あり得ない再会(無茶振り)
「キミが誰かは知らないけど、ボク、愉しみを邪魔されるのが大っ嫌いでさぁ……返せよ」
「丁重に却下させてもらうよ。悪いけど、この子をいじめるのは俺の特権なんでね」
信じられなかった。夢の中で、さらに夢を見ているんじゃないかと錯覚するほど。呆然とするアリスに対して、彼はお決まりのバカにしたような笑みを見せる。
「やぁ久しぶり。間の抜けた表情は相変わらずだねぇ、アリスちゃん」
「チェシャ……!」
まさか本当に、本物のチェシャ猫なのか。今のアリスには、確信を持って断言できる要素が何もなかった。それでも、この距離で感じる彼の香りは、あの時と同じ。森番の名に相応しい、葉っぱの香り。
だが、アリスを包み込む安堵の空気は、瞬く間に凍らされる。
「はぁ……面倒だなぁ。返す気がないなら……始末しようっと」
声をワントーン低くしたハンプティが、腿に備え付けていたダガーナイフを手に取る。アリスを抱えて木の上から見下ろすチェシャ猫を仕留めるべく、近くの木の枝に飛び乗った。
「アリスちゃん、掴まってて」
「あ、うんっ」
間髪入れずに枝を飛び移り始めるチェシャ猫。さすが森番をしていただけあって、その速さは平地を走るより速く感じる。
だが追うハンプティも大したもので、距離が縮まりこそしないものの、離されることもなく付いてくる。
「あははっ、ボクをまけるワケないだろうっ!? 捕縛率100%なんだから!」
「その数字を覆せるなんて、身に余る光栄だね」
「獣人のクセに……調子乗るなよ」
アリスには、ハンプティがナイフを持つのと反対の手に何かを構えたのが見えた。
「チェシャ!」
「おっ、と」
反応したチェシャ猫が寸前で回避したのは、ワイヤー付きのスタンガンだった。先端の金属球に触れれば感電するようだ。
「……ほんっと、文明の進化って厄介だよねぇ。ロクなモンが作られない」
「遅れてる自覚のあるヤツは、皆そう言うよ」
ワンプッシュで伸縮自在なワイヤーによって、何度も何度も金属球が放たれる。木の枝を渡りながら避け続けるチェシャ猫は、「ねぇ」とアリスに小さく呼びかけた。
「アリスちゃん、ソレ、使えるんだよね?」
「えっ?」
「一瞬でいいから、アイツとの間にデカい壁作れたりする?」
「……やんなきゃヤバいんでしょ?」
「へぇ、少しは察しが良くなったじゃないか」
わざとらしく言うチェシャ猫を前に、アリスは自分の中にあった様々な不安が消えていくのを感じた。出来るかどうかなんて未知数だが、確実に言えることがある。それは、先ほどとは段違いの希望が、アリスの背を押してくれているということ。
アリスの覚悟が決まったのを、チェシャ猫も汲み取ったのだろう。ポケットから何かを取り出し、そのピンを歯で引き抜いた。
「まさかソレっ……」
「アリスちゃん、宜しくっ!」
平和な日本でのうのうと生きてきたアリスにも分かる、チェシャ猫が後方にポイッと投げたのは……手榴弾だった。
つまり、アリスがクラウ・ソラスで丈夫な「壁」を作れなければ爆風によるダメージは免れない。何て無茶苦茶なことを、とチェシャ猫の神経を疑いながらも、アリスは固く目を閉じて祈る。
お願い、お願い、クラウ・ソラス……あれが爆発する前に、その爆風が自分たちを襲う前に、どうか、どうか大きな壁を……。やっと出会えた希望を、チェシャ猫を、傷つけるワケにはいかない!
ドガァァアン!
