1 ウルザンド=レン=ミクジース <クロ>
邪魔ッ! うすらぼけっと突っ立ってないで!」
「なっ――がぁげっ!?」
五万を超える人口を平等に見下ろしている太陽は、正午に少し届かない。
最底辺の職人や労働者たちがたむろするギルゼリア南区市街の雑踏を、切羽つまった女の声と、不意に背中に肘打ち食らって地面とキスした男の悲鳴が引き裂いた。
立ち止まる通行人の間を縫って、小柄な影が駆けていく。古ぼけた男性用の外套を巻きつけているが、フードからのぞく顎から喉にかけての華奢なラインは女性のものだ。
まだ若い。十代の半ばだろうか。後半を越しているとは思えない。
走りすぎたのか、顔色が悪い。息も絶えだえで、引きずるような足どりは一歩ごとに右へ左へよろめいている。
それでも行く手を遮る人ごみをすり抜けて、肩や肘鉄で張り倒しながら、必死に道を駆けていく。
「いたぞ、こっちだ!」
誰かが声を張りあげた。
もつれる脚を急きたてながら、フードを傾け、少女は背後を肩ごしに見た。
男が四人、息を切らして追いかけてくる。
先頭の逆立った髪の男と目が合った。少女は奥歯を噛みしめた。
「そいつ見覚えがある!」男のうちの一人が叫んだ。
「かっぱらいどもの親分の、セリアってガキだ。まちがいねえ!」
「だれが親分よっ!」
とっさに男に叫び返すと、酷使してきた肺臓が焼けつくような抗議を放つ。
激痛に口をあえがせながら、セリアは青ざめた顔を歪めた。
痛いのは肺だけではない。腰から下の筋肉はすべて、ちぎれるような不快感で限界を訴えている。少し前から感覚のない足はなんども血豆を潰しているし、あまり動かしていない両手さえ疲労で鉛のように重たい。
はじめのうちは、痛みは勝手に相殺していた。やがて意識して無視する必要にせまられ、気づいた時には反響しあい、身体の各所を断続的に責めたてていた。
いっそ転んでしまいたい。そうすれば、もう走らなくてすむ。
そんな誘惑が自分の声で語りかけるたびに、セリアは追われる原因になった小さな指輪を強く握った。
捕まるくらいは構わない。牢屋に閉じこめられるのも、我慢できないことではない。
最後の形見が赤の他人の手に渡ることに比べたら――
「ザンクさん、女そっちに行きました!」
「応、まかしとけ!」
よく通る、野太い返事は前から聞こえた。
筋肉質の分厚い胸がセリアの視界を埋めつくす。
見上げると、白子の蛸を思わせる顔が、足ならぬヒゲを震わせている。セリアはとっさに頭を屈め、一瞬遅れてその空間を丸太のような二本の腕が薙ぎ払う。
風圧で耳鳴りがした。
見上げると、畸型のナスをなまった鉈で抉ったような、だが楽しげな男の笑みが硬直し、骨格を軋ませながら熟したトマトも青くなる形相に変化していく。汚れた服と筋肉の他に遮蔽物のない脇腹に肘をこじ入れる誘惑を振りきって、脇を駆け抜ける。
「待ちやがれ!」
背後の空気が怒号に歪む。
すかさずザンクが追いかけてくる。
――意外と速い。重そうな身体のわりに。
引き離せない。体力の差が明白なだけに、いずれ捕まる。
よぎった焦りに気をとられ、硬い小石を踏みつけた。
衝撃が腰から脳に突き抜ける。激痛が呼び水になり、なんとか惰性で動かしてきた両膝が折れる。
逃避のさなか、追手の前で、セリアは大きくよろめいた。
快哉を男が叫ぶ。
同時にセリアは外套の胸のボタンをむしり取る。
くん、という抵抗があり、後ろから掴まれた外套がするりと抜けた。
灰色の厚い布から、一回り小さな体が宙に飛びだす。頭巾が外れ、後ろで束ねた金髪がギルゼリアに吹く潮風に舞う。
裏返ったのはザンクの叫び。
陽光を乱反射する黄金の髪を靡かせながら、化粧気のない唇を結び、痛みの少ない右足を軸に回転。
振り向きざまに放った蹴りが、つんのめるザンクの鼻を蹴り抜いた。
汚ったらしい悲鳴を上げて巨体が崩れる。
「ザンクの兄貴!?」
「クソアマがっ」
いきり立つ追手の群れを一瞥し、奪われた外套を引き抜こうとする。
