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Magie - Noir  作者: 斑鴉
6/7

5  セリア=ファンベル    <灰色の娘> 

「なに楽しげにくつろいでる!」

 唐突に現れた坊主頭は、忘れもしないオズケスだった。

「まだ判らないかよ不感症! 死にたかったら死んじまえ!」

 横には当然ゼメーギンがいる。

 今朝の事件を問い詰めようとして思い止まる。

 二人の顔には、恐怖の相がありありと焼きついていた。

「無事に逃げろよ!」

 そう言い残し、オズケスたちは来た方角と反対側に走り出した。

「なんのことだか教えてよ!」

 とっさにセリアは去っていくゼメーギンの手を掴み……

 すり抜けた。

「……え?」

 セリアは呆然と右手を見つめた。

 指の合間から見える、逃げていく二人の背中が次第に薄くなっていく。

 遠ざかるのでも、暗中にまぎれるのでもなく、透けるように薄くなり、もっと薄くなり、消えそうになって、ついには消えた。

「今のは……?」

「幽霊だ」

「じゃあ」

「ああ、二人とも肉体は死んだ。その幽霊だ。すぐ消滅するような、意志も思考力もない、自分が死んだとも気付かない、ごく低級の幽霊だがな」

 そして本当に世界から消えた――――

 シドックがなにを言ったのか、よく理解できなかった。

 実に覚えのない相手から面と向かって貶されたように、声はしっかり聞こえているが、感情が内容を拒絶している。そんな状態だ。

 実感がわくと、急に怒りがこみあげてきた。

「低級ってなによ! そりゃロクな男じゃなかったけど……っ」

 二人の人間が、身勝手だろうと二人にしかない感性で積み上げた過去が。そして未来が眼前で無くなったのだ。

 本当に、まったくなにもなくなったのだ。

 言うことは別にないのか?

「それでも見上げたもんじゃないか」

「なにが」

「二人とも、これから自分が死ぬって間際、嬢ちゃんを助けようと思ったんだぜ? こんな非常識な遺跡の中だからでも、オレっち達に見えるほど強く、みんなで助かろうって思ってたんだぜ?」

 セリアは言葉を失った。そして足元と、二人の姿が消え失せた場所を交互に見つめた。

「しかしな……」

 沈黙を破ったのはシドックだった。多少は余裕がでてきたようで、また人型を取り戻している。卵にも見える頭を傾けて、穏やかに寝るウルザンドに目を落としたようだ。

「せっかく治してもらったが、どうやら無駄になりそうだ」

 

 シドックは訥々と、この地下水道――遺跡で起きていることを語り始めた。

 過去にギルゼリアで命を落とした人間の魂が、ずっと消失という死から保護されていたこと。ネーバスが管理していたこと。魂の発する苦しみが、遺跡の空間を歪めていること。

 早まったイズリッドたちが不用意に保護の結界を破壊したため、保管されていた数千万の魂が暴走し、昨夜ウルザンドの部屋で見たような『悪霊』と化していること。

 事態を収拾する責任のあるネーバスは、イズリッドを連れて早々に逃亡したこと。タルムードが死んだこと。オズケスとゼメーギンも、その『悪霊』に殺されたこと。

『悪霊』の頭が遺跡を突き抜けて、内部にいた人間ごと城を粉砕したこと。

 まもなく収束を終えて『悪霊』が動きだすこと。

「厄介なものを押しつけやがって、てめえは若いツバメと一緒に逃げたか」

 そして唯一、事態を収める能力のある人間はセリアたちの前に倒れていて、三日くらいは目を覚まさないだろうこと。

 

 そこまで語り、シドックは苦々しげに舌打ちのような音を立てた。

「しかも近いしな。嬢ちゃん達だけでも逃げろ。そのガキがいれば、急いで走れば助かるかもしれん」

「あんたは?」

 シドックは言いづらそうに間を取った。

「オレっちは、まあ、最期までウルの面倒みてやるよ」

「これからどうなるの?」

「白魔導士が言ってたようにギルゼリアは全滅。周辺も無事じゃ済まないだろうな。それでもそのうち、あちこちから集まった魔導士に退治されるさ。あるいはネーバスが片付けに戻ってくるかもしれん」

