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Magie - Noir  作者: 斑鴉
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2 シフォル=ネーバス   <非不死者>

「んふふふふふふ」

 ギルゼリアの地下に拡がる水道が、実際どこまで広いのか、正確に知る者はない。

 街の全域を網羅しているのだけは確かだが、それ以上のことは定かではない。

 いつ、どのようにして作られたかも定かではない。ギルゼリアよりも古いのだ。むしろこの遺跡じみた地下水道があったからこそ、既知世界有数の古都は誕生したと言っていい。

 同盟内でも十指に入る大都市の上水・下水をまかなう水道は、公式の記録だけでも百回に近い調査を受けて、全貌の一片たりとも明かさなかった。

 ギルゼリア城“ナイアス”の書庫で閲覧できる資料によると、過去5世紀に遡る 実りない探索が叩きだしたのは、人的被害に限定すると死傷者はゼロ。

 そのかわり行方不明者は、第一回目の調査初日に姿を消した志願兵卒ラムジィ=ベック(当時まだ弱冠に届かない18歳、将来の夢は家が裕福で美人な娘と結婚すること)を皮切りに、大きな街の人口に届く。

 運のよかった一隊が消息を絶って数年後、遠い都市から船で戻ってきたとも伝えられ、とりわけ運の悪かった者は(夫に先立たれ、五人の子供と借金を抱えた女だという。魔法が使えたとも聞くが、本名は特定できない)雲の上から一直線に街まで帰ってきたと噂されている。明確に記録と矛盾するうえに何の根拠もない噂だが、どちらにしても、真実は些末な差異を気にしない。

「んふふふふ。んふふふふふふ」

 ただ一つ水道について明らかなのは、現在の技術では再現できないことのみである。

 分岐こそ滅多にないが、血管を模倣したかと思われるほど曲がりくねっている道は気が狂うほど視界が悪い。さらに燐光と水音が催眠のような効果を及ぼし、単調な一本道を歩いているにも関わらず、ふと気がつくと前後のどちらを向いているかさえ分からなくなる。

 天井の高さはまちまちで、低い場所では子供の背丈ほど。反対に教会の塔を移築できそうな空間も珍しくない。

 毛細血管のように絡んで入りくむ水流の両脇には得体の知れない光を放つ石製の道があり、そのさらに両端に同じ材質の壁がある。

 この壁が厄介なのだ。

 奇妙な磁場を発しているため地図を作ろうにも磁石が効かず、道を拓くにも壁は宝石より硬い。

「んっふっふっふ。んふんふふっふふふっ」

 この水道は魔法によって魔導士の手で造られた大きな魔具だという説があり、先史人類、いわゆる古代人の残した遺跡だという説もある。説だけならば他にも枚挙にいとまがないが、信憑性という見地から論じるに値するのは皆無といって差しつかえない。

 両手を開き、見つめてほしい。

 とにかく不可解すぎるのだ。人間の手で作られたものと考えるには。

「ふんふぅふふ♪ ふふっふふぅうふ♪」

 ギルゼリアには、この地下水道へと通じる穴がいたるところに口を開けている。

 被害に比べて遅すぎた調査の凍結決定の直後、治安維持のため当時の代行領主によって入口すべての閉鎖令が出た。

 しかし経費をさし引けば足のでる報酬で勤労意欲が買えるはずもなく、ナイアスの周辺と、旅人の集まる北区、四角四面を是とする西区の一部を除き、今にいたるまで野放しなのが現状である。

 歩き回るには危険だが、そんな迷宮も住むには意外と悪くない。

 地上の季節に関わらず内部の気温は一定で、緩やかながら対流もあるため、仮に一夜を明かしても目覚めたら凍死していた、呼吸不全で死んでいた、強盗に殺されていた、等の事例は稀である。どれも時々あるらしいのだが。

 雑排水や糞尿垂れ流しの川に当たらないかぎり水は豊富で、魚も漁れる。湿気は非道いが東区の潮風より人道的で、慣れてしまえば壁の光で本も読める。字が読めるならだが。

 特にセリアは、この水道遺跡の薄闇に、なんとも言えない居心地のよさを感じていた。

「ふふふふひひひひふふふくくひひひひふふふ★」

 迷宮のうろ、空白部分を扉で区切り、誰かの家から持ちだした敷物と家具を並べた自宅でひとり、セリアは朝から不気味な笑いを上げ続けていた。

 気に食わなかった。

 昨夜のことだ。見たものの衝撃に流されたまま引き下がったが、目が覚めるなり烈火のようないらだちがわき上がってきた。

 偏見と言われれば、反論の余地はない。

 魔法知識の源だった先生は正統な白魔導士で、白魔導士の常識として、クロは魔導士のクズである。人間扱いする価値もない。それが嵩じて黒魔導士は人間と似た、まったく別の生物という考え方も台頭している。

 世界のどこを探しても、迷信的に想像される粒子のような『魔力』というのは存在しない。しっかり探せばどこかにあるかも知れないか、発見されたことはない。

 同様に、どれだけ祈りを捧げても、超常の力で以て報いてくれる存在もない。神も悪魔も精霊も、結局は愛情、理想や正義の兄弟で、迷信の子供たちである。

 どれほど真摯に祈っても、聞く相手がいなければ奇跡の起きるはずがないのは当然だ。人間ふぜいに見つからぬよう隠れてて、願いが届いても無視している恐れはあるが。あたしだったら絶対そうする。セリアは胸でつぶやいた。

 では魔道士はどうやって自然ならざる魔法を発現させるのか。

 苦しみである。

 苦しみは、それがそのまま『力』に変わる。

 苦痛を等価の力に変換し、魔導士は魔法を使う。その行程で、変換されてから魔法の形で消費される前の『力』が魔力と呼ばれる。

 だが血液を刃とし、骨に達する傷口を針で縫うより完璧に閉ざす力に見合う苦痛は、生半でない。

 白魔導士は、自らを苦しめる事で魔法を使う。

 立ってはうめき、歩いて悩み、寝るにも飯を喰うのにも禁欲的に気を休めない。万が一にも苦痛に慣れて感覚を鈍らせてしまわないよう、常に新たな刺激を与え続ける。

 貪婪なまでに禁欲的で、求道的ですらある白魔導士の対極に存在するのが、ウルザンドのようなクロ……黒魔導士だ。

 クロは、他人の苦痛を取りこんで魔法を使う。

 他の誰かを苦しめるほど強くなる。

 だから放逐され続けてきた。どんな時代でも、人間の世界の掟は黒魔導士の存在を認めなかった。

 常習性の強盗を飼ってやる義理などないということだ。

 セリアは同情を覚えない――嫌ならば、黒魔導士など辞めればいい。そして汗水ながして死ぬまで働き続ければいい。正体がバレないように。

 簡単なことだ。

 一般にただ『魔導士』といえば、白魔導士のことである。黒魔導士も堂々と世間に近寄れないために、長い年月が消える間に、ある意味で伝説になってしまった。記録と伝承に生きる、もう絶滅した疫病のようなものである。そんな生き物の生態を知るわけがないし、ましてセリアは真面目に魔法を学んでいない。知識はすべて聞きかじりである。

 幽霊が『素人よりも扱いづらい偏見持ち』と評してくれたが、半分は間違っている。偏見持ちかもしれないが、魔導士が近くにいたというだけで、セリアもつまりは素人なのだ。

 それは認める。昨日は自分が悪かった。

 でも、あたしは拗ねてるんじゃない。セリアはまた胸中でつぶやいた。

 先生は『クロ』ではないかと疑われ、死ぬまで牢に拘束された。白魔導士なら自力で牢から逃げ出せる、やっぱり彼は『クロ』だったのだとセリアまで責められたのだ。

 今さら嫌味の一つ二つで割り切れるものではない。

 悪意をもって巻きこんだのはセリアだし、嫌われるのが厭ならば黒魔導士など廃業しろと思うセリアが、ずるずると泥棒をいつまでも辞められないのが現状である。

 吐けた義理のない言いがかりなのは承知している。が、承知していれば納得できるものではないし、無理やり意志を押し切ろうとすれば昨夜見たウルザンドの横顔を思い出す。実感はないが、あいつに助けられたのだ。それも二度。

