壊れたピアノへの鎮魂歌
僕は、旅が好きだ。何故なら、自分が知らないものを見れるし、そこで多くの人と出会えるから。そこで出会った思い出は絶対に忘れられない大切な宝となる。
初めて一人旅をして感じた思いを、僕はいまだに忘れられていないのだ。
ちなみに、最近僕がハマっているのは電車に乗って適当な駅で降りること。別に下りる時の基準は決まっていない。駅名が面白そうだったり、そこに至るまでの景色で興味を引かれるものがあればそこで降りるのだ。
そして今日も――僕は電車から降りて背中にリュックサックを背負って歩き出す。
今僕がいる駅の名は『秋梨』。秋の梨という、どことなく美味しそうな響きを感じる駅だったので下りてみた。
無人の改札を抜けると、見えてきたのは田んぼだった。けれど、人の姿は見えない。確かに今は昼時だが、それにしても人の気配が薄いのだ。
僕は首を傾げながら駅から適当にぶらぶらと歩いていく。それからも周囲に視線を巡らせてみたが、人がいるようには感じなかった。
一応古びた民家を覗いてみたが、どうやらすでに人は住んでいないらしい。とすれば、どこか別のところに住んでいて、田んぼを耕すときにだけ来るのかもしれない。
僕はそんなことを思いながら足を進めていく。すると、不意に僕の腹の虫がわめきたててきた。
「参ったな……」
途中下車の旅をするときには、基本食べ物は持ち歩かない。何故なら、その地の特産品を食べた方がいいからだ。だが……見渡す限り目に入ってくるのは田んぼやその他の田園風景。人がいるようには思えなかった。
「しょうがないか……」
まぁ、こればっかりは仕方ない。僕はリュックの中からすっかり温くなってしまったお茶を取り出し、口に運ぶ。温いとはいえ、喉が渇いている時だとそれも最高に美味しく感じる。
僕はペットボトルの中のお茶をちびちびと煽りながら先を歩いていく。すると――前方に何やら公民館という立札がかけられた建物が見て取れた。
「もしかしたら、人がいるかも」
そう思い、小走りでそちらへと向かっていく。
見たところ、かなり古い建物だ。昭和からあるのではないかというほどボロボロで、それに屋根の瓦は何枚か剥れていた。
その不気味な様相に唾を呑みこみつつ、僕は引き戸に手をかける。
が、びくともしない。錆びついているのか、がりがりという嫌な音が耳朶を打った。
「よい……しょぉ!」
やっとの思いで開けて、僕はハッと口元を覆う。何故なら、開けた途端埃が舞ってこっちに押し寄せてきたからだ。
僕はそっと目を細めて前方を見やる。天井にはクモの巣がかかっているし、床はところどころ穴が開いている。
本能的に、僕はここが潰れた公民館であると判断した。
本来なら、ここで引き返していただろう。だが……僕はなぜかここにひどく興味をそそられた。
埃を手で払いながら進み、玄関で靴を脱いで上に上がる。ギシギシと床がきしみ、ともすれば穴が開いてしまいそうだ。僕は細心の注意を払いながら一歩一歩進んでいく。
ともすればカタツムリにだって抜かれそうになるのではないか。
僕はそんなことを思いながら散策を開始する。
基本は普通の公民館だ。廊下があって、左右にはそれぞれいくつかの部屋がある。そのうちの一つには、大きな黒板があってそこにチョークでいっぱい書きこまれていた。どうも、この公民館への感謝を綴った文のようである。
ほんの少しだけ温かな気持ちになりながら進んでいると、右の方で何かの気配がした。
「誰かいるんですか?」
そっと引き戸を開けてみるが、そこには誰もいない。あるのは、ピアノだけ。そのピアノというのも長年使われていないのか、埃を被っていた。
「酷いな……」
このピアノというのもそれなりに古い。流石にこの建物ほどではないけど。
僕は手でピアノに着いた埃を払い、それから鍵盤をチョンと指でつついた。
すると意外なことに、とてつもなく綺麗な音が鳴ったのである。それこそ、新品と錯覚するかのような、そんな綺麗な音だった。
念のため、一つずつ弾いていく。だが、どれもこれも完璧な調律がなされていた。
僕は内心驚愕しながら、ピアノの椅子に腰かける。まさか、こんな綺麗な音が鳴るなんて思いもしなかった。