しかしザンクは掴んだ服を離さない。脳震盪を起こしたはずの首を傾けて、焦点の合わない両目でセリアを見つめる。つぶれた鼻から流れる朱に染まった口を左右に開き、にぃと笑った。エラの張り出た顎の下から、糸を引く血がしたたり落ちた。
あんず色だったセリアの瞳に、激昂の暗い火が灯る。
「返しなさいよ先生の服!」
渾身の力をこめて引き寄せた古い外套が、耳障りのする異音と共に二つに裂ける。
それがセリアには、心が壊れた音に聞こえた。
「返しなさっ――お願いだから返してよ!」
かつて衣服であった布切れを持つ指を踏みつける。見物人が一様に顔をしかめる音がして、しかしザンクは握った指を開かない。
さらに頭に血が昇る。そのまま踏みにじろうとして、四人の追手がすぐ近くまで来ていたことに気がついた。セリアは迷い、さらに迷って、逆立った髪の男の手が伸びてくるまで踏みとどまった。盗人を捕まえそこなった手が、偶然セリアの持っている灰色の布に届く。布はあっけなく指をすり抜けて、捨てられる。
セリアは魂の抜けた目で、風に流された布切れが知らない女に踏まれるのを見た。
楽な仕事のはずだった。いつもしている生活のための盗みではないが、要領は変わらない。こっそりと獲物を持ち出し、バレたら価値に見合うだけ、つまり所有者が諦めようと思うまで逃げ続けるだけ。
故買市――半年前に始まった、没収された死刑囚や獄死した罪人の財産を安価で払い下げている、“城”直営の転売所である。もっとも、価値のある物は没収の段階で担当の役人たちが着服するので、たいしたものは置いていないが。
そんな所で飾り気のない指輪を一つ盗ったところで、騒ぎになると思わなかった。
現に何度も仕事をしているし、城から依託を受けた商家も、残るよりマシと盗みを黙認……むしろ奨励している節もある。
それが、今日は違った。盗難が発覚するや、ガラの悪い連中が次々と現れ、どこまでも追いかけてくる。警備の数も執念も尋常でないし、理解もできない。
まして予測のつくはずがない。まるで見張られていたようだ。
だがそのせいで、また一つ先生の形見を失った。外套だった布切れがすり抜けた時の焦げつくような触感が、まだ指先から離れない。できればずっと消えないで欲しい。
セリアは残った八角形の硬いボタンを、指輪を納めた胸元裏のポケットに入れた。
――もう、これしかない。
それもあくまで逃げきれればだ。捕まれば、二度と先生の遺品に触ることはない。
そんな胸中を嘲笑う、甲高い呼び子の声が響きわたった。遠からず、街中の自警団員が集まってくる。たかだか一人のコソ泥のために。
逃げきってやる。そのためだったら、なんでもしてやる。
覚悟を決めてセリアは前を見渡した。居る。年齢のよく判らない、手足のついた酒樽のような男が、二つの通りの交わる場所に立ちつくしている。避難もせずに。
「ごめんね?」
あんぐりと、詰めればリンゴ三つは入る大口の前に加速して、精一杯の――他の誰にも負けないという自負のある、白百合が花開くような笑顔を見せた。
まったく同時に上体を沈め、胸骨直下に肘を叩きこむ。
「∂⇒※〃§♂・♯ηζ〆∽★!」
聞くだけで耳が穢れる悲鳴を残し、がくりと樽が膝をつく。おまけに股間を蹴り上げてから、踏み板にして直角に進路を変え、また走り出す。
露店や屋台、野菜を乗せた荷車の立ち並ぶ市場通りには、俗に“迷路”と囁かれている裏貧民街への入口がある。名前のとおり入り組んだ裏路地を正しい道順で進んだ先に拡がる区域で、代行領主レナール卿と体制側に極めて悪い感情を持つ人種、あるいはもっと単純な、常習的な犯罪者たちの根城となっている。むろん官憲が境を侵せば、生きて帰れる保障などない。
そんな場所だけに、セリアのような小悪党には居心地がいい。特に盗みが見つかって追い立てられている時などは。
しかしセリアが市場通りにたどり着いた時、騒ぎを聞きつけたのだろう、ひしめく人垣が道の両側を埋めつくしていた。当然“迷路”への入口も。
