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Magie - Noir  作者: 斑鴉
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4  イズリッド=クレイアム    <銀の矜持>

 訊くことが尽きて、しばらく過ぎた。

 ウルザンド=レン=ミクジースは(ついに覚えた)本格的に寝入ってしまい、一人称ほど社交的ではないようで、シドッチも進んで話しかけてはこない。

 耳に入るのは、二つの牢屋の間を流れる川の単調なせせらぎだけだ。

 流れの脇には細い道がある。鉄格子から両手を伸ばすと川から水をすくえる幅だ。

 不思議なことに、牢獄を閉ざす錠前は道側の鉄格子でなく、反対の壁側にある。にわかに信じられないが、セリアを拘束している箱は地上からわざわざ搬入されたものらしい。

 無聊にまかせて通路の先を見極めようと、鉄格子から首を出し、頭がつかえて戻らなくなったりもした。シドックの協力で事なきを得たが。密閉されてない場所ならば、幽体は自由に移動できるとのことだ。便利であるが、羨ましいとは思わなかった。死んだら人間おしまいである。シドッチにだけは言えないが。

 それからさらに時が流れた。

 夕方もそろそろ終わる頃だろう。

 朝からなにも食べていないため、内臓が飢えの悲鳴を上げている。空腹すぎて腹の虫さえ鳴かなくなかった。

 それでもセリアは、水で胃を満たそうとは思わなかった。正面の、中が丸見えの牢に男が寝ている現状で、トイレの心配だけはしたくなかった。

 硬化した時間のなかで、セリアは小さく欠伸した。

 このままなにも、永遠に変わらないような気がする。

 ウルザンドは二度と目覚めず、幽霊も黙り込んだまま。

 壁に預けたセリアの背中も、もう伸びることがない。どうせ前から猫背だったのだ。

 いつまでも牢のなか。その代わり空腹はせず、睡眠も呼吸も無用。絶対に死なない。年も取らない。人との縁が消えることもない。そんな一生は地獄だろうか?

 まるで変化のない退屈な、生きながらにして死んでるような人生と言われるだろうか?

 刺激に乏しいかもしれないが、何者に脅かされることもなく、どんな必要に迫られることもない、昨日と明日が渾然とする日々。

 楽園こそが、天国こそが、そんな場所ではなかったか?

 そんな都合のいい場所が、人間の頭の外にあるならばだが……

 うつらうつらする意識のなかで、そんなことを考えていた。

 

 

 そのまま眠っていたらしい。

「ああ、この女を忘れてた!」

 突然の大声に、セリアは微睡んでいた膝の間から引きずり出された。

 手のひらで唇のはしを拭いながら顔を上げると、牢のむこうに二人の男が立っている。

 前に立つのは白銀の鎧で装うイズリッド。記憶にあった嫌らしい笑みが姿をひそめて、純粋な憤怒が貴公子じみた容貌を彩っている。

 今までの取り繕った微笑の裏にあった顔だとセリアは思った。

 背後には、太った男が従っている。

 見覚えがある。昨日の騒ぎで肋の隙間に肘鉄を入れ、ついでに股間を蹴り上げた白魔導士だ。オズケスを信じるならば、彼が同じ孤児院にいたタルムードらしい。体型はまるで違うが、気の弱そうな目元には面影がある。まだ歩きづらそうだ。

 視線があった。気まずくなって眼を伏せた。

「街まで逃げろ」

 イズリッドが鍵を投げ入れる。

「仮に私が失敗しても、ここを今すぐ離れれば、生きたまま脱出できる。もし本当に逃げ延びたなら、とにかく市民を街から離せ。一人でも多く」

「なんで」

「おまえと関係あるらしい“クロ”のネーバスが、このギルゼリアを食い物にして、どんな詭計を企てていたか、おれの気が晴れるまで何時間でも説明してやりたいが」

 イズリッドは歯がゆげに身悶えをした。「いかんせん時間がない。もう邪魔するな」

「だから説明して。ネーバスがなにしてるのよ」

「セリアちゃん。ネーバスは、この水道で危険な怪物を育ててるんだ」

 鎧の後ろからタルムードが口を開いた。

「間違いない。その怪物は、ギルゼリアを半刻で壊滅させても不思議じゃないんだ。セリアちゃんは関係ないよね? 悪いことは言わないから、すぐ逃げて」

「タルムードはどうするの」

「魔導士の仕事をするよ。その怪物を退治しにいく」

 あんたが!? その一言も凍りつくほど驚いた。

 見上げると、タルムードは恥ずかしそうに顔を反らした。

「怖くないの?」

「そりゃ怖いけどさ。ネーバスは……義父さんの仇だからね。僕がやらなきゃ」

 平然と言う彼を正視できない。

『あんた、いつまで拗ねてるんだい』脳にこだまするドリス声が、セリアの胸を傷つける。痛むのは眼をそむけてきた自分の弱さ。それが化膿し、腐臭を放つもの。

「変わったね。タルムード、強くなったよ」

 彼は頷き、黙礼を送る。セリアは静かに目を伏せた。受ける資格がないと思った。

「さっさと行くぞ!」

「貴様こそ逃げたらどうだ」

 イズリッドを無謀にも呼び止めたのは、ウルザンドの声だった。

「魔法も使えない人間に、ネーバスの相手は務まらん。薄暗い地面の下で無惨な屍をさらすより賢明だろう」

 反対側の牢をのぞいて、セリアは息を飲みこんだ。

 人形か死体のように力なく壁際にもたれ、銀糸のような乱れた髪を両肩に垂らし、紅い瞳で見上げる彼の姿には、ぞっとする迫力が満ちていた。

 イズリッドはその彼の視線を受け止めて、なお平然と鉄格子を蹴りつけた。

「流民は黙って街から消えろ」

「貴様では無理だ。後ろの未熟者でもだ」

「忠告は受ける。だか、生きるも死ぬもない。私の役儀に口を挟むな」

「犬死にするのが貴様の仕事か」

「もとより『クロ』に貸す耳などない。いくぞタルムード。……そうだ」

 イズリッドが立ち止まり、酷薄な笑みを見せたのは、歩き始めてすぐだった。

「そこのクロ、私が戻る前に牢から逃げろよ。ネーバスの次はおまえだ。なんとなれば、ギルゼリアの法は、街中に一匹の黒魔導士がいることも許さないからな」


 二人が去ると、牢内に居心地悪い緊張をはらむ静寂が落ちた。

 その重圧か逃れるようにセリアは無心で錠前を開け、鍵を向かいの牢に放った。

「どうするんだ」

 受け取ってから、ウルザンドが問いかけてきた。

「ウルザンドは?」

「おれか?」

 マント姿が反転し、中腰のまま作業する背中が答えた。

「地上に帰るさ。言われたとおり」

 がしゃがしゃいう耳障りな音が続いたと思うと、やおらウルザンドは鍵を投げ捨てた。どうやら穴と合わないらしい。

「本当に?」

 ウルザンドは髪の中から太い針金を抜きだした。そのせいだろうか、返事が遅れた。

「ああ、もちろんだ」

 そう言った瞬間の顔が見えないことに、セリアは強く不安を感じた。

「一緒に逃げない? 魔法で牢屋を壊してさ」

「逢瀬の誘いなら遠慮しよう。趣味じゃないからな」

「そんなんじゃなくて……」

「どのみち無理だな。もう使える『力』がない。体調維持で精一杯だ」

 やがて留め金の外れる、硬い音がした。慣れているらしい。

「おれだって無茶はしないさ。この遺跡内じゃ勝ち目はない――そうだ、シドック」

「なんだ?」

「セリアと一緒に行ってやれ」

 息を飲む間があいた。

「だがな――」

「この空間でも、おれなら見える。迷子になりそうな方に着いててやれよ」

「――確かにな。婆さんの宿で落ち合うぜ」 

「了解だ。セリアもいいな?」

 迷子呼ばわりは気に食わないが、反論できる余地はなかった。それよりも始めて名前で呼ばれたというくすぐったさが、他の選択を許さなかった。

 首肯すると白煙のような人影が牢の隙間を抜けてくる。初めて見えたが、これがシドックなのだろう。

 扉を開けて、セリアは牢を出る前に振りむいた。

「気をつけてね」



 しきりに挙動を気にするセリアが遺跡の闇に姿を消すと、ウルザンドの赤い瞳に光が走った。

 透明の薄い手袋を捨て、銀と鉛を溶かし合わせた針金を素手で折り曲げる。

 焼け石に水を垂らしたような音をたてて、瞬時に白い手が焼けただれていく。眉一つ動かさず、ウルザンドはその針金で左の手首を深く斬り裂いた。

 鮮血の噴きだすそこを口元に押しつけ、生温かい粘つく液体を体内へ流しこむ。数秒と耐えられず、這いつくばって喉に絡まるものを吐きだし、手首から溢れだす血を再び胃の腑に導いていく。

 そんな獣じみた食事を何度も繰りかえし、ようやく傷を癒した時には、ウルザンドの全身に生気のようなものが満ちていた。

 このおぞましい所業にも、最後と思えば我慢もできる。

「これで終わるんだ。どちらにしても、ようやくな。少しくらいは無茶するさ」

 どこからも反応がないことを確かめる。さらにつぶやいたのは、誰にむけてのものだったろうか。

「……悪いな」

 