澄んでいて、気持ちの良くなる音色だ。僕はふっと微笑んで背負っていた荷物を下ろし、それから指をグニャグニャと動かして鍵盤の上に置いた。
奏でるのは、以前アメリカの食堂で出会ったピアノマンから教えてもらった曲。曲名を忘れてしまったが、何でも彼の故郷の曲だそうだ。
静かで、滑らかなメロディーを僕は奏でていく。簡単な旋律だが、それでも工夫によっては素晴らしい演奏となりうる。もちろん、ピアノの状態がいいのもその一因だ。
まるで指が自分の意思を持っているかのようだ。僕は初めての感覚に戸惑いながらも笑みを浮かべて演奏を繰り返し、歌を口ずさむ。
そのピアノマンが歌っていた英語の歌詞を、とりあえず感覚で口ずさむ。何故だか分らなかったが、非常に心地よかった。
やがて最後の章節を引き終えて、僕はそっとピアノの鍵盤を指でなぞった。
「ありがとう。楽しかったよ」
僕は一曲だけ付き合ってくれたピアノに別れを告げ、公民館の外へ出る。その時、胸に温かいものがこみ上げてくる感覚があったが、きっとこれは満足感だろう。
僕は外に出るなり、ほぅっと息を吐く。
「ん?」
と、そこで右の方から誰かがトラクターに乗ってやってきているのがわかった。年の頃は六十頃と思わしき、麦わら帽子を被った男性だ。僕は彼の方に寄り、話しかける。
「こんにちは」
「おぉ、こんにちは。若いもんがここに来るなんて、珍しいねぇ」
「ええ、まぁ旅をしてるんです」
「旅か。そりゃあええなぁ」
男性は日焼けした顔を僕に向け、ニッコリと笑ってきた。僕はそんな彼に笑みを作りながら、問いかける。
「あの、あそこの公民館っていつ頃潰れたんですか?」
男性は僕の後ろにある建物に目をやって、頷いた。
「おぉ、あれか。あれは、三十年くらい前だなぁ」
「三十年!」
だとすれば、あれも納得だ。だが、一つだけ腑に落ちないことがある。
「あの、誰かあそこでピアノの手入れをしているんですか?」
ピアノは放っておいたら調律がめちゃくちゃになってしまうはずなのに、あれは完璧だった。本当に新品ではないかと思ってしまったほどだ。
けれど、男性は首を振る。
「いやぁ、そんな話は聞かねえなぁ。それに、あのピアノはもう壊れて引けなくなっているはずだで」
「え? でも、僕は確かに……」
そこで、男性は暫し首を捻った後で、ニッと笑みを作ってきた。
「もしかしたら、寂しかったのかもしれねえなぁ。だから、最後の力を振り絞って誰かに弾いてもらいたかったんでねえか?」
まさか、そんな。まるで楽器が意思を持っているような、そんな夢物語が……ないとは、断言できなかった。だって、僕自身経験してしまったのだから。
男性は僕にぺこりと頭を下げ、それからこう言った。
「ありがとな、あんたに弾いてもらえたんなら、ピアノも本望だったろうよ」
彼はそう言って走り去っていく。僕はその後ろ姿を見送った後で、もう一度ピアノの元へ戻った。
僕は荷物をその辺において、すぐさま鍵盤を弾く。が、返ってきたのはめちゃくちゃな音だった。ドを押したはずなのに、高すぎてレのようになっている。他のところも大体同じだった。
「……そんな」
ピアノの調律は見事に狂っていた。先ほどまで、あんなに綺麗な音を響かせていたというのに。
僕はどこか誇らしげな様子のピアノを指で撫で、言った。
「……お疲れ様」
僕はそれだけ言って荷物を取りに――
『ありがとう』
「――ッ!?」
行こうとした時、後ろからそんな声が聞こえてきた。慌てて振り返るも、そこにいるのはピアノだけ。最初来た時よりも神々しく、美しく見えるピアノだけがそこにあった。
このピアノには、本当に意思があるのかもしれない。付喪神というものの一種かもしれない。だからこそ、僕は言わねばなるまい。
「こちらこそ、どうもありがとう」
僕は不思議なピアノに分かれて公民館を後にする。
今日、僕は新たな出会いを経験した。
それは人ではないけれど、とても不思議で、美しい、ピアノだ。
僕は胸に幸福感と満足感を得ながら外へ出る。空は快晴で、澄み渡っている。
僕は大きく息を吐きながら、腰に手を当てた。
「さて……次はどこへ行こうか」
願わくば、また新たな出会いがあらんことを。
僕はニッと口角を吊り上げ、そんなことを考えた――。