「もし、あんたより先にウルザンドが死ねばどうなるの」

「相変わらず痛いとこ突くな」

「答えてよ」

「…………ネーバスの呪いは新しいミクジースに継承されて、オレっちもそいつの元に飛ばされる」

 観念したようにシドックが言う。肚は決まった。

「フィミ。先に行ってなさい」

 さすがにフィミも深刻に表情を曇らせている。それでも首を真横に振った。

「お前ら……」

 セリアはシドックを睨んだ。

「あたしは嫌だからね」

「嫌で済むかよ」

「どのみち、外まで走れないし」

 起き上がり、セリアはがくがくと震えている膝を示した。

 魔法で体力を使い果たした上に、もともと酷い筋肉痛である。

 立って歩くので精一杯。走るなど問題外のまだ外だ。

「すまなかったな。巻きこんじまった」

「そうでもないよ。それよりあんた、簡単に諦めすぎって言ったでしょうが」

「……何やらかす気だ?」

「その『悪霊』が消えちゃえば、なにも問題ないんでしょ。魔導士様に任せなさいよ」

「嬢ちゃんもか」

「なにが」

「この馬鹿の次は、あんたが血迷ったかと言ってんだ。半端な相手じゃないんだよ。一人で何億人の相手するのか判ってんのか。そこで死んでる馬鹿だって、手段を間違えれば生命に関わる」

「…………」

「断言してやる。ケツに卵の殻が乗ってるヒヨコ魔導士なんざ、会った瞬間に『悪霊』の仲間になってるさ」

「どのみち他に方法ないでしょ」

「そんな方法、なくても同じだ……仕方ない。オレっちが居れば、少しは変わるだろ」

「一人で行くわ」

「あ?」

「どうせシドッチ、危なくなったら逃げるでしょ?」

 もうシドックの返答は淀まなかった。

「まあな。嬢ちゃんも連れて帰るつもりだが」

「試したいことがあるの。一人で行かせて」

「さすがにそれは納得できんぞ」

 驚いたような、呆れたような、それでも真摯に拒絶してくる。

 じっとシドックを正視した。

 自分の気持ちと確信を伝える手段を、セリアは知らない。だから見つめた。

 微動だにせず見返す視線が胸を刺す。

 しかしセリアもたじろがなかった。

「お願い。信じて」

 ついにシドックが折れた。

「……………………好きにしろ」


        †† † † † † † ††       


 新しい目が、首の後ろで開いたようだ。

 未知の知覚が加わって、世界の姿は一変していた。

 魔法に目覚めたせいである。

 もはや空気は無色ではない。それぞれ独自の色を持つ『力』の流れが並走し、衝突し、混ざり合いながら一刹那でも留まることなく変転していく。

 あらゆる物は生きている。着ている服も、踏みしめる床も、刻一刻と『力』の帯を吸収し、微妙に色の違った帯を吐きだす。

 酔いそうだ。

 ウルザンドやネーバスは、こんな世界に生きてきたのか。

 今ならば、遺跡の空間が歪んでいるという馬鹿げた話も理解できないことはない。

 セリアの両眼は、青色の石で囲まれた通路がうねうね湾曲していると訴えている。

 だが『力』の濁流が示すのは、まっすぐな広い路である。

 その双方が正しいのだから、歪みというより他にない。

 次第に通路が変質していく。青白い壁材が、透明感を帯びてきた。

 前方から放射されている、圧倒的に異質で強大な『力』の光が壁に飽和して、まだ浸透を図っているのがよく視える。

 この紫色の強い光を放つのが、シドックに聞いた『悪霊』だろう。

 確かに分かる。近いとはいえ離れた場所にこれだけの『力』の余波を振りまく相手だ。太刀打ちできるはずがない。

 しかしセリアは歩き続けた。

 ふと、その足が止まる。

「絶対に来ると思ってた」

 新しく得た目に、霧煙のような白い人影が映る。

 視線を向けられ、ためらうように人影も制止した。

「判ってるんだから。全部話してよ、ファンベル先生」

 人影が――――先生、オーガスト=ファンベルの幽霊が生前と同じ仕種で苦笑した。

「なんで判った?」

「なんとなく、ね」

「母さんと会ったみたいだな」

「まあね」

 セリアもつられて苦笑を浮かべた。

「ネーバスって名前だなんて、知らなかったけど」

                       