 どうしようもない。

 どう考えても答えはでない。最初から逆恨みだと決まってるのだ。考えまいと努めても昨日のあとで落ち着けというのが無理で(誰が指輪を模造したのか。どんな恨みがあってのことか)仕事で気分をまぎらわそうにも、街中を駆けずりまわった代償の、拷問のような筋肉痛で動けない。

 そうなれば笑うしかない。

 笑うしかない。決して拗ねてるわけではないが。そんな理由でセリアは自室に引きこもり、朝っぱらからふっ切れた、あるいはぶち切れたように笑い続けていた。

 そんな時だった。

「セリア姉ちゃんお客さん――、フィミだよ入るよ――」

 大海原でマンボウが昼寝するように太平楽な声がした。

 返事も待たず、子供が部屋に駆けこんでくる。

「んふふふひひひひふふふふっふっふふふふ」

 顔見知りである。本人が名乗ったとおりフィミという。

 愛くるしい外見ながら、幼さが先立って性別はよく判らない。言動からして同性と信じているが、なぜか訊いても答えない。

 性格はなかなかのもので、平気な顔で堂々と他人の家に入っていける。そして当然のように飲み食いし、ベッドを借りて、小遣いを巻き上げていける。

 その神経の副産物で、人脈が異様に広い。宝石を散らした服を着こなしていると思えば、衣服というより雑巾に近い布切れを見せびらかせに来ることもある。城で寝泊まりしているという噂も聞くし、そうだとしても別に意外には思わない。

 ちなみに今の服装は、黄色地に深い緑のラインが映えるワンピース。生地も仕立も上等なのもので、仮の誕生日に先生がセリアにくれた服である。クローゼットに大事に保管してあるはずで、フィミに譲渡した過去はない。

「お客さんだよ――フィミは違うけど、フィミもお客さんだからお菓子欲しいな――」

 保護者はいない。だが天性のタカリ才能をいかんなく発揮しているため、生活は恵まれている部類に入る。それでも棲みつついている水道の案内や、使い走りや伝言を頼まれたりして、小銭稼ぎに勤しんでいる。