――――――――†† † † † † † ††―――――――――――― 

 

「ネーバスが育ててる怪物? あいつの企み? そんなもんオレっちが知るかよ」 

「シドッチが一番つきあい長いんじゃない。他の誰に聞けばいいのよ」

「つきあいなんて関係じゃない。それと、シドッチじゃねえ」

 牢獄を離れて十数分後、セリアはシドックと肩を並べて歩を進めていた。

 胸騒ぎが治まらず、どうにかしてウルザンドと合流したかったのだが、彼のいた牢の出口につながりそうな道はなく、断念せざるを得なかった。

「ネーバスの陰謀なんてのに興味はないが、ウルザンドが言ってたな。この遺跡にはヤツだけに使える『力』が満ち満ちてるそうだ。なにか関係あるんだろうな」

 だが――シドックは言葉を継いだ。

「あいつが興味を持つ怪物ってのも想像しにくいな。さっきのやつら、なにか勘違いしてるかもしれん」

 人型のもやの上部がセリアを見つめた。「ふうん」とセリアは首をかしげた。

「あんたたちってさ、ずっと昔からいるんでしょ?」

「おう。それがどうした?」

「なにか、目標とかあるの? それを果たすまで、死ねないような」

「あってたまるかよ」

 影が器用に肩をすくめた。

「オレっちなんか、消えないだけで精一杯だ。ネーバスの若作りだって、黒魔法の応用で苦痛を身体に取りいれ続けて生命と若さを保ってる。二人とも下手に寝こめば一瞬で死ねる状態だ。目標なんて死なないだけだぜ」

 ギロチンの刃が落とされたように会話が切れた。

 セリアにぽつりと言わしめたのは、静寂のもつ独特の重さだろうか。

「そこまでしなきゃ駄目なのかな」

「無論だな」

 鋭い口調でシドックが応じる。

「ただ自堕落に寿命と時間を食い潰すから死ぬんだよ」

「…………なによ」

 切り捨てるような言葉を聞いて、苦い反感が胸を満たした。

 正体も判らない役人に殺されただろう先生は、決して自堕落な人でなかった。そんな想いが声帯を震わせた。

「あんただって死んでるじゃない。幽霊が偉そうに」

「死んじゃいないさ」

 声の気迫がセリアの口を噤ませる。

「生きてないかもしれないが、オレっちはまだ死んでない」

 

 

 殴られたような鈍痛を覚え、ネーバスはこめかみに手をあてた。

 すぐに夜が来る時刻だが、遺跡の暗さに慣れた目は夕闇でさえ眩しく見える。

 木蓮の香が漂う微風はギルゼリア城“ナイアス”の造形美あふれる庭だけのものだ。

 若化の魔法が緩んだ際に脳神経のつながりが切れ、記憶の大半が混濁している。

 焦ることはない。飽きるほど経験してきたことだ(それは忘れていなかった)。

「ネーバス、ザイドリック、ミクジース……」

 なにを忘れたか思いだそうとする試みは無駄なので(それも忘れていなかった)大事なことをはじから口にだしてみる。

「ギルゼリアの遺跡、“灯火の檻”、イズリッド=クレイアム……」

 遺跡で若いミクジースに不覚をとった。圧倒的な優位にあったはずなのに、逃げられただけでなくネーバス自身が死の直前まで追い詰められた。

 その前は、護衛の名目でイズリッドに監視されていた。その原因は――

「セリア」

 そう、セリアが中庭から消えていたからだ。

 ただの遊びのはずだった。腐るほどある倉庫の一つで白でも黒でもない指輪型の魔具を見つけて、それが死んだ罪人のものだと聞いて、関わり合いのある人間を探してみようと思っただけだった。故買市は、そのためだけに作ったものだ。

 それが実際に顔を合わせると、なぜか他人の気がしなかった。素性よりセリアという娘自体が心に深く入りこんでくる。記憶も意識もあやふやな状態をおして中庭に戻ってきたのも、セリアが帰ってきているのではないかという勘に導かれてのことである。

 だが、勘は外れた。

 セリアが絡むと勘が鈍ってしかたない。そもそもセリアに固執する理由といえば、彼女が不思議な魔法の関係者であり、強力な魔具で守られているという一点のみである。ザイドリックとミクジースを捨ておいてまで拘泥するに足る由はない。それでも同じ瞳を持った彼女が、どうしようもなく気にかかる。

 だが今度こそ、セリアにかまけていられない事態が起きた。

 地下水道の中心点にある遺跡の要。“灯火の檻”。

 はるか古代に作られて、ネーバスが改良を施した魔具の一種だ。

 今、三重にわたる幻覚を破り、最後の結界に近づく者がいる。

 それも二人。偶然ではない。イズリッドと白魔導士だ。

 彼らの狙いは判らない。が、結界に用事があるのは疑問を挟む余地がない。もし結界を破壊したらどうなるか、彼らが理解できているとは思えない。

 ――それだけは防ぐ。力ずくでも。

「そう、殺してでも」

 自分の口が発した言葉に、ネーバスは身を震わせた。

 もう記憶には片鱗しか残っていない生涯で、どんな手段を講じても避けてきた行為を自らの手でなそうとしている。

 足元の土を握り固め、魔具に変えてから囁きを聞かせ、城の外にあるザンクの詰め所に魔法を使って送りこむ。あちらでは、人間大の土塊がオウムのようにネーバスの命令を繰りかえすだろう。そしてザンクは手練を連れて、水道の指定の場所を封鎖するために駆けつけるだろう。

 ネーバスも遺跡の内部に転移する。

 赤い陽光にいきいきと戯れていた景色が一変、青暗い地下の情景になった。

 迂曲する空間内で精密な瞬間移動は不可能であるが、準備しておいた目印のある場所に現れるのは難しくない。

 転移した先は、最後の結界にもっとも近い場所。イズリッドたちの後方になるが、もっと結界に近い地点に目印を置くと、かえって誰かを招くことになる。

 一振りの鉄扇を取りだす。

 そして、扇を形作る金属製の羽根を束ねる要を押し抜いた。

 吼え猛る魔神図が刻みこまれた十三枚の鉄板が、華の散るように水道の床に舞い落ちる。

 ネーバスの口が、大きな太鼓を打つような重い言葉で呪文を紡ぐ。

 青白い燐光を放つ床材に落ちた羽根の中心、彫られた魔神の心臓を突き破るように。

 鉄の板から手が突きだした。

 天を衝くような力を秘めた、しかし死斑の爛れた腕だ。

 腕はしばらく周囲を探り、やがて地面に手をついた。反対の腕も飛び出して手をつくと、弔鐘にも似た呪文の響きに合わせ、墓穴から這い上がるように鉄の柩から頭を引き抜く。

 さらにネーバスは扇子を崩し、鉄片を撒き散らしていく。

 呪文が止んだ時、四十に届く動く死体が、汗を浮かべるネーバスの前にたたずんでいた。

 先頭に立つ、ひときわ体格のいい死者が言った。

「汚らわしい魔導士よ。われら高貴にして物言わぬ死者に、なにを望むのだ」

「わたくしでない生物に、わたくしの後を追わせないように」

「請け負った。望まぬ上は、神聖なる沈黙の流儀に委ねるのだな」

「お好きになさいな!」

 みなまで聞かず駆けだした。

 イズリッドたちは遠い。だが、ミクジースと戦ったように全身を加速した状態で走れば、手遅れになる距離差ではない。

 その途中、『誰も殺すな』という普段の命令を忘れたことに気がついた。生命を妬む獰猛な彼らなら、見かけた人間を容赦なく食い殺すだろう。

 だが、もう遅い。

 ネーバスは無言で迷いを断ち切った。ただひとつ黒魔導士の女帝にできたのは、誰一人として、特にセリアが彼らの前に現れないよう願うだけだった。



「あいつ、最悪に近い」

 語りかけたとき、誰かと似ているセリアの瞳は虚空の果てに注がれていた。

「足元に気をつけろ。考えごとか?」

「うん」返事はどこか気まずげだった。

「ネーバスのこと考えてた」

「ネーバスの何を?」

「何でもなくて、ただネーバスのこと……ごめん」

 当人の前で仇敵に思い馳せていた事に罪悪感を覚えたのだろう。

 確かに少々癇に障った。

「ごめんって。で、ウルザンド?」

「聞こえてたのか? ああ、ウルザンドだ」

 原理はまったく不明だが、セリアには徐々に姿が見えてきたらしい。いまも正確に目を合わせている。

「ウルのやつ、他の誰よりやつの血筋を呪ってる。同じく魔法を嫌ってる。それが黒魔法の業を曇らせる。傍流の運命じゃあるんだが、それでも度が外れてる」

「傍流って?」

「現役のミクジースから生まれた子が純血。跡継ぎのないミクジースが死んで、術と呪いを受け継いだ血族の人間が傍流だ。大半の傍流は継承でそれまでの生活をぶち壊されるから、ネーバスに恨みをぶつけて普通だが……」

「だが?」

「ウルザンドは憎むかわりに甘えてる。別にネーバスを殺さなくても、なにかの弾みで元の姿に戻れると必死に自分を騙してる。明るい夢から目覚めてみると、不幸な現実は終わりを告げていたなんて、それこそ夢のような寝言にしがみついてる。だから、いざネーバスを目の前にすると、曇った業がなおさら曇る。もしネーバスを倒しても呪いが残ったら本当にすがる希望がなくなるからな。