 オーガスト=ファンベルと不死のネーバスが知り合ったのは、やはり白とも黒とも違う、特殊な魔法が原因だろうか。まず言い寄ったのは母さんだったと、オーガストは言った。

 結婚したのは出会いから一月がすぎた頃だった。魔導士であることを隠し、細々と稼ぎを取って食いつなぐ生活だった。それでも悪くなかった。オーガストは続けた。

 一年とせず、ネーバスはどこかに消えた。苦しい生活に厭気が差したとは思わなかったが、原因に心当たりもなかった。怪しい男がネーバスの所在を嗅ぎ回っていたと知ったのは、孤児院を開いてすぐだった。巻きこまないため、一人で逃げたのだ。

 孤児院を開いたことに特別な理由はなかった。忙しければなんでもよかった。別離を忘れさせてくれるほど忙しいものならば、なんでもよかった。

 ある日、ふらりとネーバスが戻り、子供を預けてまた去った。

 子供は元気な女の子だった。生まれて間もない嬰児だった。

 二人の間に産まれた子だと、すぐに悟った。

 オーガストは迷い、迷った末に――――父であることを放棄した。

 彼女にセリアの名をつけて、孤児の一人として育てることにした。


「すまないと思ってる。ずっと思ってた」

 精彩を欠いた霊体で、オーガストは頭を下げた。

「今さら割り切れなかったとか、一人だけ色眼鏡で見られるのが可哀相だと思ったなんてのは全部いいわけだ。おれは、迷った末にいちばん楽な道を選んだ。許してくれとはいわない。父さ――おれを気の晴れるまで憎んで欲しい」

 おれ。先生でも父でもなくて、おれ。

「いいよ、もう」

「すまなかった」

「いいって。父さん」

「ありがとう。母さん、また街に帰ってきたんだが、その時にはもう、たくさんのことを忘れてた。声をかけてみたんだが、セリアや父さんのことも忘れてた。ああ見えて長生きだから、いろいろあったんだと思う」 

 それでも、何かは残ってるんだろうな。しんみりと声が続いた。

「ここでも、多少はひいきしてもらってるんだ」

「ひいきって?」

「地下だけなら、わりと自由に動ける。だから、さっきの事故にも巻きこまれなかったし、色々とできた」

 色々とは――本当に色々なんだろう。ウルザンドたちと会う原因になった指輪や八角形の加護の魔具だけでなく、二年もセリアが地下水道で生き延びたことや、城からの入口でセリアを追い返そうとしたことや、さっきザンクたちを突破したことも。

 そして、セリアの魔法をウルザンドとつなげた、あの不思議な風も。

 どうしても聞きたいことがある。本音を言えば聞きたくないが、答えを知らずに過ごせないことがある。

「父さんが……その」

「遠慮するな。気にしないから、はっきり言えよ」

「うん」

 それでも言いづらい。さらに口ごもってから、セリアは訊いた。

「父さんが死んだのは、母さんと関係あるの?」

「まさか」

 オーガストは小さく笑った。

「あれは下っぱ役人が暴走しただけさ。あの青年……イズリッド? 彼の部下で、無実の人間に暴行したのがバレて降格された男が、とにかく誰かに八つ当たりしたかったらしいんだな。連行されてる途中で、頭殴られて終わりだった。打ち所が悪かったんだな。魔導士も形無しだ。

 指輪のことが気になってるんだろ? あれは母さんだ。没収された父さんの魔具が気になって、確かめたくなったんだろうな。あれは本物の魂じゃない。作り物さ。誰も殺さないよう命令されてた。それだけか?」

 意を決し、セリアは本当に尋ねたかった問いを口にした。

「今でも母さんを愛してる?」

 オーガストの声が詰まった。

 言いよどみ、そして苦しそうに。

 しかし毅然と娘に答えた。

「それは、生きてる人間にだけ許されることだ。父さんに言う資格はない」

 