「セリア姉ちゃん、男の人が呼んでるよ――すみにおけないよ――。あれ?」

 どうやら今日も誰かの使いで来たらしい。相手をするのも面倒なので、セリアは答えず笑い続けることにした。

「んふふふふふふふふふふふふふふ」

 驚きに目を見開いて、フィミは両手で口を覆った。

「セリア姉ちゃん、壊れちゃった……」

「んふふふふふふふふふふふふふふ」

「いい歳なのに子供っぽいし、フィミと同じで人見知りだから彼氏もないし、すごく性格も悪いから友達も少ないし――そっか。セリア姉ちゃん、悩んでたんだね」

「んふふ……ふふ…………。……………………。…………くふふふフフフフ」

「どうしよう。こういう時は、頭どつけば治るんだよね」

 とても微妙とは言いがたいセリアの変化も気付かずに、フィミは部屋の一角に目を向ける。そこにはセリアが拾い集めた、馬鹿げた数の棒状武器が山と積み重なっていた。

 数秒フィミは黙考し、やたらとトゲのある棍棒を抜き出した。

 背丈より長い金棒を掲げ、座ったままのセリアの背後に歩みよる。

 壁の明かりを赤黒く照りかえすのは錆なのか、それとも誰かの血痕なのか。

「成仏してね。セリア姉ちゃん大好きだったよ。フィミは死ぬまで忘れないから。絶対に忘れないって、寝る前までは覚えてるから。ホントだよ?」

「ちょっと待ちなさい」

 たまらずセリアは口を挟んだ。

「うん」意外と素直に、背中の気配が動きを止める。

 釘を刺さずに笑っていたら、本当に脳天を叩き割られた可能性がある。恐らくはフィミ一流の冗談だろうが、一方で、このガキならばやりかねんという危惧もある。

 疲労を覚え、ため息が口から洩れた。

 その直後。

「……うん。ちょっと待ったよ」

 悪気も邪気もない声がした。

 神経網を激しい悪寒が突き抜ける。無言の悲鳴を上げながら、セリアは体を真横に倒す。

 間髪入れずに銀の軌跡がその残像を打ち抜いた。

 完全にセリアが事態を把握したのは、フィミが笑顔で再び棒を掲げてからだ。

 怒鳴りつけようとして、体に釘を打たれたような筋肉痛にのたうち回る。

「セリア姉ちゃん苦しいんだね? すぐ楽にしてあげるから」

「しなくていいから」

 死ぬくらいなら、痛いほうがいい。

 セリアは気力をふり絞り、金棒を振る細い手首を受け止めた。

「治ったんだね!」

 きっと泣く子が笑いだす形相をしているだろう自分の顔の鼻先で、弾けるようにフィミの笑顔が輝いた。

 セリアは小さく嘆息した。歓声をあげて抱きついてきた小さな背中を見下すうちに、毒気の牙がぽろりぽろりと抜け落ちていく。感極まったか、歓声が次第に嗚咽になっていく。

「あんたねぇ……」

 悪気がないのは知っている。

 その上でこう盛大に懐かれたのでは、邪険に扱いようがない。

 仕方なく、胸元を圧迫している頭を両手で挟んで引き離す。

 瞳をのぞきながら、微笑んで。

「てりゃ!」

 星の散るような頭突きをかました。

「なに考えてるかな。あたしが死んだらどうする気なのよ」

「下水に落として証拠隠滅、ワニガメや大腸菌のエサ……」

 頭を小脇に抱きこんで、硬めたこぶしを捻じこんでみる。苦しげにフィミが言葉を継いだ。

「じゃなくて、ちゃんと盛大にお葬式……でもなくて、でもでも、セリア姉ちゃん、殺っていいって言ってるし――」

「常識で考えなさい。あたしを殺してもいいなんて、あたしが言うわけないでしょう」

「でも姉ちゃんの常識ってほら……」

「ん~~?」

「……ごめんなさい、ごめんなさいごめんなさい、フィミが悪いからグリグリやめて――っ!」

 泣きわめくフィミを腕力で黙らせるうちに、セリアは軽い頭痛を覚えた。『かっぱらいどもの親玉』といい、どこかで悪く誤解されている。

「で、なんの用事よ?」

 曇った気分に風を入れようと、努めて優しい笑顔を作って問いかける。見せる相手は、未だにセリアの腕の中だが。

「……………………」 

 待っても答えは返らない。痛みを訴える声も消えている。しばし悩んで、フィミの頭を締める力が強すぎるのだと理解した。耳を当てると、呼吸の止まっているのが分かる。

 脇から解放してやると、すぐに蘇生し、フィミはグスグス鼻を鳴らした。少し本気で泣いている。

 気まずくなった。ねぇフィミ、と、ふたたびセリアは笑顔をみせた。

「で、どんな用事?」

「……あのね、フィミを殺さないで欲しいの」真顔で言った。

 片側の唇がつり上がる。

「フィミを食べたり、誰かに売ったりしないで欲しいの」

 こいつが悪口を垂れ流していると確信しつつ、手を伸ばす。

 当然フィミも逃げ出すが――

「年齢の差で負けちゃった――きゃ――――」

 失礼ほざくガキの頭を、前後左右と上下斜めに揺さぶってみる。できるだけ脳が頭蓋骨に当たるよう力加減に気を配りながら。

 ほどなくフィミは静かになった。

「それで、あたしにどんな用事?」

「……あのね、フィミを殺さないで欲しいの」真顔で言った。

「ど・ん・な・用・事・なの。お客さんが来たんでしょ」

「うん、フィミもお客さんだけど、お茶もお菓子も出てないよ――」

 思わず指に力が入る。めり、と愉しい手応えがした。

「お客さんって?」

「二人だよ。男の人――」

 二人の男。セリアの脳裏によぎった顔は白かった。

 あのウルザンドがわざわざ会いにくるはずがない。そのくらいセリアにも判る。

 そもそもセリアの居所を知るはずがない。目の前のフィミは案内屋だが。

 幽霊が見えるはずもない。フィミなら見えるかもしれないが。

 あのシドッチが男だという傍証はない。女だったら一から教育しなおしてやるが。

「ねえフィミ、そいつの名前は……フィミ?」

 気付いた時には、フィミはセリアの両手から逃げ出していた。

 部屋の出口で大きく舌を突き出すと、「こっちだからね――」と通路の一方を指して、

一目散に逃げ出した。どうやら少し、やりすぎたらしい。

 立ち上がってみる。筋肉痛にも体が慣れて、歩く程度なら差し支えない。

 セリアも『客』が本当にウルザンドとは思っていない。かといって――フィミの妄言を認めるようで業腹であるが――他に男の知人もいない。「まさか、ね」

 武器の山から適当なものを持っていこうか考えて、やめる。

 緊張のような不安のような、経験のない心地悪さが芽を吹きはじめる。

 それが期待の一種であると知らないセリアは、自分でも気づかないうちに昨日の謝罪をどう切り出そうかと考えていた。


「ぃようセリア、儲かってるって?」

 本当に来客があの男とは思わなかった。

 だから、見覚えのある二つの顔が暗がりを抜け出した時も、そう落胆を覚えなかった。

 丸刈りの若い男が作ったように軽薄な声を張りあげ、隣の男が気取った眼差しを投げかける。まとまりのない長髪が気に障る。

 3年ぶりになる再会そうそう、元気か? とも、久しぶり、とも言わない彼らは、オズケスとゼメーギンという、孤児院時代の同年組だ。

「いい娘ちゃんですって顔で、よくやったよな」

 渋さを目立たせたい声で、長髪のゼメーギンが台詞を継いだ。昔とまったく同じ調子で髪をかきあげる。

 どんなことにも波長の合わない人間というものがいる。セリアにとって、まさに二人がそれだった。

 なにをさせても楽するばかり、得するばかり考えている。金が欲しい、地位が欲しい、女が欲しい。金持ちに生まれたかったと愚痴をいうばかりで働かず、孤児院の金を遣いこんでは見つかって、先生の体面を地に落とすような手段を使って埋め合わせては恩着せがましく――思い出しても虫酸が走る。

「抱かせて手なずけたガキに強盗させて、ピンハネしてんだろ?」

「……脳味噌、ウジでも涌いてるんじゃない」

 フィミの流した噂ではない。もっと悪意のある中傷だ。

 孤児院が潰れてからも、縁故筋から押し付けられた身なし子を何人か世話してやったことがある。セリア自身が無職のために仕事まで面倒を見きれなかったが、世間を渡る心得として『他人を傷つけることを怖がるな。傷つけてやっただけ、相手のためになることだから』と言い聞かせてある。遠慮してやる義理はない。甘いところを見せ続ければ、いつ足元をすくわれるかも判らない。先生のように。

 そこが誤解の原因らしい。

「見逃してやるからさ、オレらにも分け前よこせよ。協力するしさ」

「いつまでも甘ったれてんじゃねえ。捕まえたガキが残さず白状したんだ」

 知らなかったろ? と得意気に聞かれ、さすがに胸がむかついてきた。

 今日まで我慢してきたが、この二人には、言いたいことが山ほどあった。

 しかしセリアは、精一杯の侮蔑をこめて、こう口にした。

「詳しいね。役人にでもなったわけ?」

 無論セリアも、本気で思っているわけではない。白蟻のような役人たちが、ずっと暮らしてきた孤児院を根こそぎ壊していったのは、この二人だって見ていたはずだ。

 オズケスは坊主頭に嫌な笑いを浮かべると――こいつらのいい笑顔など見たくもないが、違う話題を持ちかけてきた。

「タルムードのやつ、今どうしてると思う?」

 タルムードとは誰だったのか、とっさに記憶が働かなかった。しかしすぐ、この二人に顎で使われていた気弱な顔を思いだす。小食のやせっぽちで、男のくせに泣き虫だった。

 確かずっと前、先生の知り合いらしい老人に、養子で引き取られたはずである。

「せっかくオレらが鍛えてやったのに、金持ちの家でブクブクに太っちまった。機嫌の悪いフグみたいで、街で会っても絶対に気がつかないぜ」

 ゼメーギンは唇を閉じ、オズケスと顔を見合わせた。始まったのは、隠れた意味のある含み笑いだ。知識のあることをひけらかしつつ教えない。過ちを許す気もなく延々なぶり続けるような、子供じみた所作である。堂々と見せつけられて、かなり厭気が差してきた。

「用がないなら帰ってよ。金はないからね」

「最後まで聞けって落ち着きのない女だな」

「相手にするなよ。どうせセリアだ」

 いよいよ嬉しそうにオズケスの表情が歪む。ゼメーギンが長髪を横からかきあげる。

「タルムード、白魔導士やってんだ。それも軍で。魔導士様だぜ?」

「オレらもな、タルの兄貴分ってことで特別に頼まれて、治安隊で活躍してるのさ」

 治安隊とはレナール卿が抱える私兵の正式な名称である。昨日のザンクとかいう人間外の同類であり、要するに、役人の同族である。

「……最低だね、あんたたち」

 逃げたくなるほどの嫌悪感というものを、セリアは初めて味わった。

「本当に役人になったわけ? 先生が捕まって、あたしたちの孤児院がどうなったのか、もう忘れたわけ?」

 こいつらはクズだ。呪う価値もない、一寸四方どこを調べても汚れた肉で動いてる、最低辺のゴミクズだ。

 そのゴミが吐いた空気を吸っている。

 そう気づいた時、また脊髄が『もう逃げようよ』と強く体に働きかけた。意地でこらえて睨むセリアに、「大人になれよ」ゼメーギンが気取った声で軽口を叩く。

「本当はもっといい仕事もあるんだけどな。楽して稼げるやつ。このへん治安悪いから、オレらみたいな優秀な隊員がいないとやってけないのさ」

 そんなはずがない。当人がどこまで本気で信じているか知らないが。

「そうそう」オズケスが派手に、打ち合わせてあるような相槌をうつ。「昨日なんか大変だったぜ? どっかの女が、領主様の露店市で貴重品をごっそり盗んで、おまけに警備の半分を再起不能にしてくれたしな。オレらも頑張って追いかけた」