空気の震えが伝わるほどの音、木々から鳥たちが飛び立つ音、そして……
「上出来じゃないか、勇者サマ」
チェシャ猫の満足そうな声が降ってきて、アリスはそっと目を開けた。
「わぁ……」
「さて、あとは俺たちの仕事だ。……マーリン、頼めるかい?」
―「勿論ですとも」
(恐らく自分の願いによって)生成されていた虹色の壁に目を丸くするアリスだったが、チェシャ猫の呼びかけに対して聞こえてきた声に、より驚いた。
「今の、」
チェシャ猫に声の正体を確かめようと口を開いた、次の瞬間。アリスが瞬きをした直後、辺りの景色は一変していた。
ハンプティの姿が見えないのはもちろん、虹色の「壁」はいつの間にかクラウ・ソラスとしてネックレスに戻っており、木々の枝葉ではなく、無数の根で囲まれていた。
「あ、あれっ?」
「こっち」
アリスを降ろしたチェシャ猫は、そのまま手を引いて歩き出す。根と根の間を縫うように進み、やがて、一つの扉の前に辿り着いた。
「ここは……?」
「俺たちの拠点さ。どうぞ、入ってごらん」
「じゃあ……お邪魔します」
そっと押してみれば、木の板で出来た扉がギィと音を立てる。オレンジがかった優しくて温かいランプの光がこぼれ、正面にはダイニングテーブルと4つの丸椅子。
お人形遊びのログハウスのようで、表情を緩ませるアリス。
「カーテンの向こうだよ」
「何が?」
「いいから」
後から入ってきたチェシャ猫に促され、ススキ色のカーテンを開ける。と、そこには1つベッドと、その上に腰かける白髭の……
「お久しゅうございますな、アリス嬢」
穏やかなその微笑みは、自分の涙のせいですぐにぼやけてしまった。
「マーリン、さん……良かっ、た…………」
時間で言えば丸2日経っていないのに、とてもとても長かったように感じる。そのぐらい怖くて、寂しくて、不安で、疲れて……――
「アリスちゃんっ!?」
力が抜けたように傾いたアリスの身体を、チェシャ猫が咄嗟に支えた。
***
―「鈴、ちょっと鈴! まだ着替え終わらないの?」
―「早くしねーとヒレカツ冷めるぞー」
そうだった、今日の夕飯はヒレカツだった。
待ってよお母さん、あのね、ちょっと制服汚しちゃって……。え? 何でって……それは、その……走り回って、投獄されて、野宿して……――
―「教えてくれ」
錆びたオモチャの声がする。私に向かって言っているのか、他の誰かへの訴えなのか、たった一言からじゃ何も、何も分からない。
何を教えればいいの? 何処に行けばいいの? それは私が知っていることなの? 貴方は、誰なの?
目を開けると、土の天井が見えた。ところどころ、木の根が走っている。かけられていた毛布からはほのかにローズの香りがして、アリスはゆっくりと半身を起こした。カーテンの向こうから話し声が聞こえる。ここは何処だろう。どうしてこんな、見覚えのない場所に寝て……
そこまで考えて、バッとベッドから降りる。藤色のカーテンをめくった先に、ダイニングテーブルと知った顔が二つ。正確には、知り合いの面影がある顔、だが。
猫耳としっぽを生やした彼が、トパーズ色の瞳を向けて口を開いた。
「ああ、起きたんだね。おはよう、アリスちゃん。良い夢は見れたかな?」
続けて、白髭をたくわえ片メガネをかけた茶色いローブの老人が言う。
「余程疲れていたのでしょうな。急に倒れられて、心配しましたぞ」
大魔法使いマーリンは、以前より少し痩せ、体力も衰えているようだった。
「マーリンさん、あの……お加減が悪いんですか? 私、聞いたんです。ワイズ・ワームさんに、この時代のこと」
「へぇ……良かったらじゃないか、マーリン。最後の予知はちゃんと機能してたみたいだよ?」
「機能したことでなく、それを信じ、動いてくれた古き友に感謝せねばなりませんな。……さぁ、どうぞかけられよ、アリス嬢。貴女のことだ、この世界における疑問をいくつかお持ちでしょう。このマーリンがお力添えいたしますぞ」
「弱ってるとは言え、まだ俺たちを転送するくらいの魔法はお手の物みたいだからねぇ」
マーリンが示した椅子に座り、隣のチェシャ猫を見上げるアリス。視線に気付いた彼は、首をかしげる。
「何だい?」
「えっと……チェシャ、なんだよね?」
「あれっ? 追手から逃げる時は前より察しが良くなってると思ったんだけど、ちょっと眠ったらまた頭のレベル戻っちゃったみたいだね」
この長々とした憎まれ口とイラッとさせる笑み……間違いない、チェシャ猫だ。正直、この青年がチェシャ猫であることは、表情と口調だけでなく声や香りのことを考えても明らかだった。
けれど、どうしても腑に落ちない。その疑問を口にしていいのか躊躇うアリスに、胸中を察したマーリンが言った。
「どうやらアリス嬢の一番の疑問に、私は答えられぬようですな」
「え?」
「ワイズ・ワームに聞いたのでしょう、アーサー王陛下没後、三百余年が経過したと。街は変わり、政治体制も変わり、長く生きる私ですらこのように年老いた。……にも関わらず何故、森番殿は変わらないのか」
「そんなの、俺が知りたいぐらいだよ。俺の感覚では、アリスちゃんが魔法石捨てて元の世界に帰ってから、三年半しか経ってないんだから」
「そうなの!?」
驚くアリスに対し、チェシャ猫は面倒くさそうに頬杖をついて答える。
「アレから毎日ヒマで退屈で衰弱死しそうだったからさぁ、女王様に休暇もらったんだよねぇ。カトゥタカ方面にでも旅してみようと思って。けどあの山脈越えるの想像以上にしんどくて、面倒くさくなったから数週間で引き返したんだよ。そしたら城があった場所には何もないし、街並みどころか政権も変わってるしで……さすがに意味不明だったね」
かいつまんで話しながら、チェシャ猫はアリスの前にティーカップを用意し、紅茶を注ぐ。付け加えるようにマーリンが言った。
「及ばずながら、森番殿の身に何が起きたのか、私にも把握できずじまいです。ハートキングダムも遠い昔に亡び、つい1年ほど前に再会するまで、私も、森番殿は行方不明になったと思っておりました」