これでは奥に入れない。野次馬をかきわける間に捕まってしまう。
時間の猶予は? セリアは背後を振りかえり――信じられないものを見た。
滅紫の鎧を着た男たちがいる。
ひまな金持ちが、治安と多少の利便のために組織した自警団の人間ではない。薄給で城を警備する衛兵でも、家柄とコネで役職が決まる警察局の人間でもない。
猛獣や野盗、他国の軍勢などの外敵からギルゼリアを守る、同盟の駐屯軍である。
過去に数回、衛兵や自警団では歯の立たなかった凶悪な強盗組織がギルゼリアを跋扈したとき、鎮圧にあたったらしいが……個人を相手にする仕事ではないはずだ。
思ったところで目の前にある現実は変わらない。
先頭にいる兵隊が、剣先で正確にセリアを指した。
号令一下、金属音を轟かせながら屈強な兵隊たちが突撃してくる。少なく数えて十人以上、全員が武装している。持っているのは鉄棒や二股槍など捕縛向きのものばかりだが、その気があれば、わずかな手違いで簡単に人を殺せる。
彼らの鎧に肘鉄が通用するか、確かめたいとは思わなかった。
もう時間がない。隠れる場所のない開けた道だ。振り切ろうにも体力はとうに使い果たした。立ち向かうなど論外だ。
十数年の人生の中で、しかしセリアは幸いなことに、こんな場合にどうすればいいか、よく知っていた。
そう。
時間稼ぎの身代わりが――生贄が一人いればいい。
脇を固める人の群れから、タイミングよく男が一人押し出されてきた。埃にまみれた旅人姿で荷物は少ない。財布とおぼしき皮の袋を腰から下げて、背は高いものの武器は持ってない。
遠目にも顔の白さが際立っている。旅人のなりをしているが、まともに外で働いたことはないだろう。南区を見物にきた、どこかの金持ちの息子。居合わせたのも道楽かなにか。セリアは瞬時にそう決めつけた。
人生の怖さについて教えてあげる。驚愕を浮かべる男に駆けよりながら、そんなことを考えた。
「助けて、追われてるの!」
真正面から男のマントにすがりつき、有無を言わせずそう叫ぶ。
「助けてってば! あなたに言われて盗ってきたのよ?」
顔を伏せたまま周りをうかがう。人間の壁を透かして、一瞬間だけ見覚えのある建物の隙間、“迷路”への開口部が映る。
もし反論するなら、足を踏みつけて黙らせる。セリアの決意が伝わったのか、男が低い動揺の声を洩らした。
「かくまって、もうすぐそこに来てるの! どうして何も……まさか」
「おれが見えるのか?」
「まさか――あたしを見捨てるの!? そんなことしないよね? 今までずっと、あなたのために――見えるに決まってるじゃない」
すがりついたまま(実際は胸ぐらを締め上げたまま)男を見上げる。
魔法のように両手から力が抜ける。言葉を忘れ、セリアは男の顔に魅入った。
世界から一切の騒音が消え、静寂が場を支配する。
ただ打ち鳴らす心音だけが耳に響いた。
突風がフードを外し、その下に隠されていた白く細かい長髪を乱す。
男の顔は白かった。白すぎた。陽にあたらない、では説明できない、目の裏を焼くような衝撃を伴う白さがあった。
整った面立ちは精巧な石の仮面を想像させるが、血のにじみだすような唇と双眸がそんな予想を否定している。
日銭を盗んで暮らすセリアも、肌の白さと細やかさには自負がある。しかし男の持つ白さには、それとは違う、どこか不吉で病的なものが漂っていた。
眉間に皺を寄せながら、男が薄い唇を開く。
「驚いた。本当に見えるらしいな」
「お前が言うと驚いたように聞こえんね。でもオレっちには気付いてないぜ」
すぐ耳元で、明らかに違う男の声がする。
男の赤い目が動く。つられて視線の先を追っても人影はない。
「見えない意味がないだろう?」
「そいつに聞けよ。オレっちよりな。しかし正直、そいつの近くは気分が悪い」
「貴様、何者だ? いや――」
水を向けられ半歩だけ下がったセリアを、赤い瞳が射すくめる。