 過去百年で三指に入る才能が、劣弱な意志と精神の底で腐ってるわけさ。

 ……悪い。嬢ちゃんに言っても。仕方ないよな」

「違うんじゃないかな」

「なんだって?」

 セリアは控えめに、しかしまっすぐシドックの『目』を見た。

「寂しいんだよ、きっと。甘えてるんじゃなくてさ。だから戻れないのが怖くてしかたないんだと思う」

「………………ほう」

 三十年ぶりになる感嘆がもれた。

 聞こえたのだろう、セリアの顔に少し得意げな色が浮く。

「セリア嬢ちゃん」

「なに」

「ナントカ=セリア=ミクジースなんて、産んでみたいと思わないか?」

「ちょっと、なに言いだすのよ!」

 鳳仙花の実が弾けるような勢いでセリアの顔が真横をむいた。その顔に差していた朱を、無論シドックは見逃していない。

「変な冗談、言わないでよね」

「別に冗談でもないぜ?」

 背けた顔がみるみる赤くなっていく。

 ややあってから、平静を装っているらしい声色でセリアが答えた。

「直接あいつに頼まれた時は、考えてあげてもいいわ」

「…………」

 思いもよらない返答に、今度はシドックが絶句する。

「……冗談だって。住んでる世界がぜんぜん違うし」

 やがてセリアはくすくすと笑い始めた。

「でも、そのくらい驚いてくれると、言ってみた甲斐あるってもんよね」

 シドックは思わず天井をあおいだ。

「親の顔でも見たいもんだな」

―― 


 銀色の鎧と太った背中が細くて低い道に入っていくのを、息を殺してオズケスとゼメーギンが見送っていた。手には長柄の槍がある。

「ぶっころしてやる……」

 つぶやいたゼメーギンに、オズケスも頷いてみせた。

 あのいけすかない男を殺す。復讐してやる。そのために、二人はイズリッドたちを尾行してきた。

 この地下水道なら殺人は発覚しない。うまく振る舞えば、次男が行方不明になった貴族から大金を巻きあげることも可能――そんな甘い考えもある。具体的にどうするか明確なビジョンはないが。

 軍人だろうが鎧をつけていようが、二人ががりで負けるはずがない。タルムードを計算に入れたところで、二対一から三対一になるだけだ。

 イズリッドたちが進んだ通路は、この水道ではめずらしい直線らしい。

 オズケスが片手を上げると、ゼメーギンが壁の陰に隠れる。言葉はいらない。ここで待ち伏せするのだ。

 初めて人間を殺す緊張感に汗ばんだ手のひらを拭く。

 すぐ横を、目にもとまらぬスピードで疾風のように駆けぬけた女を見た気がしたが、ゼメーギンは深く考えなかった。

 


「思うに、おれは忘れてたんだな」

 内臓のような波立つ道を、早足に進む人影があった。

「おれなんか、とうの昔に死んでるんだよ。あの『継承』とかいう病気になった時点でさ。だからオヤジも親切に墓まで作ってくれたんだ。垂れ目のバケモノを追いかけるおれは、簡単に言えば、余生みたいなもんなんだ。すっかり今日まで忘れてた」

 ウルザンドである。

「そんな人生にこだわる意味がないなんて、十歳のガキに判ったことがさ。おれはシドックとは違う。今日で幕引きにしてやるさ。どっちにしても」

 少し前から、ある種の結界が荒らされた時の、焦燥によく似た気配が遺跡に強く漂っている。歪曲の定着している空間を超えて地上に届きかねないほどの、濃密な気配。

 魔法には術者特有のくせがある。この気配には数時間前、いやになるほど叩き込まれた魔法と同じ波長をしている。

 そう、ネーバスのものだ。

「見てみろよ、しなびて剣も持てない腕を。走れば骨折する足を。日光にあたっただけで燃えだす身体を。誰もまともに目を合わせない、この顔を。生きててどうするんだ」

 死は、シドックが病的に恐れるような自我の消滅だけでなく、様々な形態がある。

 たとえば大切なものや、住んでいる世界から切り離されて、自分が自分でなくなった時。身体は生きたまま死ぬこともある。そして、どんな形でも死んでしまえば二度と元には戻らない。

 反応の鈍い手で、袋に残った『力』の結晶石を確かめる。壊れかけが一つと、切り札として残しておいた、九倍密度の結晶が一つ。

 防御を考えず、魔具『爆発』の要領で、先手をとって至近距離からすべての魔力を開放すれば、そして肉体維持に回す『力』までつぎこめば、転移できないネーバスを防御魔法ごと焼き尽くすのも不可能な話ではない。

「多少の無理は覚悟の上だ。多少でなくても、おれが責任とればいいんだ」

 一撃で極まらなければ打つ手はないし、極まったとして、ウルザンド自身が無事でいられるはずがない。順当にいけば、まっさきに蒸発している。なにも残さず。

 通路は次第にうねりを増して、いよいよ血管じみてきた。

 ウルザンドは目を閉じた。

 まぶたの裏で、感じる気配を円形にする。円周内部を塗りつぶすのは血のような赤。気配の濃さが変化するたびに立ち止まり、感覚を研ぎすまし、そして半径の長くなる方向を見定めて足を進める。

 一つの気配に没入しすぎたせいだろう。

 まるで彼らに気づかなかった。

「生に汚れた魔導士が、われら光輝の申し子にして物言わぬ死者の領土を侵すなど」

 目を開いた時、ウルザンドは多数の人影に囲まれていた。

 どの人影も異様である。

 粗末なズボンをはくだけの半裸体には、はちきれそうな筋肉がみなぎっている。はちきれすぎて、一部では腐れ皮膚を本当に突き破っている。薄気味悪い斑点の浮くその肌は、雪を欺くウルザンドの皮膚よりも青白い。

 頭髪は、あるものとないものがいる。鼻が残っているものはあるが、眼球を持つものはない。うつろな眼窩がウルザンドを見据え、哄笑なのかときおり開く口の中では、爛れた歯茎に群がる蛆が、遺跡の放つ燐光を受けてぬめぬめと黄色く光る。

「天界の狂える沙汰も極まる所業だ。ぬしの両眼は、ガラスの飾りに違いない」

 中でもひときわ体格のいい固体が前にでた。 

 前に一度だけ見たことがある。原型を損なう前の死体を改修し、人造の魂を埋めこんだ人形である。たしかゾンビというらしい。

「ぬしがつぐなう手立ては多い。伏してわれらに汚れた肉を差しだすか、進んでわれらに汚れた肉を差しだすか、抗ってわれら神聖にして静寂を愛する死者を楽しませてから、汚れた肉を差しだすか、だ。死者の高貴なる慈悲で選ばせてやろう」

