチェシャ猫を拒絶しているようで、彼は一歩も動けなくなった。
「考えたけど……追いつけなかった」
「追いつく?」
「多分まだ、混乱してて、一度に色々考えるのはムリで……だから、もうちょっと待ってて……。お願いだから、置いてかないでよ……」
地下森林を吹き抜ける風は、地熱によって生暖かく、湿り気も感じる。
「……置いていったのは、君の方じゃないか」
風に溶かした呟きは、アリスの耳に届かない。
あの日、突然チェシャ猫の前に現れたアリスは、チェシャ猫より無知で無力な存在で、とても頼りになる勇者とは言いがたかった。意地ばかり張るお気楽思考の彼女をからかっているうちに、旅の目的は達成され、別れの瞬間となる。面白可笑しいから、もう一日だけ……そう願う気持ちの正体を知るより早く、勇者は元の世界へ帰っていった。
「俺だって、俺のことわかんないよ」
一歩、また一歩と、ベンチに歩み寄る。
「記憶も無いしね」
顔を覆っていたアリスが、そっとチェシャ猫と視線を合わせる。
「取り戻したいの?」
「さぁ、どーだろーね。けどアリスちゃん、今の君が考えることは、ソレじゃない。帰るための条件、早いトコ見つけないと」
伝わらなくていい。むしろ不可能だ。何故なら自分は、呪いを受けているから。混乱させることが目的じゃない。今は、大切な「勇者」を、無事に元の世界に帰すために導くことを最優先にしたい。不可解なタイムトリップをさせられたのも、アリスを導け、という「何者かの意思」に違いないだろうから。
「現状ヒントは少なすぎるけど、まずは君が聞いた声の正体を探すのがいいかな。オズじゃなくて『伝説の勇者』を頼る存在は限られるし」
「……ありがと」
「別に俺、何もしてないけど。っていうか……引っ叩かれる覚悟も少しは」
「さっきは引っ叩きたかったけど、もういい。助けてくれた報酬なんでしょ。もうこの話おしまい」
ベンチから立ち上がり、アリスはグッと背伸びをした。
「迎えに来てくれてありがとう、チェシャ」
「……あーあ、ほんっと面倒くさいなぁ」
「なっ、何でよ! ちゃんとお礼言ってるでしょ!?」
「さっきジャックと一緒だったんだろ? どうせなら一緒に帰ってくれば良かったじゃないか。そうすれば俺がわざわざ出向く必要なくなったのに。アリスちゃんは他人の仕事を増やすのも得意だよね」
「チェシャが勝手に来たんでしょ!? 私は別に迎え頼んでないから! それにジャックさん、1人で帰るための方法も残してくれたし」
「へぇー、人の親切心を『勝手に』とか言うんだ。少し見ないうちに性格悪くなったかなぁ?」
「それチェシャにだけは言われたくない! 信じらんないっ! チェシャのバカっ! そんなこと言うならさっさと引き返せばいいじゃん。私のことなんて、」
「うるさいなぁ、俺は俺でマーリンに頼まれたんだよ。夕食作るから連れ帰って来いって」
「……マーリンさんが?」
魔力回復のため眠っていたはずのマーリンが、夕食を振る舞えるのだろうか……そんなアリスの疑問を表情から読み取ったチェシャ猫。
「ポトフだってさ。だから、アリスちゃんが戻らないと俺が怒られるんだ」
「もう、起きてるの?」
「まぁまぁ回復したみたいだよ」
「じゃあ……手伝わなくちゃ。帰ろう、チェシャ」
チェシャ猫が来た方向へと歩き出すアリス。その後ろ姿を数秒ぼうっと眺めたチェシャ猫は、「折角振る舞うって言ってんだから、手伝わなくても」と付いて行く。
「私が手伝いたいの」
「ふーん。帰り道分かるのかい?」
「わ、わかんないから一緒に帰るんでしょっ!」
「はいはい」