「なにを持っている?」
セリアは何も答えずに、また半歩後ずさりする。
盗んだばかりの小さな指輪を、自分でちぎった八角形のボタンと一緒に、服の上からそっと押さえた。
その胸元に白い男の手が伸びる。
セリアの肌が粟立った。
悲鳴のかわりに男の腕を打ち払う。
不快げに顔をしかめて、払われた腕を舐めた視線がセリアを捕らえる。
毛穴がすべて塞がるような恐怖感が、小さな胸をわし掴みにした。
逃げるにも足がまったく動かない。疲労とは別の要因で。
ふたたび男が手を伸ばし――――――
「そこに誰かいる!」
背後から聞こえた声が、固まっていたセリアの体を動かした。
跳ねるように男から離れ、なぜかどよめく人垣ごしに、届いた声の主を探す。
先刻の、樽から四肢が突き出したような、丸々と太った男がこちらを見ていた。
いや、正確にいえば見ていない。粘度の高い脂の汗を吹き出しながら、両目を閉じて、リンゴより少し大きい水晶玉を突きつけている。セリアの前の男に向けて。その背後には見覚えのあるゴロツキどもと滅紫の鎧の軍団が待機している。
その光景で、セリアは即座に理解した。
――あのデブ、魔導士だ。
魔導士に一発かまして逃げきれなかった。控えめに表現しても最悪である。これより悪い事態といえば、真正面から無策で『クロ』に喧嘩を売るしか思いつかない。
「二……三人だ! 人間以外が混ざってる」
丸い男の吐いた言葉に周囲の空気がどよめいた。
「……やるぞ。シドック解け!」
「あいよ」
同時に白い男が叫び、声だけの声がなげやりに答え、どよめきが悲鳴に変わる。
衆人が注視するなか白昼堂々と女が消えて、駐屯軍を従えた白魔導士が『怪物がいる』と言った直後に忽然と人が現れたなら――しかも見覚えのない、一目で異様と知れる男だ。当然の反応だろう。
「……すべて捕らえよ! 止むなくば殺せ!」
「かまうこたぁねえ、殺っちまえ!」
丸い男の命令で軍人たちが我を取り戻し、それに遅れてリーダーを欠いたゴロツキたちに本来の意気がよみがえる。
「ちっ……!」
その人数に白い男が舌打ちを洩らした。
視線を前に固定したまま、抜き打ちざまにナイフを放つ。
走る銀光はあやまたず、セリアの鼻の頭をかすめ、屋台の籠につながれている鶏の首筋に刺さる。
断末魔の悲鳴があがり、赤い奔流が弧を描いた。
「暗流の脈々と継ぐ不浄の系譜が自らを絶つ! 踊れ、赤刃破!」
呪文と同時に印を切る。
吹き上がる血が形態を変えた。
赤い流れは大蛇のようにのたうちながら天を目指して伸びあがり、やがて止まると鞭の動きで先頭の二人の男に襲いかかった。
磨き抜かれた鉄の鎧が、血の鞭を浴びてまだらに染まる。
それだけだ。
思った刹那、二人の胸から鮮血が吹きあがった。
「ぎゃあああああ!」
「因業の連なる鎖は長大にして無常なること魂の如く! 踊れ、赤刃輪斬!」
遅れてあがる悲鳴を押し退け、白い男が再び叫ぶ。
切られた胸から吹き出した血が刃に変わり、麻服も滅紫の鎧も構わずに後続たちを斬り伏せる。流れ出す血が新しい凶器になって、真紅の蛇は一瞬ごとに倍増し、叫喚のなかを新たなる仲間を探して蠢く。
「――こいつ『クロ』!? 黒魔導士かッ!」
樽が――白魔導士が魔具らしい水晶球を突き出した太い手を、真上から降る血刃が骨ごと断ち斬る。
生暖かい、なにかが頬にぶつかった。
拭った手を見る。誰のものかは知らないが、とにかく赤い、ぬらぬらとした液体だ。
視界が急に暗くなるのをセリアは感じた。
理性をなくした群衆が服を引きあい、倒れた背中を踏みつけながら逃げていく。武器を持つ男たちが地面に崩れ、あるいは逃げて、あるいは逃げだす背中に血の鞭を受ける。物音がして見回すと、前後からさらに鎧の一群が近づいていた。
一瞥するなり男が袖をまくり上げ――出てきた腕もやはり白かった――また印を切る。
とっさにセリアはその手を掴んだ。
男の振るう魔法の力を取り上げるように。粗暴な子供をいさめるように。