「黙ってろ、肉人形が」

 ウルザンドの一言に、ゾンビの群れが騒めいた。

「許されん! かつて地上に蔓延していた不死者の都に並ぶほど許されん!」

 前に出ていたゾンビが叫ぶ。周囲を固めるゾンビたちから同意の呻きがうなりを上げる。

「われら物言わぬ、沈静にして静謐にして深閑寂寥なる死者に、騒がしいなどと暴言を吐くか!」

 包囲する輪が、じりじりと狭くなる。どの死者も前傾に腰を落として、今にも飛びかかろうとしている。

 ネーバスとの戦闘後まで残ったナイフを取りだして、扇状に拡げて構えた。

 これらのナイフは、鋭さや与える苦痛を増すように調整してある魔具である。

 ゾンビたちには神経がない。見かけのとおり怪力で、前に戦った時は、腕一本を落としたところで戦闘力は変わらなかった。ナイフは非常に効果が薄い。

 しかし何よりも厄介なのは、恐怖と苦痛を感じないことだ。

 いくら彼らを傷つけようと、魔力はかけらも補充されない。残る結晶はネーバスに会うまでは使えない。

 普段なら黒魔道士が恐るるに足る相手ではない。根こそぎ塵と変えてもいいし、痙攣もしなくなるまで刻んでもいい。

 しかしウルザンドに使える『力』のない遺跡では、掛け値なく最悪の敵である。

 それが、見渡すかぎりを埋めていた。

「……無謀すぎたな」

 唇の端にやけくそ気味の笑みが湧く。

 直後、最初の死者が横手から襲いかかった。

 三つの白い輝きが遺跡の蒼光にきらめいて、ゾンビの眼窩と喉元に魔具のナイフが突き刺さる。

 常人ならば即死の傷にも、死体の動きはまるで鈍らない。両手を突きだし、ウルザンドの首に逆襲をはかった。

 ウルザンドの手に紫色の霧が生まれた。異臭を放つ両腕をくぐり背後に回ると、右腕にまとった霧をゾンビの背中に押し付ける。

 紫の霧が、またたく間もなくゾンビを包む。ベールの中で腐った足が崩れ落ち、死者が苦悶に身をよじらせる。

 霧が死体を溶かしているのだ。

 空気に漂う塵を使った、依代のない即席の魔具である。

 通常の魔具とは違って短期間しか効果がないうえに、精錬に時間をかけないために膨大な量の力が必要となるが、威力は大きい。

 うしろから忍び寄っていた別のゾンビの腕を取る。流れるように背に乗せて、腰を撥ね上げて背中から叩き落とすと、霧から細い線が伸び、新しい餌を本体に取り込んだ。

 死者たちの輪が、一歩だけ広くなる。

「さっさと来いよ愚図どもが!」

 ゾンビの群れを、血走った目が見回した。

「今さらなにを惜しむってんだ。おれたちはもう死んでるんだぜ!」

――――――――――――――――――――――

――――――――――――――――――――――

 狭くて長いトンネルの先に、丸く開けた空間があった。

 高い天井に独自の照明があるようで、月皓のように冴えた光が地下水道――古代の魔導士が作った遺跡だそうだ――らしからぬ明るさを部屋にもたらしている。

 ナイアスの謁見室ほどもある室内には、奇妙なオブジェが林立していた。

 どれも膝から腰までの高さで、配置によって幾何学的な紋様を描く、塔の模型じみたオブジェの群れだ。

 イズリッドたちが来た道の他に、出口にあたるものはない。

 魔導士の知覚を刺激するものがあるようで、隣ではタルムードが呆然としている。

 遺跡の核。

 タルムードが探り当てたネーバスの目的は、驚倒すべきものだった。愕然とすべきものであり、なににも増して唾棄すべき代物だった。

 ネーバスはやはりクロだった。

 魔法で若さを保ちつつ、気の遠くなる昔から、ギルゼリアで肉体を失った魂をすべて遺跡に閉じこめていた。

 逝くべき場所に還れず、地上に釘付けされる魂に安らぎはない。苦しみ続ける。少なく見ても数千万のギリゼリア市に生きた魂が、永遠に等しい時間が尽きる時まで理不尽な苦しみを強いられるのだ。

 その苦しみが、クロのネーバスに『力』を与える。

 魂たちの苦しみが、あの魔女の若さを保つ道具にされている。

 苦悶する数千万から数億の魂のなかに、海に呑まれて幼い命を奪われたイズリッドの姉がいる。流行病で急死した親友がいる。猛獣退治や野盗征伐で命を落とした部下たちがいる。いつでも代わりに父上に謝ってくれた老執事がいる。

 みな、空の上から見守ってくれていると。あるいは冥府で罪を清めて、新しい人生を始めていると疑わなかった。だが実際はイズリッドのたち足元で、重い鎖につながれたままオールを漕いで巨大な船を動かし続ける、奴隷のように扱われていた。 

 それだけで筆舌に尽くしがたい激情をかき立てられたが、さらにイズリッドを卒倒にまで追い詰めかけた事実があった。

 複数の、苦しみで我を忘れた魂が融合すると、半霊半身の『悪霊』という怪物になる。

 混ぜあわされた憎しみが人間性や理性を駆逐し、『悪霊』は核となる苦しみが晴れるまで破壊と殺戮を繰りかえす。幽霊に近いため、剣ではなかなか殺せない。傷つけるだけ苦しみが増し、消滅までにかかる時間が長引くだけだ。

 実験メモには魂を細工すると書かれているが、ネーバスにも一度『悪霊』化した魂を御する手段はないようだ。

 タムルードが持ちだした記録では、ネーバスはご丁寧にも名簿までつけた魂たちが『悪霊』化しないよう注意を払い、遺跡の保守と微調整のために建造直後から五年に一度はギルゼリアに姿を見せているらしい。

 だがそれも『悪霊』制御の方法が確立されるまでのこと。

 ネーバスが『悪霊』を何に使うつもりかは判らない。しかし無数の魂が『悪霊』となれば、今の世界が一変するのは想像に難くない。少なくともイズリッドが護るべきギルゼリアは半日とせず瓦礫の山になっている。

 姉たちが、そんな怪物に変えられるのだ。

 そうなる前に開放すべく、イズリッドたちは死者の魂を閉じこめる結界を作る、遺跡の心臓部に訪れていた。

「……これです」

 乱立するオブジェの一つに、タルムードが手を置いた。

 よく見ると、確かに他のものとは違う、透きとおる輝きを放っている。

 これが結界の中心、ネーバスが“灯火の檻”と名付けたものだろう。

 イズリッドは懐に手を入れて、陶器の棒を取り出した。

 タルムード特製の、まったく何の効果もない魔具。しかし魔具である。破壊されると『力』があふれ、数十倍の重さの火薬に匹敵するような爆発を起こす。

「いくぞ」

 暴発に巻きこまれないよう距離を取る。緊張で乾いた口で唾を飲み下す。

 そして球体を積み上げたような形のオブジェに、陶器の魔具を投げつける。

 その時、冷たい風が首筋をなであげた。

 かんと乾いた音を立て、氷に閉ざされた棒が目標に跳ねかえされて、床に転がる。

「イズリッド様。わたくしを置いて帰られるなんて、冷たすぎますわ」

 振りむくと、部屋の出口をふさぐようにして、ネーバスが立っていた。

 全身で放つ濃厚な、普段より露骨な凄味が、表情よりも雄弁に内心を物語っている。

「きっと、私は貴殿を信じたかったのだ」

 剣の柄に手をかけながら、イズリッドの声は穏やかといえた。

「ネーバス殿はクロなどではなく、また二心もない、ただの面白い性格の女性なのだと信じたかったのだろう。だから貴殿をあえて敵視し、躍起になってクロである証拠を求めてきたのだ。

 貴殿が行ってきたギルゼリアの民への冒涜を知って、ようやく私は自分の気持ちと甘さを思い知ったよ」

 そのまますらりと剣を抜き、両手で握る。タルムードも無言で水晶玉を構えた。

 ネーバスを睨みつけ、イズリッドが剣を抜く。

「肚の底から一つだけ、本当のことを答えて欲しい」

 細い目の奥にあるオレンジ色の瞳を見据え、イズリッドが言った。

「どこも心は痛まないのか? 試練に満ちた生を終え、やっと悠久の安息を得た魂をなお苦しめるなど、惨いとは思わないのか? クロに人間の心はないのか?」 

 普段から想像できない鋭い声でネーバスは答えた。

「死んでしまうよりマシでしょう?」

「みな、すでに死んでいる」

「まだ生きてますわ。将来、魂と合致する肉体を作れれば、元の生活に戻れます」

「そのいつだか知れない将来まで、貴殿が力を得るために苦しみ続けるのだな」

「黒魔導士を甘く見ないでくださいな。わたくしが生み出さずとも世界は苦しみに満ちております」

「人間の定めに従って死後の世界に進むべきとは思わないのか」

「死後の世界なんてどこにもありませんわ。海の底、大地の中、光も届かない空の果て、太陽の中まで潜って探しましたもの」

“灯火の檻”にいる魂は、まだ生きている。しかしここから離れれば、今度こそ本当に消滅してしまう。ネーバスはさらに言った。

「たとえどれだけ苦しくたって、死んでしまえば生まれて来なくても同じ。そんな消滅に甘んじるより、ずっといいでしょう?」

「だったら……だったらどうして、僕を地獄みたいな孤児院から引き取って魔法まで教えてくれたラークレイ師を殺した!」

 たまりかねたように叫んだのはタルムードだった。

 昨日ナイアスで起こったことの再現のように、ネーバスは唇を噛んでうつむいた。

「存じませんわ、あんな方」

「なんだと」

「存じませんと申してるんです。魔法で負けた仕返しに、わざわざ目の前で脳卒中になってみせる方なんて」

「嘘だ――!」

 片手を上げて、はやるタルムードを黙らせる。

「ならばラークレイ老も、その“灯火の檻”に?」

「いいえ。ご自身の力で跡形もなく消えられましたわ」

「なるほどな。どうやら詫びねばならないようだ。考え違いをしていたらしい」

 イズリッドは剣を下ろした。

「貴殿の思いは理解した。私利でなく本当にギルゼリアの民の生命が失われるのを惜しんでいるのだな」

「ずっと、そう申し上げております。できるならギルゼリアだけでなく、人間だけでなく、すべての生まれてきた生命が消えることのないように」

「言っていろ……で切り上げる話ではなかったのだな。しかし――」

 迷いを振りきり、握った剣を構え直した。

「救いも許しも光明もなく、他人の判断によって果てなく苦しみ続けるのは人間の生き方ではない。

 ――貴殿の思惑がどこにあろうと、私はみなを解き放つ」

 

―――――――――――― 

「がぅあ!」

 くぐもった悲鳴をあげて、直線に並ぶ三体のゾンビの頭部が雷光に消えた。

 勢いをつけて先頭を蹴ると、もつれるように倒れこみ、そろって霧の餌食に変わる。

 今の雷撃で、切り札の力が尽きた。黒石がさらさらと崩れていく。

 新たな死者を飲みこんだ五度目の霧が、げっぷのように大腿骨を吐き捨てて、紫色から淡いピンクに変化する。もう満腹という意思表示である。遠からず空気に還っていくだろう。依代のない即席魔具の宿命だ。

 戦果はあった。

 誰にでも誇れる戦果が。

 四十体に届くゾンビ集団を壊滅させたのだ。リーダー格を入れて二体ほど残ったにしろ。

 無傷ではない。合計すれば常人で三回死ねる深手を負わされた。癒さなければ、ウルザンドなら倍ほど生まれ変わっている重傷である。

「死人が歩くな、死人がしゃべるな。黙って蛆に食われてろ!」

「許されぬ、許されぬっ、許されぬわ!」

 囲まれた時に口を開いた、一回り体格の大きい個体が地団駄を踏む。

 貧弱な体力を振り絞ってまで挑発するのは、思いつくままの行動ではない。死体の怒りを焚きつけて、黒魔法の『力』を補給しようという策である。

 ウルザンドの放つ言葉にゾンビは激しく反応するが、しかし、肝心の『力』はまったく放出されない。怒り狂うのは口だけらしく、こうなると逆に馬鹿にされている気になってくる。