 進むにつれて遺跡の変貌が加速していく。

 壁や天井がより透明になり、一部は消えて、水晶の林のようになってきた。

『悪霊』は、すぐ先にいる。

 曲がり角の手前でセリアの足が自然に止まった。

「父さん、あたし――できると思う?」

「判らない。正直に言うと、無理だと思う」

「でも」

「ああ。父さんも協力するさ」

「……その前に、抱きしめてくれない?」

 幽体から驚く気配が伝わってきた。

「いいのか?」

「あの時だって嫌じゃなかったよ。驚いただけ。父さん、あっさり諦めるんだもん」

 まるで両腕を拡げるように、白い靄のようなオーガストの体が伸びる。

 そして内部に包みこむようにセリアの体を抱きしめた。

 だが霊体に触感はない。

「ごめんな。こんな体で」

 耳元で気の毒そうな声がした。

「ううん」

 それでもなにか暖かい、知らないものが流れてくるのを、セリアは感じ取っていた。

「うん。いこう」

   

 

 そこには広い空間があった。

 歪みの中心点だけあって、空気まで透明な青白い物体に変わりかけている。

 水晶の森。核に立つ、腐敗した真黒の塔じみたものが『悪霊』のようだ。

 蠢いている。さざ波のように表皮がうねり、目と口だけの顔が次々と表れ、苦悶を残して新たな顔に呑みこまれていく。

 そして巨大だ。見上げるセリアの数倍の高さから、何千年を経た大樹のように睥睨している。その頂点は城ごと崩した天井に届き、開いた穴が太陽に見えた。

 そんな怪物を前に、セリアは言葉を失っていた。

 見る者を押しつぶすような存在感と圧力が証明している。

 これは、人間にどうにかできる代物ではない。

 セリアの姿を認めたようだ。巨木の動きが変化する。

「……………………!」

 昨夜、ウルザンドの部屋で聴いたものとは比較にならない咆哮が、セリアの身体を打ちのめす。魔法でもなんでもい、ただの音である。音にセリアは吹き飛ばされた。

「来るぞ!」

 庇うように移動するオーガストが警告を放つ。

 膝立ちになったセリアの瞳に、ふしくれだった太い枝が悪霊の胴から生える瞬間が映る。位置も方向もバラバラに五本。

 それが同時に、うなりを上げて襲いかかってくる。

 セリアは父の前に出た。

 周囲の色を読み、呼吸を調え、自分の青に塗り替える。

 セリアの色を生みだす苦痛は拷問のような筋肉痛と、眼前のかつて生きていた魂たちへの胸の苦しみ。

 想うものは楯。

 無言の気合が一閃し、セリアの作った魔法の幕が五本の枝を弾き返した。

 正面にそびえる魔樹から動揺が伝わってくる。

 ――――いけるっ!