なにか叫んだかもしれないが、自分の声は不思議と耳に聞こえなかった。
睨めつけた男の顔が呆然としたものに変わり――ようやくセリアは我に返った。
まるで時間の止まったように誰も動かない場所で、全員が惚けたようにセリアを見ている。
自分の取った行動の無謀さに気づき、総身を震わせながら、セリアはさらに無思慮な行為におよんだ。
つまり、その場から逃げだしたのだ。男の腕を握ったままで。
「なんの……つもりだ!」
後ろから聞こえる抗議を、握った手首に圧力をかけて黙らせる。
「…………………!」
白い男がさらに非難の声をあげるが、きっぱり無視し、昼なお暗い隧道を折れ進んでいく。まず左、次を右。三つ目も右。五つ目の十字路を左に曲がり、十一個目の三叉路は道の間を突き抜ける。
「おいおい……」
覚えきれんと他人ごとのようにつぶやく声を同じく無視し、深い迷路を踏破していく。三色塗りの壁を飛びこえ、腰ほどの高さの穴をくぐる。役人の遭難者らしい白骨を蹴り、日によって正解の違う八つの戸からサインどおりの一つを選ぶ。
疲れも痛みも吹きとんでいた。
「ひとの迷惑考えなさい!」
もう誰も追ってこないと確信できる場所まで着いて、男の脇に肘先を埋める。
「なんてことやらかしたのよ!」
きれいに決まったはずなのにまるで痛がる様子も見せず、それが怒りを余計に煽った。
「小僧、貴様、なんのつもりだ」
「……ちゃんと見なさい。誰が小僧よ」
「…………女か」
「そうらしい」
伸び上がり、ありたけの力でもって男の胸を締め上げた。
噛みしめた歯の隙間から、軋みのような声がでる。
「どうしてくれるの。もう大騒ぎなんて話じゃないわ」
「かなりの騒ぎだったと思うぜ。最初から」
胸を引き寄せ鼻面に頭突きと思わせ、股間を膝で蹴り上げる。止められた。
「死人が出たらどうしてくれるの。あたしの名前バレてるってのに」
「オレっち達には関係ないぜ?」
「加減はしたさ。魔導士がいれば、すぐに治せる」
「右手斬られて気絶したじゃない!」
返事がくるまでに、一瞬の間があった。
「なに?」
「魔導士が? …………嘘だろ?」
血が早足で頭に昇る。
男の右手がすらりと上がる。
とっさに掴み、そのまま背中に捩じろうとして、セリアは息を詰まらせた。
今になるまで気付かなかったが、握った腕は、どきりとするほど細かった。
「……とにかくっ」
投げ出すようにセリアは男の手を解放した。
「そこの店まで顔貸して。話つけましょう?」
「セリアよ。名字も二つ名もないわ」
数分後。泥より濁った安酒と、いつ作られたか判らない冷めきった料理の置かれたテーブルごしに、セリアは男に名を告げた。
窓のない宿の食堂は、それでも二つのランプの光で壁から壁まで見渡せる。まだ正午にもなっていないが、顔を赤らめて酒瓶を傾ける人影がちらほらとある。酔い具合から見るかぎり、一昨日前から飲んでいる。
それより数は少ないが、一つの席に頭を寄せて、何か得体の知れない話に没頭している姿も見える。おそらく儲け話だろうが、隠語ばかりで筋が見えない。たまに知っている単語があれば奪うか盗るか殺すのどれか。唯一の例外が、北の指定席で壁向きに座る性別不詳の長髪で、こちらは一人で延々と予言のような詩めいたものをつぶやいている。
いつでも此処はこんな感じだ。
入口は立ち話をした壁の中。どんでん返しの扉を開けて、男が驚きの息を洩らした時はセリアも少し得意になった。
「ウルザンドだ。ウルザンド=レン=ミクジース」
酒の入った陶器にも焦げた魚にも手を出さないまま、男が自分の名を告げた。
透明な声というのだろうか。男の声には特徴がない。高くも低くも感情もない。改めてセリアは背筋に寒気を覚えた。
「それで――」
ウルザンドは首を傾け、右の肩口に赤い目を向ける。
「オレっちはシドックだ。ザイドリックでもいいが、シドッチとは呼ぶな。シドでも駄目だ。こいつの背中で幽霊やってる。年齢は聞くな、覚えてないからな」