「魔導士よ、全霊をもって恐怖するがいい」

 唯一しゃべるリーダー格が、脇に控える同類の手を掴み、そのまま肩ごと引き抜いた。

 握手するようにその腕を握り、数度ほど振り回してから、持ち主の胴に打ちつける。

 不運なゾンビは肉片を撒き散らしながら壁と激突。衝撃に耐えきれず四散した。

「贖罪の刻は訪れた。神聖なる鉄拳を謹んで受けよ」

 仲間の腕を振り上げて、ゾンビが間合いを詰めてくる。

 もう奥の手は使い切っている。残った最後の結晶は、シドックが転移に用いた残り滓。

 ウルザンドは袖から最後のナイフを出して、ゾンビの足を狙って放つ。

 銀光が指のない素足を貫き、宝石以上の硬度を誇る遺跡の床に縫い止める。

 にやりとゾンビが歯茎を剥いて、刃物を足ごと引き抜いた。

 敵に背を見せ、ウルザンドは駆けだした。

 ゾンビも慌てず後を追う。満身創痍のウルザンドより確実に速い。

 不意にウルザンドが振り向いた。同時に拾ったナイフを投げ放つ。

 銀の軌跡が今度はゾンビの心臓に刺さる。むろん死体は止まらない。ウルザンドはさらに逃げ出した。

「いま少しでも魔導士らしく振るまえぬのか。惨めに無様に逃げまわる以外にだ」

「黙れと言ってる!」

 嘲笑う死者の下腹部を新しいナイフが穿つ。時を置かずに続く二つが膝関節を深くえぐった。構わずゾンビが歩みより、右手に握った右腕を振るう。

 後ろ飛びに避ける。間に合わなかった。骨の突きでた肩口が、頭をかばった両腕の骨を粉々にした。痛みのないだけ、折れたというより砕けた感覚が鮮明にわかる。

 横向きに転がって立ち上がると、しかし、ウルザンドは不敵な笑みを浮かべた。

「終わりにしようぜ、脊椎反射」

 ゾンビに嘲笑を吐きつける。

 そして、肘から先の動かない手でクズ結晶の入った袋を腰から落とし、蹴りつけた。

「終わるのは脆弱にして怠惰なる生者のみ。屈強にして聡明なる死者は永遠に終えぬ」

「無明なる定めが中に果つ意味を知れ」

 雄叫びのような呪文に応え、結晶の最後の魔力が弾けとぶ。

 具象化したのは、爆発と呼ぶには粗末な、極めて小さい輝きだった。

 その輝きがゾンビの足の先端を溶かし、刺さったままの魔具のナイフを暴発させた。

「終えぬ……終えぬ……決して終えぇぇぇぇぇぇぇぇええええっ!」

 足での爆発が膝を貫くナイフを巻きこむ。爆煙と血臭が舞い、その奥で下腹部と心臓に突き立つナイフがゾンビの身体を肉片に変えた。――――――――

 通路をコロコロ転がる頭部が恨めしそうに歯のない口を開いては閉じ、次第に動きが緩慢になって、やがて止まった。

「……やっと静かになってくれたな」

 爆風と熱はさらに拡がり、ウルザンドは顔を背けた。

 その視界内に、消えかけていた霧が不規則な収縮を繰りかえす姿が映る。

 まずい。思った時には遅かった。

 かりそめにでも魔具である魔法の霧が、突風に耐えきれず千々にちぎれた。

 すなわち破壊。閃光とともに、普通の魔具より激しい爆風がほとばしる。

 抗う手段は、ウルザンドには残されていなかった。

 台風に弄ばれる枯葉のように宙を舞い、床と激突し、壁に身体を打ちつける。

 絵芝居のように次々と視界が変わる。なにがなんだか分からない。ただ衝撃だけがある。

 暴風が凪いだとき、壁にもたれて立っていたのは偶然だった。

 足元に転がるゾンビの頭部を水中に蹴り落とす。

 それで精一杯だった。力を失い、ずるずると床に崩れ落ちる。

 天井を見上げると、ガラスのように視界が砕けた。その意味は冷たく重い頭にも汲み取れた。もう限界ということだ。

 妙に心地よい意識から、懐かしい顔が浮かび上がった。

 故郷の人たちだ。捕まえたウサギを右手に吊るした、壮年のくせに精悍な猟師ウェル。いつでも帽子を手放さなかった農夫のカディアス爺さんは、脳卒中で倒れたはずだ。みんな笑ってる。もともと厳しいところのあった父も、母もだ。

 最後に見えたのはよく笑う、茶色い髪の活発な少女。

 手を取り合って小川を飛びこえ、森で木の実を拾っては微笑みを交わし、祭りの夜にはみなから離れて二人で踊った。

 そして初めての、一度きりのキス。

 やがて視覚が消えていく。暗闇があることさえも判らなくなってきた。最後に脳裏をよぎったものは、セリアの顔に見えなくもなかっただろうか。希望を奪われ、しかし絶望しきれない。そんな表情だ。

「おれの一生、これで終わりか……」

 ありえないと思っていた。だが、あきらめを口にした途端、無くしたはずの感情がまだ自分の中にあったと知った。 

 それはどんどん膨らんできた。

 まもなく消える命とは裏腹に。今ごろになって、嫌がらせのように。

「いやだ……死にたくない。いやだよ、ちくしょう……」

 すがりつくように舌を伸ばして、ゾンビが流したゼリー状の血をすする。

 腐った鉄の味がして、少しの意識と、狂いだしそうな苦痛が戻った。

 それも一瞬だけのことであったが。

 すぐにすべてが暗転していく。

 そして希望も苦しみもすべて塗りつぶす、大いなる安らぎが訪れた。

――――――――――――――

―――――――――― 

「――あんの馬鹿!」

 シドックの大声に、びくりとセリアは身をこわばらせた。

 構えた部屋の近くまで戻り、気が緩んでいた。

「生意気に呪われた血でも頭に昇るかよ。この土壇場で血迷いやがって!」

「なにがあったの」

「ウルザンドの間抜けが、くたばりかけてる!」

 返事が終わるより早く、シドックは元来た道へと駆けだした。

 後を追うセリアの耳に声が届いた。

「虫の息だが……止めは刺されてない。相討ちか。ならネーバスじゃないな……『悪霊』かゾンビの待ち伏せでも食らったか。阿呆が」

「なんで分かるのよ」

「つながってるんだ、オレっちたちは!」

「だったらもっと早く気付いてなさいよ!」

「発狂しそうな無茶言うんじゃねえ! あと着いて来るな。先に一人で帰ってろ!」

「あたしも行く」

 もうシドックは応えなかった。それだけ逼迫しているのだろう。

 セリアは必死で背を追いかける。

 飛ぶような速度で床を走り、川を一足で越え、すり抜けた壁を回りこむ。

 しかし一分と走らないうちに、シドックの足が鈍った。

「なんで止まるの」

「空間がデタラメに曲がってるから気配もなにも読めないんだよ!」

 よく解らなかったが、水道ではウルザンドとのつながりを遡るのが不可能らしい。

「……どうしろってんだ?」

 立ち尽くしたまま、呆然とシドックが言った。

 水道は先にも後にも無限の闇を湛えるばかりだ。

「あいつが死ぬまで無駄に走り回ってろってか?」

 セリアの胸に、初めて本物の焦りが生まれた。心の底では何とかなると思っていたのだ。

ウルザンドとシドックならば何でもできると思っていたのだ。

 シドックに手の打ちようがないならば、なおさらセリアにできることはない。

 締めつけるように胃が痛む。

 不意に、視界が変わったような気がした。うまく言葉にできないが、なんとなく普段と違う――――

 なにかが見えた。セリア自身もよく判らないまま、見えたものへと手を伸す。

「きゃあ―― 捕まっちゃった―― 誘拐されてヘンタイだけどお金持ちのダンディで優しいオジサマに売り飛ばされる―― 」

 引き戻した時、彼女の右手はフィミの襟首を捕まえていた。

 シドックが言葉を失った空気が伝わってくる。

 吊るされたまま暴れるフィミが、セリアに気づいて突き抜けるような声を発した。

「あ、セリア姉ちゃんと幽霊の兄ちゃんめっけ――――セリア姉ちゃん、また脱獄したんだね。犯した罪は社会と被害者につぐなわないとダメだよ――――」

 セリアはフィミの両肩をがっしり掴んだ。

「時間がないの。あのカッコつけの馬鹿どこにいる?」

「ウル兄ちゃんだね。ん―――――――――― と、こっち。って、すっごく大変!? 死んじゃう死んじゃうよ!? ちゃんと面倒みなきゃダメなのに!」

「すぐ案内して!」

「いいけど、途中に怖いおじさんがいるの。こんな感じの」

 フィミは金髪を後ろに流し、大きく目を見開いた。

「う……」

 まったく似てないが、漠然と正体が見え、セリアの顔が引きつった。

「どうだっていい、先に行く!」

 フィミの示した方角に幽霊が飛んでいく。すで人型を放棄して丸い塊になっている。

「あ~あ、いっちゃった。幽霊の兄ちゃんじゃ、時間かせぎがせいぜいなのに」

 セリアは黙って目を閉じた。どうすればいい?