 内包するはずの力と比べ、今の攻撃は弱すぎた。

 まだ魂の融合が終わっていない。セリアの予測を裏付けるように、魔導士としての視覚が継ぎ目のような、明らかに他より瘴気の薄い一点を無数に捕らえる。

 さらにセリアは色を読む。

 悪霊が直接放射している『力』は強すぎて、急造魔導士の手には負えない。

 だから拡散しかけた力を集め、天井にむけた手のひらの上で炎に変える。

 力の逆流で正体のわからない不快感が全身を突き抜けていくが、セリアはさらに力を集める。

 悪霊の動揺が大きくなった。

 何本も新たに枝を生み出して、たどたどしく振りまわす。しかし狙いが定まらず、かすめるような軌道に乗っているものさえない。

 もっと力を。赤い炎が青蒼から純白に変じて燃える。

 余熱が周囲の瓦礫を溶かし、操っているセリアの手さえ焦がし始めた。

「…………還りなさい!」

 新しい枝が生まれる瞬間を狙い、セリアは炎を投げつけた。

 ふらふらと進む火球は、迎撃の枝を次々すり抜けて、正確に悪霊たちの継ぎ目に直撃した。

 耳をつんざく轟音とともに、爆発が起きる。

 魔法が悪霊のはらむ力に引火して、誘爆を引き起こしたのだ。

 暴音が咆哮を凌ぐ勢いで駆け抜ける。水晶質の輝く樹木が倒壊していく。天井から石屑が落ち、立ちのぼる粉煙が視界を閉ざした。

 轟音で痺れる鼓膜に、風を切る音が届いた。

 半実体化したオーガストに背を引かれ、飛びのいた直後に煙を裂いて漆黒の枝木が走る。

 空隙から見た悪霊は、まったく傷ついていなかった。

 絶句するセリアの前で、悪霊が息を吸いこむよう巨体を揺らした。

 ちょうど、魔法を放つ呪文を唱えているように。

 防御は――間に合わない。

 悪霊を覆った顔が一斉に口を開いて、悲鳴を発した。

 咆哮ではなく、己が苦しみを世界に叩きつける悲鳴。

 セリアは袖から八角形のボタンをだして、胸で掲げた。

 淡くきらめく半球状の結界があらわれ、後ろに立つセリアとオーガストを護る。

 視界をさえぎる粉煙が跡形もなく消えた。飛び散ったのではなく、粒子の一粒一粒が火を噴いて燃え尽きた。次に水晶の森が壊滅した。木々は一本残らず倒れ、破片が小山と積み上がっていく。間を置かず、既に崩れかけていた天井から瓦礫の雨が降ってきた。瓦礫は落ちながら変質を始め、水滴のように床に弾かれた。

 うぞうぞと水晶の欠片が震え、朽ちた木が生えかわるように樹形を取り戻していく。

「気を抜くな!」

 叱咤が響く。気づいた時には、八本に増えた枝腕が目前にあった。

 それなりの修羅場をくぐったつもりだったが、まだ悪霊と対峙するには胆力が不足していた。悔やんでも遅すぎるのだが。

 直撃される! 心臓が躍った刹那、オーガストが声を放った。

「夢影空身!」

 身体が軽くなった気がした。そして、ゼメーギンの手を掴んだ時のように。

 節くれだった枝たちが、次々と二人の体をすり抜けた。

 父の放った魔法であると、すぐに判った。

 見るみるうちに灰色にくすんでいく幽体に、セリアは唇を噛みしめた。

 いつかシドックが言っていた。幽霊は魔法ときわめて相性が悪い。

 返す刀で迫った枝を、セリアの壁が打ち払う。

 再び悪霊が息を吸いこんだ。

 セリアが壁に『力』を込める。そんな努力を嘲笑い、悪霊の悲鳴は一瞬で魔法の壁を光に帰した。

 セリアの身体が塵となる数瞬前に、右手がボタンの魔具をかかげた。

 結界が拡がり、二人を悲鳴の破壊力から遠ざける。

 しかし今度は出力が足りない。台風に耐える小屋のように結界が揺れる。

 そして悲鳴が過ぎ去って、新たな森が生まれ始めると、ボタンに深い亀裂が走った。

「え?」

 セリアの頭が空白になる。その間にも亀裂は増して、やがて小さな手に砕かれた。

 消費が増幅量を超え、魔具の『力』が尽きたのだ。

 時ならぬ風に吹かれて、元は魔具だった粉が飛ばされていく。

 呆然と父親の加護が散っていく様を見つめるセリアに、遠くからの声がようやく届いた。

「……だ、上だ!」

 我に返ると、目の眩む陽光のなか、崩れた瓦礫が頭上に落ちてくるのが分かった。

 悔やむより早くセリアは上空に幕を巡らせた。

 がらあきの胴体を襲うのは、さらに数を増やした枝だ。

 セリアはとっさに、足元にあった氷塊を蹴りつけた。

 枝が氷を粉々に砕き、なぜか大爆発を起こして折れる。

 ひるまずに反対からも攻撃がくる。

 うなりを上げて、背骨程度は簡単に粉砕できる勢いでセリアを狙う枝木の前に、オーガストが割って入った。

「があ…………っ」

「父さんっ!?」

 体を張って枝を受け止め、小石のように吹き飛ばされる。

 セリアは幕をかなぐり捨てて駆けよった。

 呼吸は――最初から無い。

 しかし意識はあるようだ。

 とっさに魔法で身を守ったのだかうが、傷の具合はわからない。

 ただ、目に見えて霊体の光彩がぼやけていくのが痛々しかった。

「……前、セリア、前だ……」

「分かってるから! しっかりして!」

 三度も同じ失敗はしない。オーガストの横に座りながら、すでにセリアは幕を張りめぐらせている。

「そうじゃない……見ろ」

 苦しげな父親の声を聞き、セリアの頬を汗が伝った。

 嫌な予感がする。枝腕の攻撃はない。

 なぜ攻撃してこない?