 男の言葉が、セリアの神経を震わせた。

 似たような経験をしたことがある。あれはジュースに白い汚物を混ぜられていたと、誰かから聞かされる直前だった。犯人もこの二人だった。

「どういうことよ」

 二人の笑みが、いよいよもって嫌らしくなる。

「ザンクさん、間違いないスぜ」

 気配を感じて振りかえる。

 青白い闇の中から巨大な影が近寄ってくる。

 距離が縮まるにつれ、顔の造作が見えてくる。昨日の大男だ。一月は動けない怪我を負わせたはずだが、どんな素材で生まれついたのか、ピンピンしている。

 ハメられた。理解したとき、セリアは瞬時に駆けだした。

 狙いは昨日とまったく同じ。男の横を突破して、そのまま逃げる。今日はついでに、肋骨の一本くらい肘で折る。

 しかしセリアは失念していた。体調が昨日と同じでないことを。

 ザンクの手前三メートルで右足を激痛がつきぬけた。

 前傾に重心を崩したところに、ハンマーのような男の足がとんでくる。

 かわせない。肩口に強い衝撃を受け、身体が浮いた。背を激しく打ち、床にこすった髪の毛が切れる。

 オズケスとゼメーギンが左右からきて、セリアの肩をかついで立たせた。

 男二人のニヤつく顔か、生臭い息を吐きかけてくる。

 気持ち悪さによじった腹へ、ザンクの拳がめりこんだ。

 呼吸が詰まる。しかし痛くも苦しくもない。視界が黒く落ちていく。

 抵抗できない相手とはいえ、確実に一撃で気絶させるのは容易ではない。

 ただの力自慢じゃないんだ……

「これで一勝一敗だ」

 意識が闇に飲まれる寸前、そんな声がした。


 小娘が気を失ったことを見届けて、ザンクは深くため息をついた。

 決して誇れる仕事ではないが、大きな借りのある相手をやりこめて、あまり気分は悪くない。昨日の失態もおおむね帳消しだろう。

 あまり減点されてる様子はないが、用心に越すことは多くない。

 緊張感のないボスの笑顔を思い出す。あの女、まともではない。言い切る根拠は勘しかないが、戦場でのギャンブルに近い生命のやり取りで磨かれた勘が言っている。その勘で今日まで露命をつないだのだから、おろそかにする時は死期と確信している。

 ザンクは恐々と無骨な指を動かしてみた。

 鼻といっしょに後遺症の残るほど粉々に砕かれた指は、詰め所で待ち受けていたボスがやさしくさすっただけで元に戻った。なにをやったか尋ねても「おまじないですわ」の一点張りだが、魔法以外のはずがない。

 ネーバスという名のボスが、隠し続けてきた手の内をさらしてまで身柄を押さえたいという、この小娘は何者なのか。

「じゃ、オレらはこれで」「後はザンクさん頼んまスから」

 中年男の心情なぞ知らず、二人の手下が倒れた娘を押しつけてきた。

 昨日の事件では、騒ぎが起きた瞬間に姿を消した連中である。家を知っているというから使ってみたが……

「セリア、どのくらい貯めてたと思う?」

「かなりのモンだぜ。なんせオレらが出向いてんだし」

 上司の許可も得ず、怪我人に重い荷物を運ばせて。そんな戯言を吐き散らしながら。

「おぃ。セリアの寝ぐら、どこにあるんだ?」

「オレが知るわけねぇだろう」

「調べとけって。いくらでも手はあるだろう」

「どんなのだよ?」

「知らねえけどよ。どうする?」

「そうだな……ああ」

 当たりは同時に、肩の高さで手を打ちあわせた。 

「さっきのガキを探そうぜ」

 遠ざかっていく二人を見つめて、ザンクは地面を蹴りつけた。

「半人前が何人いても役に立たんな」


「さらわれちゃった」

 四つの影の中間点で、張りだした壁の陰から小さな子供の声がした。

「これって、フィミのせいだよね――」

 声そのものは能天気だが、聞く者が聞けば、海水が甘酸っぱいほど有りえぬくらい、声の主が気落ちしていると判ったはずだ。

 続く言葉に秘めらていたものは、後悔だけでない想いだった。

「……そうだよね。よし」

 だが、彼女の言葉はすぐに濁った。

「でもどうしよう。セリア姉ちゃん、本気で友達いないんだよね……それしかないか」


        †† † † † † † †† 


「くくくくくくくく」

 ギリゼリア、南区ボレアス市場通りの裏貧民町。俗に“迷路”と呼ばれる地域の一画で、遅朝から不可解な現象が多発していた。

 目撃者の曰く、誰もいないのに、いきなり壁が吹きとんだ。そう思ったが、壁には傷もついてない。今から思うに、拳で壁を殴ったような音だった。嘘じゃないって。もし同じ音を聞いたらすぐに逃げろよ。運が悪いか足が遅ければ殴り殺されるから。だから嘘じゃないさ。おれは特別の魔具があったから助かったけどな。欲しけりゃ売るぜ。格安で。

 他の目撃者の曰く、いきなり後ろで声がしたんだ。悪魔みたいな笑い声さ。でも、振り返ったら誰もいなかった。殺し屋に違いないと思ったね。死ぬなって確信したさ。アレはあんたの殺し屋じゃなかったのか? どうだって構わないけど、あんたは今すぐ死んでくれ。金貨5枚で雇われてんだ。

 ある体験者の語って曰く、どう言うわけか、すられた財布がアタシの懐に戻ってたのよ。長年使ってあげた恩よね、アタシの胸元が一番いいって判ってるんだわ。中身が少し減ってたのだけは気に入らないけど。その財布? 見せられないわ。またすられたもの。

 別な体験者の語って曰く、どうやらヤキが回ったみたいだ。仕事のたびに妙な声が聞こえるし、盗った財布は煙みたいに消えちまう。

 それに視線を感じるんだよ。見張られてるような。

 天罰だったらお門ちがいだぜ。表じゃともかく“迷路”の中じゃ盗まれるヤツが悪いんだから、おれはなんにも悪くない。お前のほうが悪いくらいだ。……ほら、今のため息だ。聞こえたろ?

 

 日影者たちのたまり場に、陽が差さぬという道理などない。

「くくくくくくくく、クククククククク」

 不気味な事件の落とす波紋が拡がりを見せ始めている“迷路”の出口で、ウルザンド=レン=ミクジースは本職の暗殺者さえ怯える声をあげ続けていた。

 気に食わなかった。

 昨夜のことだ。 

 よりにもよって、アレを見られていたらしい。

 居ても立ってもいられない感覚というものを、ウルザンドは初めて理解した。腹の底から吹き上げてくる、止めようのない笑い声など抑える気はなく、壁があったらとにかく殴る。しかし気分はまるで晴れない。だから暴走も止まらない。アレを見られた。

『アレ』が果たして何を指すか、ウルザンドにも判っていない。だが、締め上げてやったシドックによれば全て見られたそうだから、どれだろうとも問題ではない。

 シドックは呆れたような、何か言いたげな表情で、少し後ろに浮いている。

 魔法の才能か心得があれば、彼の姿と、彼の右手が手首の先から投網のように拡がって正面を歩くアルビノを覆っているのが見えることだろう。包みこむ幽体の幕が、色素のない肌に強すぎる日光と、時に紫外線より有害な人の視線をさえぎっている。

 昨日ウルザンドが口にした、シドックだけを見れない意味がないというのは、そういうことだ。

「んっくっくっく。…………。……あの強欲ババァ」

 不機嫌の種はもう一つある。

 ど派手に部屋を壊した咎で、肉食性の小動物に似た宿の女主に噛みつかれたのだ。

 寸分違わず元の姿に戻してやった。テーブルなどは、五年分ほど新しくしてやったのだ。それで言い渡された賠償額は、公平に見て三ケタばかり多すぎた。

 冗談ではない。所持金のじつに九割を占めるグリド金貨を、たんなる見栄で宿代に費やした貧乏人に払えるような額ではなかった。

『三日待っても稼げなければ……わかってるね?』と包丁を舐めた老婆に押され、こうして“迷路”をさまよっている。

 しかし姿を消しているウルザンドに働き口のあるはずもなく、あったとしても彼の筋力で勤まるはずがない。仕方ないので、困っている人間を見つけては勝手に影から手伝いをして勝手に小銭をいただくという、暗い労働に精をだしている。

「シワだらけのくせに欲の皮だけ若いままだな……」

 それに、決して悪いことばかりではない。片方のことを考えるうちは、もう片方を頭から消してしまえる。

 そうやって必死で自分を慰めながら、道ばたに落ちた財布に歩みよる。

「せめて、こいつが売れればな」

 手を伸ばした袋には、一刻とはいえ昨日の女――セリア――に盗られた、石炭のような黒い塊がある。これは魔法の源である力、苦痛を結晶化してもので、魔導士の間では白・黒を問わず、かなりの値がつく。だが、初めての街で魔導士が都合よく見つかるはずもなく、唯一見つけたシロのデブには喧嘩を売ってまだ一日も経っていない。