 すぐに答えは見つかった。

「フィミ。あたしの部屋から、なんか持ってきて。できるだけ早く」

「このへんに一つ隠してあるよ?」

 フィミが無造作に手を壁に突き入れた。

「フィミ、えらい」

 セリアの顔に、わずかな希望の光が差した。



 圧倒的な絶望が眼前にあった。

 なにをやっても通用しない。三つの流派を修行して実践の炎で鍛えたイズリッドの剣も、あまり期待していなかったが、タルムードの白い魔法もネーバスには傷一つ与えられない。

 劣勢どころか勝負にならない。あの生白いクロの言うとおりだった。

 ネーバスは扇で顔の半分を隠し、悠然と立っている。

 まだイズリッドたちが深手も負わず戦えるのは、ネーバスは遺跡を壊せないために派手な魔法が打てないのでなく、二人を無傷で捕らえるつもりでいるからだろう。

 屈辱もここに極まれりだが、それで実際、手も足もでないのが現状である。

「……舐めてやがるな」

 殺す気でかかる相手にお情けをかけているのだ。そこに付け入る隙がある。

「タルムード!」

 ネーバスを睨んだまま立ち上がる。気取られないよう、踵で二回の合図を送る。

 背後のタルムードから、今にでも絶息しそうな返事が戻った。

「クレイアム家の英霊たちよ、照覧あれ!」

 大きな亀裂の入った剣を頭上に掲げる。

「……………………惑え!」

 タルムードの声と同時に、雄姿がぼやけ、同じ姿の九人に別れた。直後、うしろで巨体の倒れる音がした。

 九人のイズリッドたちが、足を揃えてネーバスに特攻。虚をつかれた表情のネーバスは瞬時に呼吸を調えて、魔具を閉じると、イズリッドの倍に及ぶ分身を生む。

「!」

 イズリッドたちが驚愕に立ち止まる。ネーバスの分身たちは別々に、流れるように距離を詰めると、慎重に急所を避けてイズリッドたちに鉄扇を振った。

 単純な幻術だ。

 核となる銀の鎧の周辺に、イズリッドとと同じに動くまぼろしを作るだけ。

 ネーバスはそう思っていた。だから、すべての扇が空を切った時、少なからず驚いた。

 イズリッドたちは、すべて幻影だったのだ。

 泉のような脂汗をかいて倒れたタルムードが、してやったりという顔でネーバスを見た。

 ならイズリッドは?

 一人に戻ったネーバスが周囲に魔力を巡らせる。

 果たしてイズリッドは、結界の『要』の前で、剣を振り上げていた。

 透明の術に身を隠してだ。

「イズリッド=クレイアム、参る!」

 彼の腕前と傷ついた剣で、石の彫像を断ち切れるとも思えない。だがイズリッドの気迫には、なにか底の知れないものが存在していた。

「やめなさい!」

 ネーバスは本気で叫んだ。

 手加減もなにもない。開いた扇を投げつける。

 加速で生じた空気摩擦で服が発火した。

 戦輪のように、音にも届く速さで走る鉄扇が、巨体をていして楯になるタルムードを木っ端のごとく弾き飛ばして、銀の鎧に守られたイズリッドの腹を深々と切り裂いた。

 イズリッドの剣が、魂を護る結界を作る要に、大きなひびを入れた直後に。

 冷たい汗が全身を駆けぬけた。

「なんてことを!」

 亀裂から、発光を伴うほどに密度の高い霊体があふれだす。

 ネーバスが両手で無数の印を切る。しかし流出は止まらない。

 中からの圧力に耐えきれず、石の要が四散した。

 爆発的に魂の流出量が跳ね上がる。服からの火と空気による抵抗で総身が焼けていくのも構わずにネーバスは呪文を唱え導印を組む。

 だが、数千年にさかのぼる魂の奔流が弱まることは決してなかった。

 そして恐れていた事態が起きた。

 魂たちの『悪霊』化が始まったのだ。

 実験では、すべて自分の魔法で作った疑似魂を使用していた。本物の魂たちの融合を目撃するのは、ネーバスにしても初めてである。

 それでも一度『悪霊』化が起きてしまえば、魂たちを鎮めて制御するのは不可能だとは知っている。

 ネーバスは魔法を止めると、肌のほとんどに拡がっていた火傷を癒し、三つの扇を核にして結界を張った。

「本当に、なんてことを……」

 悪霊にもはや自我はない。個人ではなく、人格もない。

 気の遠くなる時間をかけて守ってきた人々の命が、一瞬で無に帰したのだ。

 つぶやく声にも力が入らない。ぎりぎり結界の内側に倒れる二人に目をむける。イズリッドは腹からだくだく血を流している。半端な防御が仇になったか、肥満の白魔導士は頭を強く打ったようで、息をしていない。どちらもすぐに死ぬだろう。

 しかし、手当してやる時間はなかった。

『悪霊』が本格的に完成して暴れ出す前に、不本意であるが、ありたけの『力』を使って蒸発させる。

 数千万の、まだ生きている魂が消えるのは耐えがたかった。だが放置すれば、できあがる死体の数は全人類の数割に及ぶ。

 もう魂を消滅から救う結界はない。いま壊された結界はネーバスの生まれる前からあるもので、製造法は誰も知らない。

 邪魔な感慨を追いはらう。

 ネーバスは静かに目を閉じて、周囲の『力』を自分に集約させていく。



 ザンクの目の前で展開するのは、理不尽なほど不可解な現象だった。

 そんな場面に、三度ザンクは邂逅している。初めての遭遇はまだ十代になりたての、海賊船でこき使われていた頃だった。

 数名の魔導士を擁する彼らの船団は、その時も普段のように獲物に接舷。歯向かう者を切り捨てて、金貨や物資を根こそぎ奪った。身代金の支払えそうな若干名の人質を取ると、残りを損耗のひどい船に押しこめ海へ沈めた。

 小舟が一艘逃げていくのを誰かが見つけ、海賊たちはその後を追った。たまらなく嫌な予感が走り、彼は船長に追跡を止めるよう進言し、その場で海に叩き込まれた。船団が海の藻屑と消え失せる数分前のことだった。

 二度目は遠く離れた地方で、志願兵として山賊退治にでた時である。二度と思いだしたくない。不安を好機と履き違えたために、寸前で逃れたザンクを残して敵も味方も一瞬で崩れた山の下敷きとなった。

 このギルゼリアに流れ着いてから三度目が起きた。汚い酒場で金持ちの息子のような男が酔っていたので、からかいがてら声をかけてみた。剣で魔導士に勝てるかどうか、喧嘩のような応酬になって、夜が明けるころにはなぜか、秘伝の技を男に教えることになっていた。

 大層な技など知らないザンクは、一撃で岩をも砕く技だと言って、適当な嘘を教えてやった。ここで逃げるべきだったのだ。こんな街からは。

 翌日、海に流れ込む川のほとりで寝ていると、その男が来て高価そうな剣を抜いた。でたらめを教えた咎で斬るつもりかと思ったが、男――イズリッド=クレイアムはザンクの前で、本当に岩を砕いてみせた。

 そうして始まった付き合いは今に至るまで続いている。イズリッドがザンクの恐れるボスと敵対しているなどとは知らずに。

 引くべき時機を逸すると、悪夢か奇蹟を体験させられる。

 ザンクは固く信じている。

 そして現在、ザンクの前に躍っているのは……まぎれようもない悪夢であった。

 ネーバスに預けておいた小娘が、部下に暴虐の限りを尽くしている。

 振り回すのは巨大なハンマー。あるいは鉄の棍棒か?

 下手に使えばザンクでも筋を痛めるほどの重さがあるはずである。

 それを女の細腕で、縦横無尽に振り回している。のではなく、武器に振り回されている。

 腰がまったく入っていない。だから行動のたびに上体が泳ぎ、ふんばりきれずに足がよろめく。隙だらけである。

 武器は威力の高いほど強い。ガキの発想だ。軍隊は数の多いほど強いというような。

 そのガキが、荒事に慣れた、冷静に人を殺せるはずの部下たちを薙ぎ倒している。質量が馬鹿げているので、多少の速度をつけて当たれば人を倒せる。器用にも死人は出していないようだが、ヤバい骨折は何人かいる。

