勇者の主張(文句)
「じゃあチェシャは、自分でも知らないうちにタイムスリップしてたってこと?」
入れてもらったローズヒップの紅茶を飲み、尋ねるアリス。が、チェシャ猫は小さく溜め息をついてアリスの額を小突いた。
「うっ……な、何よ!」
「俺のことよりアリスちゃんだろ。何でまた来たんだい? 帰る条件や方法は?」
ポカンとしてチェシャ猫を見上げるアリスに、マーリンは微笑する。
「3年の月日で、いささか素直になられたと思いませぬか?」
「だから俺のことはいいって言ってるの、分からないかなぁ? けどまぁ、俺としてはほんの少しだけど納得いったよ。アリスちゃんがこの時代に来るから、何者かの意思が案内役をこの時代に呼びつけた、ってトコだろーね」
まったく面倒なことになったよ、とテーブル中央にあるクッキーを食べるチェシャ猫。
彼が何故300年後の世界で見た目もほぼ変わらず存在しているのか、それはチェシャ猫自身にも分からないという。
「むしろ変わってないのはアリスちゃんの方じゃないか。君の世界ではどのくらい経ったんだい?」
「えっと……半年ぐらい?」
「おお、それはそれは……この世界の大きな変化に、さぞ戸惑われたのでしょうな」
「はい。でも何だか、私のいた世界に近付いてる感じがしました。その、魔法の代わりに科学が進歩してるって聞いたので」
「ってことは、アリスちゃんの世界にも他の追随を許さない唯一のトップが君臨しているのかい?」
チェシャ猫の質問に、首を振る。どうやらオズの権力は総理大臣レベルではないらしい。考えてみれば当然のことだ。たった一人で何でも発明して、法を制定し、商売も武力も掌握している……そんなスーパーマンが最先端の国にいたら、周辺国は頭を下げるしかない。
「マーリンさん、私……多分、誰かに呼ばれて来たんです。低くてちょっと悲しげな、錆びた声でした」
「錆びた声? 面白い喩え方だね」
「そう? よく分からないけど……」
「となれば、その声の主を突き止め、会いに行かねば始まらぬようですな」
「でも手がかりは何も……それに、クラウ・ソラスを持っていた罪で、私も追われる立場ですし……」
迂闊に外に出て調査することもできない。次に捕まれば今度こそ間違いなく、オズの命令で即処刑されるだろう。そんなアリスの不安を汲んだ上で、マーリンは言った。
「アリス嬢、オズは魔法具や魔力保持者を排除する法こそ制定しましたが、必ずしも魔力を否定しているのではありませぬ」
「え?」
「このマーリンを血眼になって探しているのが、確たる証拠でございましょう」
「それはその、処刑することが目的なんじゃ……。オズ本人が私に言ったんです、立場を脅かす可能性があるから、魔力保持者は邪魔だって」
「あははっ、相変わらずバカ正直だねぇ。一癖も二癖もありそうなあの大臣サマと直接対面しといて、どうして額面通りに受け取ろうと思えるのさ?」
チェシャ猫の指摘はもっともだったが、相変わらずの言い方にムッとせざるを得ないアリス。その心境を(恐らく)察した上で、チェシャ猫は美味しそうにクッキーをもう1枚食べる。
「森番殿の推察は正しいでしょうな。オズは科学を追究し、医学を極めた。ゆえに知らぬはずがないのです、それら学問が干渉し得る生命の臨界点を」
「……もしかして、オズは人の生死に対して、魔力を使おうとしてるんですか?」
「一番可能性があるね。だからこそ、一般市民には魔力なんて使ってはいけない悪しき力だと触れ回り、遠ざけてるんだ。特別な力は独占したくなるものだろ?」
いよいよアリスには、オズを立派な統率者だと思えなくなってくる。一方で、そういう思想に辿り着いてしまう理由も分かる気がした。これまで受けてきた歴史の授業が役立っているのだろうか。
「エメラルドシティの人たちは、気付かないんでしょうか」
「そもそもマーリンの捜索自体、秘密裏に行われているみたいだしねぇ。大衆としても、個人のバロメーターに差のある魔力より、操作方法さえ学べば誰でも簡単に動かせる文明の利器たちの方が、使い勝手が良いんじゃないかな」
「そういった視点で捉えれば、オズは民に平等を授けたとさえ受け取れますな」
科学技術によって、誰もが同じような身体能力を得られ、同じような可能性を持ち、同じような水準で生活ができる……王政ではあり得ない社会が作られているのは確かだ。
けれど、この状況が「オズによる独裁状態」だと民衆が気付くのに、そう時間はかからないはずだ。革命が起きれば法は整備され、オズの独断によって抑圧されている魔力保持者や獣人も、解放されるのではないか。
ぐるぐる考えるアリスの横で、チェシャ猫が時計を見て言った。
「あ。マーリン、そろそろ時間だよ」
「おや、それでは私は少し眠らせていただきますぞ」
「え?」
時計が差すのは午後3時。首を傾げるアリスに一礼して、マーリンはススキ色のカーテンの向こうにある寝室へと姿を消した。
「今日は少し無茶してもらったからねぇ。ああ見えて多分、相当つらかったんじゃないかと思うよ。問いただしても無駄だろうけど」
「どういうこと?」
「足が速くても走れば疲れる。それと同じで、魔力が強くても使えば疲れるのさ。ただ、通常ならさっきみたいに雑談でもしてれば回復してくんだけど……世間が魔力不信になってるせいか、ああして定期的に深い睡眠が必要らしい」