 頭を振って雑念を捨てる。

 そして、財布を取ろうと屈みこむ。

「食い逃げだ誰か捕まえろ!」

「邪魔だどけ!」

 突然、周囲に気配が生まれた。怒りにまぎれて、今まで気づかなかったのだ。

 頑丈そうな革靴が本能的にのけぞった鼻先をかすめて逃げていく。次から次へと四人分。少し遅れてもう一人。

 視線を戻すと地面の財布が消えている。器用なことに、食い逃げ犯が走りながら回収したらしい。

 現在までの収入は、造りの荒い私鋳銅貨が十八枚のみ。目標の爪の垢にも満たない額だ。まだ先は長い。

「……ネーバス」血を吐くように、ウルザンドはつぶやいていた

「もしこの街にいなければ、絶対にタダじゃすまさんぞ」


        †† † † † † † †† 


 ノックでずれた女の身体を担ぎなおして、大きな影がギルゼリア城ナイアスの三階にあるネーバスの部屋に入った。

 職務のために(していればだが)与えられた執務室でなく、着替えを収めるクローゼットや寝具のそろった、私室色の濃い部屋である。

 部屋の主が書き物をする手を止めて、彼に目をむけた。

「ご苦労様でした。ザンクさん」

「お待ちしましたよ、ご所望のもの」

 若かったころのようにはいかない。十年前はさらった女を両脇に抱えこんだまま走り回っても平気だったが、今では一人運んだだけて息が荒れている。道理とはいえ、悲しいものだ。

 それでも腕は衰えていない。自分が未だ生きているのがその証明で、肩の女もしばらく息を吹き返さない自信があった。

 だからザンクは、肩口に乗せたセリアを床に投げ捨てた。

「ご苦労様でした」

 ボスがねぎらいをくり返す。しかし、彼女の眉間が不快げなしわを刻むのを、ザンクが見逃すはずもなかった。

「不首尾でもありましたか?」

「いえ、なにも?」

「ならいいですがね」

 問い返してくる様子を見ると、反応に自覚がなかったようである。あえて問い詰めてみる益はない。

「速かったですね」

「部下に、こいつの顔を知ってるヤツがいましてね」

「ええ、ええ」

 かいつまみ事情を報告してみるが、ネーバスはどこか上の空だった。

 かと言って話に退屈したようでもなく、不思議なものでもあるように、床の女に視線を預けて離さない。ザンクの話が終わったことも判らないほどに。

「そういうことなんですが、もう一度言いましょうか?」

「え? ええ、聞いてましたわ」

 聞いたこともない、まるで寝付きを起こされたような口ぶりだった。

「そうですね。この子、二階の客間で寝かせてあげてくださいな」

 計算も腹芸もなく、ただ驚いて、ザンクはネーバスの顔を凝視した。

「わたくし、お化粧濃いですか?」

「…………」

「聞いてましたか?」

「え? いえ、もちろんですよ」


 命令通りセリアを客間に寝かしつけ、ザンクは廊下の天井をあおいだ。

 ネーバスの態度が妙だ。普段から真当とは言いがたいものの、今日は常軌を逸してる。

 女を落とした時といい、わざわざベッドに運ばせたことといい――

 あの女が? まさか。まさか?

 だがネーバスの取った行動は、連れてきた女を気づかっていると取れなくもない。

「そろそろ潮時かもしれん」

 上層部に立つ人間が、原理の違う、目的も判然としない行動にでる。そんな時には変事が起こる。きらびやかな政治の舞台も、血臭が華やかに死を飾りたてる戦場も、まるで堅気の商売も、それは変わらない。

 その時にどう振るまうか、振るまわぬかが、さまざまな意味で生死を分かつ。ザンクの好む仕事の場合、大抵そのままの意味で。

 気の張りどころだ。

「だれだ?」

 気配を感じて振り向くと、銀鎧を着た知り合いが、手を上げていた。

「やあ、ザンク殿」


        †† † † † † † †† 


「なぁウルザンド」

 二度目の血抜きが終わらないうちに、シドックが声をかけてきた。

「いい機会だから、一つだけ聞きたいんだが」

「あとにしてくれ」

 あと一刻もせず昼になる。

 空に雲はなく、屈曲している視界にも燦々と陽光が輝いていた。

 青々と繁る大樹には鳥が集まり、おのれの声を誇るがごとく、それぞれが思い思いにさえずっている。木陰で小さな草原をつくる雑草はたくましく伸び、漂わせるのは草いきれや花の香りだ。

 だが、その中心に座るウルザンドの胸中は、穏やかさとはかけ離れていた。

 朝から続く重労働は、あいかわらず実を結ばない。財布はずっと空腹のまま、増えていくのは生傷ばかり。

 返答が上の空でも無理からぬことである。

 そう思っていたウルザンドを彼の世界から引きずり出すほど、シドックの声は刺をむきだしていた。

「今すぐ答えを知りたいんだよ。悪いけどな」

 言ってくれ。ウルザンドは視線で頷いた。

「やる気あるのか」

「……なんだと?」

「ウルザンド=レン=ミクジースには、一族の継承者として、使命を果たすつもりがあるのか聞いている」

「反省してるさ」

 十年の、日常をすべて共有している付き合いで一度たりとも見たことのない剣幕に狼狽しながら、できるだけ刺激しないよう慎重に言葉を選ぶ。

「確かにつまらない意地だった。宿代のことも、知らないうちに見られたからって腹を立てたのもだ。元をたどれば、おれが絡み返したのが原因だしな」

 シドックは応えない。

 樹の根にもたれたまま視線を上げると、幽霊は表情をわざわざ消して見下ろしている。

「だが考えろよ。ネーバスがいるかもしれない。なら素通りはできないし、そうなれば宿を確保する必要がある。野宿でもして、本番の前に体が動かなくなるのはごめんだ」

 なおもシドックは応えない。祈るような気でウルザンドは言葉を継いだ。

「それにセリアだ。第一印象は最悪だったが、あれは役に立つ。右も左も知らない街で、一から人の噂を集めるよりもな」

「そんな話をしてるんじゃない」

 シドックの静かな怒声が弁解をさえぎった。

「宿だ? セリアだ? 判ってるのか、ここにネーバスがいるんだぞ?」 

「知れたもんじゃない。隣の村で、そう聞いただけだ」

「だったら調べろ。借りた憶えもない借金なんか返してるヒマあるならな。手段を選べる時じゃないとも分からんか?」

「あんた、ネーバスの話になると見境ないな。言ってるだろう、寝場所が居るって――」

「そんなもん、どこにでもある。積極的な理由があって――もちろん女以外だぞ? 今の宿から動けなければ、さっさと強盗してまわるなり、あの婆さんを痛めつけるなりするんだな。昔に戻りたいんだろ?」