明るい声を聞き流しながら、セリアは身体を乗り出した。
見えないやつはどうだっていい。ウルザンドの目に視線を注ぐ。
「あんた『クロ』ね? 黒魔導士ね?」
周囲の空気の流れが変わる。陽炎のように灯が揺れた。
セリアの言葉を捕らえた客が、目を動かさずともこちらに意識を向けてくる。場馴れしているセリアでも居心地悪さを覚える風だ。
それを平然と受け流し、ウルザンドは左の肘をテーブルに乗せ、物憂げに握った拳に頬を預けた。
ただそれだけで、頽廃の国の王侯のような雰囲気が周囲に満ちる。
「その分類は意味がない。白でも黒でも、究極的に魔導士のすることに差はないからな。が……」
ときおり何の前触れもなく横滑りする赤い双眸が、すっと細まる。
「いかにもおれは黒魔導士だ。それがどうした?」
「どう無意味なのよ。ぜんぜん別じゃない!」
セリアの声が高くなる。
「知ってるわ。昔から、クロにまともな人間はいなかった。だから普通の魔導士に追い立てられる。放っておけば自分たちまで白い目を向けられるから。普通の人間からも追い立てられる。食いものにされたくないから」
「まとも、ね」血よりも赤い唇を上げてウルザンドが薄く笑った。市場通りの惨劇が脳裏をよぎり、胸が奥からむかついた。
「実に結構だが、こそ泥に説教される憶えはないな」
「クロなんかに貶される覚えはないわ。他人様に迷惑かけて喜んでるのはクロだけよ」
「盗みだったら構わないのか」
「黙りなさいよ、話が違うわ」
「どう違う」
「黙りなさいと言ってるの。あたしまで軍人殺しにされたのよ。あんたのせいで。どう償ってくれるのかしらね」
「自業自得だ、親分の小娘」
「偏見なんて言わせないわよ。クロがなにより欲しがるものを、あたしは知ってる」
「だからどうした?」
「クロなんて悪魔と同じよ。害虫じゃない。そんな腐った人間が騒ぎを起こせば、悪意があったに決まってる」
「――ああ結構だ」
冷めきって油が白く固まった揚げ物をどけ、ウルザンドが大きく台に身を乗り出した。
「そんな外道の腐ったクロが、せめて一時おのれの邪心を満たそうと、何を好んで口にするのか知ってるか?」
答えようとしてセリアは声を詰まらせた。冷たいものが、じわりと背筋を降りていく。聞いたことがある。その時は笑うばかりで信じなかったが。
テーブルを見る。皿の料理はどれ一つとして、手をつけられていない。
「知っているようだな」
ウルザンドが口を開いた。薄明かりのなか常人よりも長い犬歯がぬらりと光る。薄暗がりのなか、その輝きが魂に飢えた刃物に見えた。
「血?」
「そう。人間の血だ。処女の血ならば文句はないが、妊婦の腹から引きずり出した胎児の生き血も悪くない。独特の深味があってな。
正直おれの好みじゃないが、貴様で両方試してやろうか?」
ふたたび全身を凍えるような震えが襲う。
でも負けたくない。深呼吸して、血が流れるほど拳を握り、セリアは男を睨み返した。
「やってみなさいよ」
「……おまえら、少しでいいから落ち着けや」
幽霊の声が火花を散らす視線の間に割って入った。
「すごく迷惑がられてるんだが、気にならないか? オレっちなんか、見られなくても背中かゆいぜ?」
「――――ふん」
二人は同時に顔を背けた。呼吸一つの差異もない。
幽霊が呆れた声でため息をつく。再び同時に鼻が鳴る。
沈黙が落ち、まあいいさ、と呟いたのはウルザンドだった。
「おい。何年か前だが、ここの代行領主が顧問に女を抱えただろう。シフォル=ネーバス、あるいは不死身のネーバスというらしいが、そいつ……」
ウルザンドは、少しだけ声をひそめた。
「そいつ、本当に不死身なのか?」
ランプの灯が大きく揺れる。
ウルザンドの吐いた言葉が、店の空気に波紋を起こした。
静かに静かに注がれる多数の視線を意識する。