「なんでコレこんなに重いのっ?」

 叫びは笑えない喜劇のようだが、現実に起きてくれると違った意味で笑えない。

「きゃああああっ 止めて、だれか止めてっ」

「ば、来るな……っ!」

 最後の部下が、振りかぶるハンマーの重量に耐えかねて突進してきた女の頭突きを鼻面にくらって倒れる。

 さらに人間一人分プラス馬鹿でかい鉄塊の重量で背中を踏みつけられて、何回か痙攣したきり動かなくなった。

 ザンクは腰から得物を抜いた。食事用かと揶揄されることもある、小剣にしても小さすぎる剣を両手に。

 足音を殺して背後から近寄ったつもりだったが、すぐ見つかった。これも何故だか判らない。

 前に構えたハンマーに引きずられ、セリアが突っこんでくる。決して間合いを詰めるといった動きではない。

 右手の剣で、突きを放とうとして諦めた。ただでさえ小柄な身体が左右にフラフラと揺れている。不規則すぎて、まともに当たる気がしない。

「あんた…………!」

 ザンクの顔を見て、セリアの声が引きつった。今になるまで気づかなかったらしい。

「えい!」

 まるで遠くからハンマーを振り上げる。当たるはずがない。

 ザンクも出足を踏みこんだ。間合いの線の内に入れば、打てる手も多くなる。

「ちょっと、あわ、はわわわわわっ!」

 そう思ったが甘かった。ハンマーを持ち上げすぎて、ものすごい勢いでケンケン飛びに後方へ下がる。考えていては絶対にできない動き。

 ザンクは再びセリアに迫った。

 がら空きの胴に一発。それで終わりだ。

 肩を引いた時、恐ろしいスピードで鼻をかすめて、上から何かが落下した。降り下ろされたハンマーだ。かすめただけの鼻の頭が火傷している。血が引いた。

 息をつく暇もなく、打ち下ろされたハンマーが床に反射してザンクを襲う。妙な力を入れたのか、軌跡が鋭いカーブを描き、正確に側頭部を狙い撃ちにする。

 上体を背後にそらすと、髪の毛一本ほどの距離を鉄の塊が過ぎていく。迷わずザンクは後ろに飛んだ。その直後、壁に当たった跳弾が残像の頭部を激しく撃ち抜いた。今度こそ、と剣を構えると、勢いに負けたセリアはすでに、予想もつかない位置にいた。

 ザンクは思考を切りかえた。

「来いよガキ!」

「止めてって言ってるの!」

 変わらずに近づいてくるセリアをよそに、ザンクは剣を投げ捨てた。

 よろけるセリアが真横からハンマーを繰り出してくる。

 セリアよりハンマーの動きに注意し、柄の中心を蹴り受けた。

 たまらずセリアが後ずさる。ザンクはあえて追撃しない。

 息を荒らげるセリアを見下ろし、ザンクは唇に笑みを浮かべた。

 受け身にまわり、スタミナ切れで動きが止まるまで待てばいいのだ。

 ザンクの意志を読み取ったのか、本当にただの偶然なのか。焦ったようにセリアが再度の突撃を敢行してくる。トリッキーだが、冷静になれば決して追えない動きではない。

 何度もザンクに突き飛ばされて、セリアはついに片膝をついた。

 薄いオレンジ色の瞳でザンクを睨み、また立ち上がるが、凍えるように膝が揺れている。

 いくら勢いを利用しようと、体重より重量のある物体を振りまわすには相応の体力がいる。今のセリアなら、多くて三回。

 そろそろいけるか?

 今度はザンクがセリアに迫る。後方に倒れこみながら、セリアは横からハンマーを振る。腕は無理なので、慎重に靴裏で蹴りとばすよう受ける。これで一回。

 蹴られた勢いを利用して、セリアが身体を反転させた。遠心力を上乗せされた一撃が、逆の横手からザンクを襲う。まともに受ければ足をやられる。斧を受け流す要領でハンマーを上に蹴り上げる。右足に激痛と痺れが走るが、これで二回目。

 運命の三回目は、予想どおりに真上からきた。ザンクは大きく背後に跳ねた。どんな偶然も間合いの外には届かない。はずだった。

 しかし虚しく床を打つはずの鉄塊が、しつこくザンクを追ってくる。

「――なに」

 ハンマーを投げた。いや、すっぽ抜けたのだ。

 すっぽ抜けたとはいえ、勢いはすさまじい。

 直撃したら死ぬ。ザンクは瞬時に身を伏せた。一拍おいて、凶悪に重いハンマーが背中をかすめて過ぎていく。

 顔を上げたとき、セリアの肘が目の前にあった。

 避けきれない攻撃ではない。しかし、激しく痛む右足がザンクの回避を鈍らせた。

 次の瞬間、体重と加速ののった肘鉄がザンクの顔にめりこんだ。

「やっぱり、あたしは肘だよね」

 暗くなる意識の外でそんな声がした。

 やかましい! 言うより早く、ザンクは闇に落ちていた。

 それが、身勝手な二人の部下と明暗を分けた。



 中央を制御する要石が砕け散ってから、『悪霊』の暴走は加速度的に拡がっていった。

 ネーバスが新たな結界を張った時には赤子程度だったものが、今では象を踏み潰せるまでに膨張している。最後には、少なくとも城を呑みこむ程度には生長するだろう。

 暴走に平行して、空間の歪曲も悪化が加速する。ネーバス自身まで含め、周囲の物体が一瞬ごとに大きさを変えていく様は、激しい船酔いのような吐き気をもたらす。

 そんな中でも歪みの中心にいる『悪霊』だけは順調に肥大化を進め、結界を揺らす魔法に近い圧力も高くなる一方だった。

 奇蹟を祈る乙女のように胸で手を組み、静かに目を閉じ、ネーバスは体内に取りいれた『力』を練り上げていた。

 量も練度も申し分ない。残る問題はタイミングである。

 魂が消え残るかぎり力に不自由することはない。だが、生きている魂を何度も蒸発させるなど、彼女に耐えられる話ではなかった。

 だから一回。まもなく訪れる、すべての魂が『悪霊』と同化する瞬間に終わらせる。

 あと数十秒。

『悪霊』の腹が腫れあがり、皮膚を食い破るようにして無数の顔が表れた。輪郭はどれも違うが、みな一様に苦悶をさらけだしている。それだけ頑張って生きてきたのだ。今日までを。今日までは。じきに死ぬまで。

 ネーバスの感傷をかき消すように、顔たちが一斉に悲鳴をぶつける。

 悲鳴の衝撃に耐えきれず、ネーバスを護る光の表面が剥離して、地下の空気に溶けていく。それでもなんとか、最後まで保つだろう。

 あと数十秒だ。

 ネーバスは力の練成をやめて目を開けた。

 その耳に、結界の内側で倒れている二人の男の苦鳴が届く。

 このままネーバスが魔法を放って『悪霊』を焼き尽くすなら、一般人のイズリッドは当然として、意識のない白魔導士も灰になる。

 別に構わない。そもそも彼らの撒いた種である。

 別に構わない。因果応報、本当に構わない。本当に。

 のどに何かを詰まらせたような音がした。そして白魔導士が息絶えた。

 知ったことじゃない。

 魔導士としての知覚に、ぼんやりとした緑色の霧状のものが死体から離れる瞬間が映る。思わず両手を伸ばしたが、魂はすぐ拡散して悪霊に吸収された。呪文を唱えていなければ、きっと悲鳴を上げていた。

 それでも知ったことじゃない。

 視界のすみで、イズリッドの口が半ば固まった血の塊を吐き出した。

 燃える使命に輝いていた瞳から、徐々に光が抜けていく。

 精気の落ちたイズリッドの顔は、寒気のするほど虚ろに見えた。

 首を支えた力が消える。朱に染まった彼の頭がくらりと揺れる。

 意志のない表情がネーバスを見た。

 知ったことじゃ――

 ネーバスは、体内で練った『力』を治癒に切りかえ、まさしく息を引きかけている男の横に駆けよっていた。

 再び『悪霊』が悲鳴を放つ。先ほどとは比較にならない、強力な悲鳴。

 無数の波紋が干渉しあい、生まれた歪みに耐えきれず、結界を構築している鉄扇が紙切れのように燃え上がる。

「ザイドリック、ミクジース。たまには少し働きなさいな!」

 結界が消える直前、ネーバスは余った力で遠く地上に転移した。

 ギルゼリアで身罷った、ほとんどすべての人間の魂を取り込んだ『悪霊』は、ついに遺跡の天井を突き破り、真上にあった白亜の名城“ナイアス”を一瞬で瓦礫に変じた。

 


「……馬鹿が」

 洩れる声にも精彩がない。

 セリアとフィミが駆けつけたとき、シドックはただ立ち尽くしていた。

 冷たい床に横たわるのはウルザンドである。

 近くで見ると事態の重さがよく理解できた。

 原型を止めぬ衣服が訴えている。爆風に呑みこまれたと。

 手足がすべて途中から、嫌な角度に折れ曲がっている。肋骨や脊椎が無事のはずもない。

 実際に右の胸から折れたあばらが生えている。

 出血もひどい。遠目から赤い毛布に映ったものは、ウルザンドから流れでた血であった。二の腕や太股が、破裂寸前の水風船か海から揚がった死体のように不自然な膨張を見せつけるのは、内出血が原因だ。

 気の弱い人間が見れば、吐かずにはいられない光景である。

 胸から飛び出た肋骨の他に目立つ外傷が見当たらないのは、シドックの応急処置の成果だろうか。手を近づけると、不規則であるが息はしている。首筋に指をあてると、弱々しい脈もある。いつ止まっても不思議でないが。