「当然だ」

 シドックの一言に、それまでの弱腰をかなぐり捨てて、逆にウルザンドが吐き捨てた。

「貴様や先祖がどうだったのか、知ったことじゃない。おれはいつまでも、こんな人生に耐えてやる義理はない」

「忠告してやる。ミクジースの血統は、おまえ一人の専売じゃない。おまえの生命が消えない限り、ミクジースが八千年かけて培ってきた黒魔法と――」

「一月前どこに居たのか憶えてもない分際で、なにが八千年だ」

「――ネーバスのかけた呪いはお前のものだ。が、それだけのことだ。永い星霜の間に、類縁たちは世界の各地に骨を埋めた。その墓は、彼らの子孫が守ってる。忘れるな。

 おまえの代わりはいくらでもいる」

「なにが使命だ。貴様らが愚図だったせいでおれに回ってきた呪いだろうが」

「女の尻を追いかけ回すミクジースの名折れが、言うにことかいて愚図だと?」

「ああ愚図だろうが。貴様こそ忘れるな、おれのもっとも得意な業がなんなのか」

「黒魔法だ。ミクジース」

 冷たい風が“迷路”の空気を吹き散らしていく。

「魔法以外は、すべてが余技だ。遊びも同じだ。遊びが何の自慢になる」

 ウルザンドが立ち上がり、冷気を体で受け止めた。

「余技にどれだけのことができるか、貴様に一度、教えてやるか?」

 にらみ合う二人の間で、半ば物質化した音をたてながら、源の違う魔力と霊気が渦を巻く。

 生命の詩を合唱していた小鳥の群れが、一斉に空に羽ばたいた。

 抵抗力の弱い数羽が、実体のない力の不協和音から逃げきれず、地面に墜ちて天へと還る。羽虫は姿も残さず消えて、何十度となく踏み倒されても起き上がってきた雑草が萎びはじめた。

「長生きしすぎて疲れてるだろう。そろそろ休んだらどうだ」

 シドックの霊体がウルザンドを護る膜を右手に戻し、人型も解いて霧のようになる。

 変わった視界に目を細め、日光に焼かれて火傷をの始まった皮膚を最小限の魔法で癒し、ウルザンドが両腕を胸で組む。

 一触即発。

 仕掛ければ、どちらかが死ぬ。

 本意ではない。しかし。

「本気で闘るか?」

「おまえから止めるなら歓迎するぜ」

「………………………………無理だな」

 しかし引けない。生きる理由はそれぞれ違う。

 シドックの霧がさらに拡散し、目に映らなくなる。

 だが消えてはいない。

 殺気から受けた不快を『力』に換えて、三歩の距離を瞬間移動。一瞬遅れて全方位から霊気の粒が吹きつけて、固い地面を腐らせる。

 ウルザンドが両腕を伸ばし、深く息を吸う。昨晩のように。

 防げるタイミングではない。かわせる間合いでもない。

 シドックの霧が今度は逆に凝縮し、昨夜の“獣”と同じ仕組みで実体化する。

 取った形は鋭敏な槍。狙いはもっとも避けにくい腹の中央。

 間は互角。よくて相討ち。

 ためらった方が死ぬ。承知の上で、二人は殺意を練り上げて――

「いた――――兄ちゃんたち見つけた――――」

 そんな空気を、突然の黄色い声が塗り消した。

「……兄ちゃんたちだと?」

 黄金の髪の、幼い子供が迷いなく近づいてくる。

 顔を見合わせる二人にかまわず、欠伸をしているナマケモノより気楽な声で子供は叫んだ。

「大変たいへん、セリア姉ちゃん誘拐されたの、フィミに着いてきて――――!」


        †† † † † † † †† 


 寝心地の悪い夢を見ていた。

 先生だ。なぜ先生が、あたしにあんなことをしたのか。今になっても理解できない。

 あれは本当に夢だった。そう信じこんでみた時期もあったが、気がつけば知らないうちに事件そのものが、記憶のすみで忘却というほこりの下に消えていた。

 誰かが風を入れたのだ。だからせっかく忘れたものが、見たくもなかった醜い顔をのぞかせた。なぜ忘れたのか? 考えるより早く、なにを思いだしたのか忘れてしまった。

 寝汗はかいていなかった。それでも嫌な心象をふき取るように、右手の甲でひたいを拭う。

 そのとき初めて、セリアは誰かが顔を扇いでくれているのに気がついた。

「お目覚めですのね」

 逆に気分の悪くなるほど柔らかいベッドの隣で声がした。

 女がいる。高すぎる椅子に余った足をぶらつかせながら、どうみても軽いはずのない鉄の扇子で口を隠してる。纏うのは袖のない、喪服のような漆黒の服。

 ――目の細いひとだな。

 それが第一印象だった。

 部屋は明るい。水差しはよく光るガラス製で、染みのないテーブル掛けに乗っている。細目の女性から受け取ったグラスに口をつけ、セリアは周囲を見渡した。どこかは知らないが、どう見ても金持ちの家だ。

「ごめんなさいね? 昨日のお詫びで呼んだのに、使いの人が勘違いしましたの。誠実で頭もいいし、背が高いし、あれでもう少しだけ気が利けば、みんなザンクさん放っとかないのに。ねぇ?」

 寝起きの頭で、ザンクが誰か思いだしてみた。数秒後、名がタコ顔と一致する。あれがか。

 もう完全に目が覚めた。

 ベッドから飛び降りて――いい加減うんざりなのだが――筋肉痛で姿勢を崩す。

 その両肩を、どうやったのか、ベッドの反対側にいた黒服の女が前から支える。

 すると、折れ曲がる白線に似た残像が空気を走った。

 ビリッと痺れる衝撃が体を抜ける。

 冷たい真冬、金属に触ると起こるアレのようだが、あまり痛くない。

 ただ驚いた。

「……今の、なに?」

 呆然と、セリアは黒服の女に尋ねる。女も最初は面食らったが、

「なにか強い魔具をお持ちですこと?」

 なにか思いだしたのか逆に問い返してくる。セリアは首を左右に振った。

 心当たりがないのなら、とさらに女性が聞いてきた。

「ご両親か兄弟か、ご先祖様が魔導士ということは? わたくしの知り合いにも居りますし、隠されないで大丈夫ですよ」

「知らない」

 セリアは話題を打ち切った。まだ平然と言えることではない。ぶっきらぼうに答えた。

「昨日も変に性格曲がった幽霊に同じこと聞かれたけどね」

「まあ」

 また思いだしたと、畳んだ扇で手のひらを打つ。――馬が本気で人間を蹴とばしたような音がした。

「そう、ザイドリックとミクジースは息災でしたこと? 促してでもお答え願いたいですの」

 息災かどうか、返事を催促していると、そういうことだろう。

 ……下半分を聞こえなかったことにして、記憶の糸を手繰りよせてみる。

 少しだけ、しかし確かに聞き覚えがある。あれだ。

「ミクジース?」ザイドリックが幽霊で、ならば……

「ああ、ウルザンド」

「真ん中の名は?」

「覚えてない」

「そうですの……」気落ちしたような女性に問いを投げかける。

「あいつ、知ってるの?」

「本人は存じあげませんけど……その、親戚の方を」

 思いだすべきことがある。

 そんな想いがセリアの胸を急きたてるのだが、無責任にも想いはまるで手助けしない。

 女性は再び扇子を広げ、口許で揺らしはじめた。

「もう長らく彼らと逢ってませんの。詳しくお聞かせ願えませんこと? 城のお庭をご案内がてら」

「城? ――ここって“ナイアス”!?」

「そうですよ。あら、お話ししなかったですわね」

 遠慮してみたが誘いは続き、結局セリアは受けることにした。自分の身分で死ぬまでに牢獄以外の城内を見られるとは思っていなかったし、なによりも少しぼけているこの黒服の女性が気になったのだ。応諾すると、そうそう、と口を開いた。