 振りむくと、悪霊がさらに膨張していた。

 無数の顔が表面を埋め尽くし、それぞれが伸び上がり、縮みあいながら融合していく。

 巨大化が進む。天井を突き崩しながら。

 崩落した石材が休まず幕を叩きつける中、漠然とセリアは理解していた。

 さっきまでのは、要するに寝ぼけていたのだと。

 そして耳元を飛びまわる蚊のために寝返りを打っていたのだと。

 たった今、微睡みから覚めて、目を開けたのだと。

「そういうことだ」

 オーガストが起き上がり、セリアに訊いた。

「お前だけでも逃げるか? 不可能じゃない」

「ううん。いい」

 迷わずにセリアは答えた。不可能でないとは、つまり、オーガストの消滅と引き換えにすれば可能という意味だ。それよりも――

「一緒に逝こうよ。生まれ変わって、最初からやり直そうよ。できれば三人で」

「父親冥利に尽きるが、複雑な気分だな」

 苦笑しながらオーガストが立った。

「なにがあっても、お前にだけは生きて欲しいな」

 視線の先に、変態を終えた悪霊がいた。

 形態はほぼ同じだが、大きさは二倍を超えている。そして宙に浮いている。

 なによりも、胴体にひしめいていた顔が一つになっている。

 家よりも大きい顔が、苦悶に満ちみちた眼でセリアたちを見た。

 脇から黒い枝が伸びた。長さも太さも段違い。樹齢数百年の木が横から生えているようだ。

 風切音と共に、強さと鋭さの増した一撃が二人を襲う。

「霧凱龍陣!」

「……とまれ!」

 セリアとオーガストの造りだした魔法の幕が、寸分違わず重なって響く。

 うなる枝が、防御の魔法を薄紙のように破った。

 オーガストがセリアをかばう。

 かまわずに木が、かばった父とかばわれた娘を共に空へと打ち上げた。

            

 意識が戻ったとき、セリアは床に口づけしていた。

 身体が重い。どこかを強く打ったのか。

 上体だけでも起こそうと、床に腕をつき、やめた。折れている。

 視界のすみに、オーガストがいた。

 セリアと変わらない状態のようで、伏したまま動かない。

 身体には、今度こそどす黒い死色が見えた。

 空気が揺れた。

 無理をして眼を上向かせると、また悪霊がふくらんだ。

 息を吸うように。

 悲鳴を放つ気だ。

 虚ろな口が大きく開いた。

 セリアは父親の倒れている方向に、右手を伸ばした。

 オーガストからも伸びてくる。しかしまったく届かない。

 無念を胸に刻みいれながら、セリアは静かに目を閉じた。

 次の人生に想いを馳せる。死後の世界でなにをしようか、考えてみる。

 そんなものはない。

 人間は死ねば、そこで終わりだ。

 閉じた目を、硬く瞑った。少しでも怖さが減るように。


 セリア=ファンベルという、過去にも未来にもない意識を無に帰すはずの衝撃は、いつまで経っても来なかった。

 薄まってきた死に直面する恐怖をおして、セリアは閉じていた両眼をあけた。

 目に飛びこんだのは、見覚えのある男の姿。

 真っ白い顔が見下ろしてくる。苦笑をうかべて。

「無茶なやつとは思ってたが、自殺願望とは知らなかったな」

 不覚にも、熱いものがこみあげてきた。

「――遅すぎるのよ」

 涙がでてきた。

 にじみ始めた視野のむこうで、悪霊が口を開いた。

 ――前!