「そう、なんだ……」
チェシャ猫の言った「無茶」というのは、自分たちを転送させた魔法のことだろう。ハンプティをまくためだったとは言え、申し訳なく思い俯くアリス。
と、不意に目の前のカップが、チェシャ猫にさげられる。
「もう1杯飲むかい?」
「あ、うん。……ありがと」
お湯を沸かし直して、茶葉の入ったポットに注ぐ。
ゆるりと漂ってくるローズヒップの香りの中、その後ろ姿をぼうっと見つめていたアリスは、ふと浮かんだ疑問を口にした。
「チェシャ……背、伸びた?」
「何だい? 急に。若干伸びたとは思うけど、ここ数年ちゃんと測ってないからねぇ」
数年、と聞いてアリスは納得する。どうしても自分の感覚が先行してしまうけれど、違うのだ。この世界は「あの冒険」から300年以上経っていて、チェシャ猫にとっても3年後の世界。そこかしこに散らばる変化にいちいち驚いていては、キリがない。
「そっか……そうだよね」
自分に言い聞かせるように、アリスは呟いた。
「何が?」
ローズヒップティーが入ったティーカップを置いて、チェシャ猫が尋ねる。大したことじゃないよ、とアリスは微笑む。
「やっぱり私、相当テンパってたんだなぁって。私にとっては半年でも、チェシャにとっては3年経ってて、マーリンさんにとっては300年後なんだもんね。変わってないワケないのに、変わっちゃったことが何となく……寂しい感じがしてたの」
「……ふぅん」
チェシャ猫はひょいっと机の縁に座り、斜め前からアリスの顔を覗きこむ。
「アリスちゃん的には、半年前のことなんだ」
「うん」
「じゃあ、結構鮮明に覚えてたりするのかい?」
「え? うーん……あの後、向こうの世界でも割とバタバタしてたんだけど…………」
質問の意図が分からず、アリスは言葉を濁して紅茶をすする。チェシャ猫は、何か思い出して欲しいことでもあるんだろうか。ならば記憶を逆に辿ってみようか。
ローズヒップティーのピンク色の水面を見つめ、思い返す。
元の世界に帰ったのは、ベッドの上で、その時に魔法石は首にかかってなくて、安心して……いや、その前に叫んだような……何でだろう? 信じられないことが起きて、そうだ、文句を言いたかったんだ。なぜなら、元の世界に帰る直前に……!
――「ごちそうサマ」
「あ!!」
顔を上げた瞬間、チェシャ猫の愉し気な視線がぶつかった。湧き起こる震えは動揺か、怒りか、それとも。アリスが何を思い出したのか、きっと気付いているに違いないのに、チェシャ猫はわざとらしく目を丸くする。
「あれっ? どうかした? 急に赤くなって、熱でもあるのかい?」
額に伸びてくる手を警戒して、アリスはガタンッと立ち上がった。数歩後ろに下がってはみたが、もう手遅れなのは自分でも分かっていた。
「だ、大丈夫だからっ!」
指が震える。体が震える。唇が震える。
文句を言いたい。けどどうやって? 何をどう言えば伝わるのだろうか。いや、そもそも伝わるのだろうか。
出来ることなら思い出さないまま過ごしていたかった。あまりに衝撃的過ぎて、必死に記憶から消去していたのに。これでは、意識するなと言う方が無理な話になってしまう。
「そう。ならいーんだけど」
(推測だが)意図的に思い出させておいて、チェシャ猫は特に追及も弁解もせず、クッキーをまた1枚。
顔が熱いのは、怒ってるからだ。チェシャ猫に文句を言わなくては。覚悟を決めて、アリスは口を開いた。
「わ、私は! まだ、その……許してないんだからっ!!」
「ん?」
「お、怒ってるの!! だって、だって信じらんないっ!! 報酬だとか言って、その……」
「キスしたこと?」
続きを言われたせいで、アリスの肩はビクッと跳ねた。これ以上動揺しちゃいけない、と必死に言い聞かせながら、「そう、それ」と答える。
するとチェシャ猫はストッと机から降り、一歩アリスに近付いた。
「アリスちゃんが言ったんじゃないか。報酬あげられればって」
「そ、それで何でそーなるのよ! 意味わかんないっ!!」
「んー……リンゴみたいで美味しそうだったから、かな?」
「ホント信じらんない!! 全然! 全く! 意味わかんないっ!!」
主張するのに必死で、けれど恥ずかしくてチェシャ猫の顔を見ることは出来ずに、アリスは斜め下の床に向かって訴えていた。
だから気付かなかった。一歩ずつ、距離が縮まっていることに。
「……じゃあさ、」
「えっ……!?」
ぎゅっと抱き寄せられるまで、分からなかった。先程ぼんやりと感じた以上に、チェシャ猫の背が伸びていたこと。
「俺は、謝んなくちゃダメってこと?」
彼が今どんな顔をしているのか、見えないし分からない。弄んで楽しんでいるだけかも知れないし、真剣に考えているのかも知れない。
途端に、怒りをぶつけること自体が無駄なんじゃないかと思えてきた。
「……もう、いい。謝られたって、どうせ許せないし」
正直、文句を言ってもどうにもならないことは分かっていた。奪われたファーストキスは、戻らない。
それならせめて、(300年後とは言え)同じ世界に再び来れて、(3年後の姿とは言え)チェシャ猫に再び会えて、不満をぶつけられただけでも良しとしよう。アリスの心が折り合いをつけようとした、その瞬間。
「だったら……もう遠慮しない」
小さな呟きと共に、チェシャ猫の腕が緩む。そしてアリスは、完全に不意を突かれた。