第一話 そして「普段」ではないこと
1,
人間の記憶というものはある程度の連続性をもつ。
それはつまり、「どういう流れで自分がいまここにいるのか」を理解しているという事である。
どのような手段でここにきて、どういう理由でここにいるのか。人間は、そういう「行動の文脈」を記憶しているのだと言うことができる。
睡眠や他の要因によって意識が止まることはあるが、家の布団で寝たら起きるのも家の布団なわけで、断絶が起きた記憶にもある程度はつじつまが合うようになっている。
これが普段である。そして「普段」ではないことが起きたとき、人は個人差があるもののほぼ例外なく混乱する。
俺は混乱していた。つまり普段ではないことが、異常が、発生していた。
俺は学校の数学の授業を居眠りで攻略していたところ、気づけば走行中の車の中で拘束されていた。
バンタイプの車両の後部座席。その左席に俺は身動きを封じられた形で、そこに座っている。
人を動けなくさせるために作られたようなサイズの黒いゴムバンドでスマキにされていた。漆黒の繭と形容するのがふさわしいだろう。
頭部は解放されており、繭の頂点に俺の頭が添えられている形になる。
よく見れば、俺の身体にはシートベルトが装着されていた。俺を拘束した人物はこの車の走行中においては、俺の身の安全を危惧してくれているのかもしれない。
車は走行中である。つまり運転手がいる。俺の位置からはその横顔が見える。
男だった。歳は三十代だろう。頭を丸めており眉毛とひげを丁寧に剃り上げている。彼の顔面に確認できる毛はまつ毛のみである。
運転中だからもちろん正面を向いている。その表情は端的に言えば「真顔」だが、何か切迫したもの感じる。
車の中には、運転手の男と俺の他にもう一人、女がいた。若い女だ。おそらく二十代。もしかしたら十代かもしれない。
黒い皮のワンピース(こんなものははじめてみた)を着ている。長袖でスカート部分も足首辺りまであり、顎の下が隠れるほど高い襟のワンピースである。だから彼女の肌は顔面部分においてのみ露になっている。
二人とも沈黙を守っている。どちらも未だ俺の意識が戻っていることに、気がついている様子はない。
車の窓にはカーテンが備え付けられていて、外の景色を見るにはフロントガラスに目をやるしかない。
信号や建物、また歩道が一切ない淡白な作りの道路が見える。そこは高速道路だった。
俺が拘束されているバンは、夜の高速道路を疾走している。
もういいだろうか。この状況についていろいろと言いたいことがあるし、いつまでもわけのわからない状況に振り回されるのは辛抱ならなかった。
「なんなんだよこれェ!!」
俺は叫んだ。
松戸洋、17歳、男。夏の出来事である。
2,
「うおっ」 「きゃ」
男と女が同時に悲鳴を上げた。意識がないと思っていた人間がいきなり叫べば、当然驚くだろう。正直狙っていた。気分がすかっとした。
「なんで俺捕まってんだ!? あんたらだれだ!」
俺は女の方に向かって怒鳴る。大抵の女は男に本気で怒鳴られることに馴れていない。
弱い方から狙うのはこの世の掟である。俺は少しも恥ずかしくなんかない。まったく恥ずかしくなんかはないのだ。
女は俺を睨む。俺に怯えているようにも見えるが、どちらかというと嫌悪の視線である。
一般的に男というのは、女から向けられるこの手の視線に弱い。特に思春期男子は婦女子にこれをされるとしばらくは立ち直れない。みんな平素な顔でごまかすが、硝子のハートはコナゴナだ。
俺は女を見つめながらコナゴナに砕けた心を拾って慰めという名の接着剤で修復していると運転手の男が叫んだ。
「なぜこいつが目をさます!? ハリマ! おまえの責任だぞっ!」
ハリマと呼ばれて女は返す。
「知らないっ! 昏睡魔法は効いているはずなのに!」
男は叫ぶ。
「とにかくこのままはまずい! もう一度眠らせろ!」
女はそれに返事せずに、俺の額に手をかざす。
「愛する神よ、非力な私に力をお与え下さい」
女が祈るとかざした右手が青白く光はじめる。
「うひぃっ!? まてまてまて、なんだそれ!?」
俺はなさけない悲鳴をあげて女の手に噛みついた。
「痛い!!」
女は叫ぶと同時に俺の鼻柱にゲンコツを繰り出す。
俺は未だ、拘束された状態なので、勇敢に拳を顔面でブロックする。
直撃だった。
「ぶぇ」
間抜けな音が俺の喉から飛び出した。すぐに鼻からは血がどくどくと流れ出す。
鼻の骨と同時に心が折れた。目の奥から涙があふれでてくる。なさけないけれど止まらない。だって鼻の骨が折れてるんだもん。……すごく痛い。
女は少しも俺に同情する様子はない。むしろ誇らしげだ。なんだこの女は。お前が折ったんだぞ。この鼻。
「待て!まず確認しろ!」
俺は叫ぶ。
「俺は松戸洋!俺は拐われる覚えなんてないんだ! 人違いなんじゃないのか!?」
「人違いなものか!!」男が怒鳴った。
「『おまえ』だ! 間違えるはずかないっ!我々はお前のせいでっ……!」
男の言葉が切れたとたん、その目から涙が流れた。それは俺の流したものとは違う涙だった。見れば分かる。体の痛みでなく、心の痛みがもたらす類いのもの。
それにつられて女も泣き始めた。
俺の知らないところで、しかし俺のせいで、大の大人が涙するほどのことが起きているのだろうか。
本当は家に帰りたかった。うちのお袋の飯はうまいんだ。テストも近い。勉強をしなければいけない。
だが、しばらく家には帰れそうにない。そして、何も知らずに帰る気もなかった。
【追記】2017/8/20
現在、六十九話まで連載が続いている本作ですが、一話から順に文章を推敲し直しています。ストーリーには全く影響はありませんので、読み返す必要ありませんが、サブタイトルだけは完全に変更しています。
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