「もっと申し遅れましたわ。わたくし、ネーバスといいますの」


         †† † † † † † †† 


「一体おれはなにをしてるんだ? ここに来てから何かおかしい。ギルゼイだったか?」

 蒼白の幽昏い輝きに満ちた地下水道に、ウルザンド=レン=ミクジースの低いぼやきがこだまして消えた。

「ギルゼリアだけどな」

 律儀に応えるシドックの声も、憂鬱の色がにじみでている。

「名前なんかどうだっていい」

「なら聞くな」

「それよりも原因の究明が先だ。おれたちは、もうすでにネーバスの術中にいるのか?」

「被害妄想」

「だったら、なにが楽しくて昼間から下水道に潜ってるんだよ」

「会話が成立しないんだから、仕方ないだろう」

 その言い様に異議を唱えるように、闇と視界の境界線からフィミの声がする。

「兄ちゃんたち速く―――――― 」

 結局ウルザンドとシドックは、フィミに先導されるままギルゼリアの魔境“迷宮”地下水道に歩を移していた。

 質問にまるで取り合わず、言いたい事しか喋らないので(しかも独特の黄色い声で)、本当にまったく会話が成立しない。二つだけ判明したのは、子供の名前がフィミであること、そしてセリアが攫われたということだ。

 それでも二人が着いてきたのは、何度か聞こえたネーバスという単語に引かれてのことだった。

「しかし暗すぎる。魔具が要るか」

 ウルザンドは長いマントの内袋から、小さな棒を取りだした。

「同化せよ。世界は闇なり、闇は無なれば。汝も失せよ」

 彼の命令に従って――逆らって?――、棒が明るく輝きだした。

 魔具とは強い『力』を浴びて、変異した物質を指す。

 金属などの硬度の高い物質は魔具化しづらく、刃から『力』が流れるために刃物は決して魔具にならない。

 また、破損したとき爆発を起こす、魔具制作者と関係のない者は使えないという絶対的な欠陥はあるが、大半の魔導士は肌身離さず使える魔具を持ち歩いている。

 目を焼きかねない白光の下で、ウルザンドは顔をゆがめた。

「シドック、判るか?」

「誰に言ってる」

「歪んでるな。……ああ、別に誰かの性格じゃない。この空間だ」

「代替わりしろ。即座にだ」

「それと『力』だ。ここは苦痛に満ちあふれてる」

「本当か? オレっちには感じられんぜ」

「無理もない。おれだって魔具を使って初めて気づいた。他人に使われないよう、誰かが細工してあるからな。こんな業、初めて見たよ」

 並の魔導士に扱える魔法でないのは明白だった。

 シドックがうめく。

「……ネーバスか」


        †† † † † † † ††

 

 その空間には高貴な白と、きらめく水が輝いていた。

 生き生きと伸びる芝生は絨毯に劣らないほど柔らかく、それでいながら泥濘や砂浜のように足首を取ることがない。そのため建物の内部にあるとは思えない、子供が迷子になるほど広い中庭を散策しても、たいした疲れを感じさせない。

 趣味のいい贅沢さというのだろうか。太陽を照り返す噴水とベンチの他に建造物はない。要所に立った像や樹は目立ちすぎぬのに、見物人を単調な景色で飽かせない。彫像はどこまでも精密で、眼前で動きだしても不自然と思えないほどだ。そして精密さに負けないだけの美を持っている。ほかの配置物たちと調和した美しさ。それはセリアをして、こっそりと持ち帰るのを躊躇させるに足るものだった。

 隣に並ぶネーバスが指す方角を見る。

 そこにある、立派な剣の柄にもたれて膝立ちで眠る、乞食のような服装の若い男の塑像をめぐり喧々諤々、蛙鳴蝉噪、残酷非道の議論が始まる。

 陽光を背にセリアが是といえばネーバスが否と応え、甲だと説けば乙ではなくて丙と返される。一度くらいは言い負かそうと粘ってもネーバスの論陣に死角は見えず、かといって反撃の余地もなく撃破されたりもしない。だから戦いは泥沼化の一途をたどる。

 不思議。

 セリアは思った。

 ネーバスは、すべての意匠が暗示するものを知り尽くしている。そうでなければ同じ話題の続くはずがない。それで初見のセリアにレベルを合わせるのだから、完全に子供扱いだ。普段なら馬鹿にするなと癇癪の一つも起こすところだが、今日はまったく不快ではない。むしろ妙に息が合う。

 昨日の故買市での盗難事件は不問とされた。

 本来、無償で希望者に配る場だったのが、趣旨が途中で歪んだらしい。だからセリアが罪に問われる道理はないと聞かされた。都合がいいのでセリアは反論しなかった。

「でも」ネーバスは言った。「遺族の方が不快に思うなら、考えを改めませんと」


 それからも、二人でいろいろなことを話した。

 会話の大半は楽しさに流れて消える、他愛ない内容だったが、ネーバスの立場――代行領主のさらに代理――に話が及び、なぜ故郷でもない街のためにそんな重責を担っているのか尋ねたときの、「誰も死なないですむ世界を作りたい」と応えたネーバスの顔は、きっと生涯忘れないだろう。

「実は、もう計画は始まってますの」はいくらなんでも冗談だろうが。

 一秒の間隙もなく続いてきたおしゃべりは、ぐぅという唐突なセリアの腹の虫のせいで中断を余儀なくされた。

 空腹感はずっとあったが、あまりに会話が楽しかったのと、自分から訴えることに抵抗があったので我慢しつづけた末のことだった。気恥ずかしくなり「ネーバスはお腹すかないの?」と尋ねたところ、「滅多に食事はいたしませんの。ダイエット中ですから」と切り返された。

 足りなくなければ目立ちすぎもしないネーバスの胸元と胴回りを、同性のみに許される気安さでしげしげと眺め、あえて比べるつもりはないが、セリアは視線を自分に落とした。やめればよかった。

 そして城内に戻ろうとした時だった。

 男の声に呼び止められたのは。

「おや。ネーバス殿、着替えられたか?」

 重そうな銀鎧を着た、線の細い優男である。

「普段より随分とおとなしい服のようだが」

「少し汚してしまいましたの」

『おとなしい』とは色だろうかと、城内にして露出部の多い黒一色の服を見る。

「こちらの方はイズリッド様といいますの。名門のお生まれで、職務熱心な人ですわ」

 その紹介で初めてセリアに気づいた顔で、イズリッドは遠慮の足りない視線を向けてきた。

「ネーバス殿に妹御がいるとは初耳ですな」

「妹ですか?」

 小首を傾げるネーバスにイズリッドが言う。

「違いますかな? 瞳の色がよく似ているが」

 弾けるようにセリアはネーバスと眼を見合わせる。 

 ……細すぎて判らない。

 しかしネーバスが感心したように「本当ですわ」と言うのをみると、実際に似ているのだろう。

「昨日、御迷惑をかけた方ですの。お詫びを兼ねて、こうして城内を案内してますわ」

「ほう、例の?」男の物言いに、気分の悪いものを感じた。「やはり女性同士では談笑も弾みますかな。邪魔をせぬよう、退散しましょう」

 言うだけいって去っていく。その時に見せた笑顔で、セリアは彼が嫌いになった。

 目だけで男の背中を追うと、少し離れた柱の陰で、誰かと話を始めたようだ。

 地面に伸びる二つの影の片方に異様な丸みのあることが、セリアの記憶を刺激する。

「タルムード? あんた、もしかしてタルムード?」

 丸すぎる影がセリアの声から逃げ出すようにかき消えた。

 イズリッドは一瞬間だけ敵意の宿った視線を向けると、慇懃極まる礼をして去っていく。わけが分からず、またネーバスと顔を見合わせる。しかしネーバスはこんな時でも、すべて承知しているような、緊張感の抜けた笑顔を崩さない。なんとなく、怖くなってきた。



 その十数分後、セリアは所在無く中庭をうろついていた。

 イズリッドに急用ができたとのことで、ネーバスが姿を消してしまったのだ。

 呼び止めたのだが、抜け道でもあるのだろうか、すぐに見えなくなってしまった。柱の陰にいた推定タルムードも唐突に消えた。もっとも彼は魔導士になったそうだから、抜け道ばかりとも限らない。

 手持ち無沙汰になってしまった。 

 かといって、うかつに動いて迷子になったら笑えない。

 自分の身分を考えてみる。今だって、衛兵あたりにつまみ出されてもおかしくないのだ。敵地とまでは言わないものの、結局ここは異邦である。一人になって初めて実感がわいた。

 急激に陽が翳る。

 すると中庭の表情が一変した。暗い緑は気が滅入らせて、彫像たちの纏う美が絶対量はそのままで恐さに変わる。曇りでこれなら、とても夜には見たくない。きっと後々夢に見る。城住みの人は平気なのだろうか。夢といえば、今朝はなんだったろう。いや、今朝は見なかった。一時間前、先生の夢をみたはずだ。

「…………あ!」

 昨日の指輪は偽物だった。偽物どころか罠だった。

 しかし、ここになら、本物の先生の遺品が眠っているかもしれない。

 探せるものなら探してみたい。ネーバスが帰ってきたら、ある程度まで事情を話して協力を求めてみるか。

 ………………ァ……

 誰かの声を聞いた気がした。

 知っている声。タルムードか?