 叫びは言葉にならなかったが、どのみち必要なかったようだ。

 放たれた悲鳴が遺跡を大きく揺るがしている。並みの地震の比ではない。地上にも被害がでているはずである。

 しかし、軽く手を上げただけのウルザンドの前からは、なんの振動も伝わってこない。

 悪霊の全身から、数えきれない本数の枝木が生えて、白貌の黒魔導士を潰しにかかる。

 ウルザンドが無言で右手を振りあげる。

 それだけで枝は、熟した木の実が落果するように、ばたばたと落ちて大気に溶けて消えていく。

「ミクジースの末裔ウルザンドが、貴様らの生命と苦しみ引き受けてやる!」

 空中の巨体がたじろいた。

 ウルザンドは目を閉じて、両手を祈るように胸で組む。

 魔導士としてのセリアの視覚で、悪霊の放つ莫大な『力』の波がウルザンドの細い身体に断続的に流れこむ様子が見えた。

 一人の少女としての目で、そのたびに苦悶にゆがむ彼の顔を見た。

 ウルザンドの立つ空間を埋めつくすように無数の枝が襲いかかるが、すべて虚しく弾かれる。

 そして、ウルザンドの口が唄を紡いだ。

 ウルザンドに流れていく力の量が数倍に跳ね上がる。

 それでも彼は魔力を含んだ歌声を張り上げた。

 不意にセリアは理解した。

 これがシドックの言った『生命に関わる間違った方法』なのだと。

 さきほどセリアが試みたように、破壊の力で悪霊たちの魂と苦しみを消滅させるのが、唯一の生き残る方法なのだと。

 苦しむように身をよじり、悪霊の胴体にある顔が、二つに別れた。

 あの夜のように。ウルザンドは、苦しみに狂う何万の魂の一つ一つを慰めて、説得し、苦しみを肩代わりして、還るべき場所に導いている。

 悪霊の放つ『力』の光が、次々とウルザンドの色に置き換わり、強大な魔法の源と変わっていくのがセリアには見えた。

「これが黒魔法なんだ」

 声ならぬ声でセリアはつぶやいた。

 苦しんでいる人間に、苦しさだけの救いを与えることができる。

「それが黒魔導士なんだ……」

 唄い続け、悪霊たちの苦しみを取りこんで浄化し続けるウルザンドの顔が再びゆがむ。口元から一筋の血が垂れていく。

 同時に一つ、また一つと悪霊の表面を埋めている顔が和らぎ、溶けていく。

 しかし数千万から数億の魂の合成物たる悪霊は、その程度では総体に影響しない。

 それでも徐々に『力』の密度が減っている。悪霊を構成していた霊たちが、静かな眠りについていく。

 遺跡の姿も変わっていった。水晶の森が、平凡な石に戻っていく様は、セリアに大きな安堵感をもたらしていた。

 組んでいた両腕を拡げ、薄れゆく光の中で唄い続けるウルザンド。

 唄にはかなりの声量があり、まるで叫んでいるようであるが、足元に横たわるセリアの耳には子守歌のように聞こえた。

「…………いい気持ちだ」

 オーガストの声がした。

 穏やかな――あまりに穏やかすぎる声に、セリアの顔が蒼白になった。

「やめて!」

 立てない身体で飛び起きて、ウルザンドの足にしがみつく。

「やめて、やめてウルザンド!」

 そして叫んだ。

 だがウルザンドは答えない。

 聞こえていないのだ。数千年も蓄積してきた苦しみの前では、一人の少女の想いなど届かないのだ。

「お願い、やめてったら! このままじゃ父さんまで……!」

「いいんだ。これが自然なんだよ」

「よくない! 良くないよ!?」

 これから始まるはずだったのに。新しい親娘の関係が。たとえ普通と違っていても、新しい親娘の生活が。

 ずっと欲しくて、得られなかったことが、やっと実現したというのに。

「仕方ないことなんだ。父さんはここで消えるが――セリア、母さんを頼んだぞ」

 必死に足を揺するセリアに、父親の声が届いた。

 最期の声が。

「二人とも愛してる。セリアとネーバスに逢えて、本当によかった」


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