 顔には特に損耗がなく、黙って瞳を閉じている様は、安らかとさえいえる。それが元々の色素欠乏や現在の惨状と組みあって、屍じみた迫力を振りまいている。

 遠からず本物の死体になる身ではあっても。

「――――もう無理さ。看取ってやろうぜ」

 セリアは立ち上がり、シドックを見た。

「簡単に諦めすぎよ。治せないの?」

 幽霊が肩をすくめた。

「オレっちじゃな。魔導士がいりゃ見込みはあるが、並の腕前じゃ無理だ。さっきの樽を連れ戻すにも、探す間に逝っちまう」

 シドックに目を合わせたまま、ためらわずセリアは言った。

「あたしなら?」

「あ?」

 意図が読めないらしい。シドックが苛立ちを隠さない声で問い返す。

「言ってたでしょ、親兄弟に魔導士がいるって。だったらさ――」

 セリアは胸の隠しから、八角形のボタンを出した。

「――あたしも魔法、使えるんじゃない?」

「魔法なんざ、練習すれば誰でも使える。反対に魔導士なんて人種を指してる言葉があるのは、修行もせずに使える代物じゃないってことだ」

「あたし、できそうな気がするんだ」 

 沈黙の後に戻った返事は、盛大なため息だった。

「気の済むようにすりゃいいさ。魔法でいちばん難しいのが、壊れた生体の復元だ。できるもんならやってみろ」

 シドックの声をかき消して、水道全体を揺るがすような地響きがした。

 構わずセリアは横たわるウルザンドの横に片膝をつき、ボタンを持った右手をかざす。

 五秒が経った。一分が過ぎた。なにも起こらない。

「まだ続けるのか?」

 もう諦めろと続いた声を聞き流し、セリアは過去の記憶を手繰った。 

 魔導士とは集中するものである。特に『力』の源を外に持たない白魔導士は、集中によって『力』を増やす。そして『力』とは苦しみであり、痛みであり……

 左手を硬く握って、手首の甲に打ちつける。右手が下方に跳ねさがり、肘から先に気持の悪い痛みが走った。

 セリアの覚悟を汲んだのだろう。シドックが黙る。

 今度は右手をウルザンドに乗せる。そして集中に入る。

 ……集中とは?

 なんとなく理解した気になってはいたが、具体的にどうするのかも判らない。

 目を閉じてみる。視界が黒に染まっただけで、なにも変わらない。額の裏に念をこめる。息苦しくなり、まぶたの裏に星が生まれる。少しクラクラしてきたが、それだけである。

『力』が増えた感覚はない。不快感と相殺し、逆に痛みが薄らいだ。

 慌てて念のむく先を、打った右手に切りかえる。結果は同じ。

 ならば心を無にしてみるか。いい発想だと思ったが、実際にどうすればいいのか知らない。とりあえず、なにも考えないでみる。変化なし。

「セリア姉ちゃん、よく聞いて。目を閉じたまま」

 暖かい手のひらが二つ、背中に置かれた。

「痛いところに、青い光があると思って。玉みたいな。見えた?」

 意識を右腕の手首に移す。そこに、小さな青い玉がある。想像できた。

「見えたね? そしたら今度は、その青い色が、どんどんきれいになってくからね。湖よりも透明で……でも、ぜんぜん色は薄くないからね。濃くしても駄目だよ。そう、宝石みたいに輝いてるの。そう、そんな感じ。でも、もっと綺麗になるよ」

 セリアに応える余裕はなかった。

 これが集中というものか。気を抜くと、すぐ色が濁ってしまう。だが気を入れすぎると、息苦しさや鈍い頭痛で意識が遠くなる。中間点を探るにも疲労が邪魔してすぐ色褪せる。 その都度やり直さざるをえず、予想以上に辛かった。

 それでも作業は徐々に進んだ。汚れた塗料に似た青が空の色になり、きらめく海の紺碧に変わる。そこから純粋な蒼色を蒸留し、凝縮していく。

「うん…………うん。そのへんでいいと思う。そのままだからね」

 フィミの許可が下りてセリアは心底安堵した。危うく青が劣化しかけた。

 それで、この青い球をどうすればいい?

「えっとね…………」

「簡単だ」

 新しい声が横から聞こえた。

「目を開けて前を見ろ。なにをしたいか自覚しろ。その光を握りしめて、変えたい現実をぶち壊せ。新しい、自分好みの現実に作り直しちまえ。それは、嬢ちゃんの『力』だ」

「うん、大体そうなんだけど。球の中から光をだすの。その光を浴びちゃうと、セリア姉ちゃんの思ったままになるんだよ」

 次の瞬間、セリアの周囲から風が流れた。

 ただの風ではない。魔法に親しい者だけが判る、独特の波長を孕んだ風である。

「……驚いた」

 シドックが呆然とつぶやいた。

「本当にド素人が魔法なんか使いやがった」

 もしも魔法がコツを言葉で聞いたくらいでできるものならば、世界は魔導士であふれかえっているだろう。普通なら頭のなかで想像をこねまわすだけで終わる。

『力』を増幅し、意味のある姿に形作るには、五感のどれにも属さない感覚が必要になる。説明も記録もできないその感覚を手に入れるために魔導士は限られた人生のうちでも長い時間を修行に費やす。それでも魔法を使えるようになる者は一割にも満たないほどだ。

 それをセリアは、ただの一度で成功させた。

 だがウルザンドの傷は癒えない。

「生き返らなきゃ意味ないの!」 

 セリアは叫んだ。

 むしろ時間をかけすぎた。ほとんど息が絶えている。

「少し違ってる。治癒の魔法は働いてるが、ウルザンドにつながる道筋がない。ただ拡散して消えてるんだ」

「うううううううっ!」

 セリアの口から苦しげな唸りが洩れる。声に伴って治癒の出力も上がる。

 典型的な白魔法だと思ったが、微妙に違う何かがあると、シドックの勘が告げていた。

「え?」

 妙な風が吹き、唐突に、その道筋ができた。

「ちょっとなに、なにこれ!」

 逆流しているはずの感覚に、セリアの口から悲鳴があがる。

「やめてやめて怖いやめて! 暗い痛い滑る消えるあたしが消える!?」

「それが黒魔法だ! それがウルザンドの苦しみだ! 他人の苦痛を使うってのはそういうことだ!」

 その言葉がセリアの雰囲気を変えた。一言でいうと、肝が据わったように見えた。

「ウルザンド!」

 左手が閃いて、穏やかな顔で死神の手を迎えているウルザンドの頬を張った。跡が残るほど。二度も、三度も。

「このまま一生、寂しいままで終わっていいの!?」

 諦めたように安らかなウルザンドの表情が、苦しげに歪む。

 その場所にいた誰もが感じた。その途端、セリアの『力』がウルザンドの中に流れこむのが。

 胸を突き破る白いあばらが、傷ごと消える。過度の内出血による異形のふくらみが萎む。軽い音をたて、壊れた骨が原型を取り戻していく。

 色こそ同じだが、皮膚に生気が通いだすのを確かに感じた。

「すごいすごい!」

 両手を叩くフィミのとなりで、シドックは眼前の現象に戦慄していた。

 白でも黒でもない魔法である。正確を期せば自分と相手、白と黒で用いる両方の『力』を同時に使う必要のある、恐ろしいほど困難で効率の悪い魔法だ。

 しかし、威力は絶大。まったく心得のない人間が地獄の縁にいた魂を瞬時に現世へ引き戻したほど。ミクジースの継承者には激しく治癒が効きにくいというのにだ。

「あははははははは」

 体力と精神力を使い果たして、セリアが床にへたりこむ。

 ウルザンドは目を覚まさないが、脈も呼吸も落ち着いている。もう心配はないだろう。

「ホントにできちゃった」

 膝立ちのままセリアはフィミと抱きあって、大声で笑い始めた。

 セリアに魔法の扱い方を的確に教え、いまはセリアと跳ねまわるフィミを見て、シドックの脳裏に閃く言葉があった。

 転生術。

 当時まだ滅びの途上に留まっていた古代種族、龍や魔神、巨人族、翼人族や人魚族などの魔導士が、自らの死を遠ざけるために編み出した業である。

 この業を使った者は現在の肉体を捨て、新しい別の体に魂を移しかえる。そうすることで当面に迫った死滅を古い肉体に肩代わりさせることができる。

 だがこの業は、魔導士に多大な力量と代償を求めた。

 まず、新たに生まれかわる体は、元よりも魔力に劣った種族でなくてはならない。

 だから永遠に死を回避するのは不可能である。

 さらに新しい身体に合わせて魂が変質するため、記憶が大半の消える。どんなに運のいいケースでも、過去に自分が何者であったのか、覚えていられた者はない。

 そして魂の完全な変質――他人化を防ぐため、過去からのつながりが必要になる。

 例えば龍や人魚から転生したものは、よく体のどこかに鱗のような皮膚がある。これを剥がすと衰弱が始まり、死に至る可能性もある。

 あるいは、もとの肉体から名前を引き継ぐ時もある。その場合、勝手に名前を付け替えられると、そしてそれを認めると、同じく身体と魂が拒絶反応を起こす。

 だから、渾名を付けられることに強い拒否反応を見せる。変わり種では、元の名前が可聴域から外れるために、複数の名を持った転生者もいるらしい。

 確かめる手段を考え、シドックは好奇心に流された自分を恥じた。――――――――――知り合ったばかりの娘が懸命にウルザンドを治し、助かったことに涙を流して喜んでくれているのだ。出自など、どうでも構わないだろう。

 さらに強烈な地響きがした。前とは比較にならぬほど大きく揺れる。

 そして嫌な気配が突風のように、安穏としている空間を吹き抜けていった。

 誰かが駆け寄ってくる気配を感じる。

「…………あ」

 なぜか、フィミが悲しげな声をもらした。

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