 …………セリア…………

 また聞こえた。今度ははっきり、セリアの名前を呼んでいた。

 タルムードではない。もっと深みと渋みのある声だ。

 声の主を探していると、中庭すみの林の中に井戸を見つけた。古ぼけた井戸で、仮にもギルゼリア城“ナイアス”のものなのに、桶の一つも置いてない。

 代わりにハシゴが立てかけてあり、そこから下に降りられる。

 その中から声がしている。聞き覚えのある、しかし、するはずのない声が。

「……まさか、先生?」



 数分前のことである。

 早朝ザンクが訪れたネーバス私室に、別の男が立っていた。

 イズリッド=クレイアムである。むろん一人だ。主に断ってもいない。

 唇を舌で湿して、イズリッドは部屋を見渡した。

 漠然と期待していた、一目でクロと判りそうな――魔方陣や白骨などの――ものはない。狭くない一画を鉄扇や羽根製の扇、異国情緒ある紙張りの扇子が埋めているのが異様といえば異様だが、それだけである。もし入ったのがイズリッドでなくフィミならば、口走ることもあっただろうが。 

 インクの匂う机に向かう。日記や書きかけの命令書など、自分なら飲み下してでも隠す書類や羊皮紙が散乱してる。が、一見してネーバスがクロであることを証明できるものはないし、失脚させるに足るものはない。もとより期待もしていない。

 適当に漁り、目ぼしいものを頭に入れる。

 そして、彼女でも隠したがるものを探しにかかる。

 そんな危険物のある場所を、敵対しているイズリッドが知るはずもない。存在するかも明らかでない。しかし調査とザンクから得た情報を統合すると、ネーバスは数カ月に一回、三日は行方をくらましている。

 そこに、なにかしらの企みがあるのではないか?

 イズリッドにはその内容を知る必要がある。ギルゼリアを護るために。

 本職の密偵を使わずに単身危険を冒すのは、ある確信と予感、そして計算あってのことだった。

 緊張に震える指を押さえつけ、ベッドをあさる。実に飾り気のない、簡素なベッドだ。

 元々の位置を脳裏に叩きこんでから、そっと静かに側方へずらす。

 まずは下。二階だが、念のため落とし戸がないか調べる。頼るのは手触りと耳。外れのようだ。すぐ切り上げて、ベッドの裏に秘密の扉を手さぐりでさがす。やはりない。

「焦るな、イズリッド=クレイアム。焦るなよ……」

 枕をどけて、シーツをはがす。でてきた布団を余すところなく手で押してみたが、不審な点はまるでない。布団もどける。

 現れた木製の台を、今までと同じ要領でもって検査する。

 ――当たりだ。

 すみの一カ所に、他と違った手応えがある。裂け目を見つけ、慎重にナイフでこじあける。うまくいかない。慎重さと力の加減が噛み合わず、手元が狂う。何度も台に必要のない傷をつけ、小さな木戸を開けたとき、目に入ったのは……小さな絹のかたまりだった。

「……イズリッド様」

 突然、気配が背後に生まれた。

 全身の筋肉が硬直し、体が勝手に振りかえる。

 ネーバスがいた。

 まっすぐにイズリッドを見ようともせず、目を伏せたまま鉄扇で顔の大半を隠してる。

「イズリッド様」

 再びネーバスが彼の名を呼ぶ。イズリッドは水分のない唾を飲む。

 ネーバスはやはり、イズリッドを見ない。見たこともない反応である。顔が赤いのか怒りのためか。声が小さく、揺れているのは、感情を無理に殺してるためか。

 甘かったのか。硬かった確信が曲がり、そこにどれだけ寄り掛かっていたのか初めて知った。

「イズリッド様……その……」

 ここで死んだか。イズリッドは肚をくくることに決めた。

「ネーバス殿、何用かな」

「あの……その……言っていただきたかったです」

「……?」

「イズリッド様がおっしゃれば、あの、差し上げましたのに」

 わけも判らず聞き返してみる。

「ほう、頂けたのかな?」

「……ええ、その……下穿きの一枚くらい」

 彼女の言葉を理解するのに、時間を要した。

 下穿きとは下着の一種で、ズボンと同じく穿くというくらいだから、腰から下のものである。また造型的に、ネーバスはかなり美人の部類に入る。今は着替えてしまっているが、楚々とした美貌に反して普段の服装は痴漢も恐れぬ大胆不敵。

 当然、健全な青年としてはいろいろ期待が……

「め、めめめっそうも、おおお私が、き貴殿ののののの」

「も、もちろん今穿いてるのは駄目ですよ? お洗濯してないのもですからねっ?」

 言いつくろうにも言葉がでない。もはや何を言っているかさえ判らない。今穿いている……まさかこの場で? 想像すると鼻から血がでた。あわてて拭う。

 火傷するほど顔が熱くなる。怒りではなく、頬は羞恥でも赤くなるのを思い出す。走って逃げ出す衝動に耐えるので精一杯だ。

「だれが下着など盗むか!」

 怒鳴り返したイズリッドを見返したのは、女性の冷たい視線であった。

「では、どんな御用事でしたの?」

 急速に頭が冷えた。

 末代までの汚名をかぶろうと、ここは下着泥棒で通すしかない。

「申し訳ない」イズリッドは頭を下げた。

「まったくもう、どうした男の方ってみんな……」

 ネーバスは強烈な感情を抑えるように、胸に手をあてて深呼吸をする。

 よもや、笑いを堪えてはいまいだろうが――そうなら斬るぞ?――やがて、普段の笑顔で口を開いた。

「わたくし、お客様を待たせてますの。一緒に謝ってくださいね?」

 親指の関節を折り曲げるように頷き、ネーバスの後についていく。

 ネーバスについて経験と観察から判ったことがある。例え背後から短剣で刺してくる相手でも、ネーバスは命を奪うということをしない。彼女を襲って行方の知れなくなった男が、記憶のすべてを失って近くの農村で小作をしていたことはあっても、死体が見つかったことはない。生きてさえいればいいとも思えないのだが。

 理由は不明だが、一般人を装っているのだろうとイズリッドは考えている。だから消えても騒ぎにならない密偵を使うより、直接自分が出向いた方が安全である。それが予感だ。

 そして計算。こうして自分が貼り付いていれば、ネーバスも動きが鈍くなるだろう。その隙に白魔導士のタルムードが調査を続ける。そんな手筈になっている。

 クロの秘密を探るのだから、気配を消せて、『力』を知覚する人間が最適だろう。

 だが考えない。思わない。前をゆくネーバスに気取られないため。

 イズリッドは、白魔導士タルムードの腕を信頼していない。しかし軍関係者で唯一の魔導士であり、さらにネーバスへの恨みがある。彼を孤児院で拾った師匠が、ネーバスと会った直後に死んでいる。その一点においてのみ信用できる。だが考えない。思わない。


 中庭に戻ると、セリアはどこにもいなかった。

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