無理もない。同盟の中央府から派遣されてきた代行領主レナール卿が病で臥せる直前に初めてギルゼリア市に姿をあらわし、半年足らずでこの古都を牛耳ってみせた女性の噂は、スラムにも流れてきている。
不死身の二つ名は、幾多の暗殺をことごとく切り抜けたことから付いたものらしい。
そのネーバスが『本当に不死身なのか?』と尋ねるクロが眼前にいる。
わずかに迷い、セリアは無難な答えを返した。
「あたしが知るわけないじゃない」
「そうだろうなと思ったさ」
ウルザンドは興味が失せたと肩をすくめた。
「払いはおれが持ってやる。さっさと消えろ」
「馬鹿にしないで!」
今の話が儲け話になるだろうかと相談している客どもを吹き飛ばす勢いで、セリアは強く机を叩いた。
「あたしが払ってあげるから、あんたこそ出てきなさいよ。自力で表に帰れるならね」
「誰から盗んだ金を使う気だ?」
答えず、腰に吊るした中身の詰まった重い小袋を開け、台に中身をぶちまける。
出てきたものは、銀貨でも銅貨でもなく、ただ黒いだけの石だった。
思考が止まる。
ウルザンドが聞こえよがしに喉を震わせた。小刻みに肩が揺れている。
「近頃は物騒でね、乱暴なスリに盗まれないよう気を遣ってる。いい手際だな、いつ盗られたか気付かなかったよ」
「最初にしがみつかれた時だ。にぶい男だな」
「見てたら教えろ」
ウルザンドが舌打ちをした。そして呆然とするセリアに目をむけ、意地悪く笑う。
「それと、こいつは迷惑料だ。謝礼でもいいが」
どこか得意気にウルザンドが出したものを見て、セリアは息を飲み込んだ。
小さな指輪。先生の形見。
結果とはいえ、あんな惨劇を引き起こしてまで取り返してきたはずの指輪が、なぜか男の手の中にある。
時間をかけて、ようやくセリアは理解した。
「白昼堂々、女性の胸に手を入れたのね。いい手際じゃない」
「好みじゃないがな」
「返しなさいよ!」
激昂するセリアの頭を片手で押さえ、遠ざける。そのままウルザンドは袖の奥から財布を出した。見たこともない、子供の手ほどの金貨を暗い厨房に投げる。
「親父、勘定。それと部屋だ。一週間はいる」
どこかから細い手が伸び、親父ではなく老女が金貨を受け取った。
肉食性の小動物、特に狐を思わせる細い顔を不機嫌にしかめると。
「三日だね。騒ぎを起こせば出てってもらうよ」
しわがれ声で老婆は言った。
『クロ』なんか見るのも嫌だと言わんばかりに背をむける。
「うちの旦那が生きてた頃は、こんな怪しい男は泊めなかったさ。ずいぶんあたしも耄碌したね。年食いすぎたよ。嫌だねぇ。それとセリア!」
不意に老婆の声が荒くなる。
「あんた、まだ盗みなんてやってんのかい! 辞めるって約束したの忘れたのかい。もう十回もだよ! 爺さんがあんたの親父の世話にならなきゃ、面倒なんか見ないよほんとに!」
「やめて!」
セリア自身にも意外に思える大声で老女に詰めよる。
「自分で生ませた子供を投げだしたような男とファンベル先生を一緒にしないで! いくらドリスでも――っ」
「お黙りよ! あたしゃあんたに叱られることはしてないからね!」
老女も負けずに声を張りあげる。セリアの声がしぼんで消える。
「ったく、女を残して自分ばっかり先に逝っちまうんだから、男なんて甲斐性なしだけなんだろうね。うちの旦那も、オーガストの旦那もさ!
おまけになにも残さないんだから腹立つよ。苦労するのが誰だと思ってんだい! おかげでセリアもこんなのになっちまったし。
ちょうどいい、セリア、あんた奉公にでるなり、花を売るなり身体を売るなり、まっとうな仕事するまで、そのしょぼくれた顔見せるんじゃないよ。判ったね」
言うだけ言って、小柄な老女は溶けこむように暗がりへ消えた。もう気配さえ感じ取れない。
静寂が息を吹き返す。
誰もセリアを見ていない。ささやき交わす客たちは確実な利益の上がる噂に戻り、当事者のウルザンドでさえ、まるでセリアがいないかのようにドリスに話しかけている。鬱陶しくて仕方なかった周囲の視線がなくなると、足元の崩れるような寂寥感が代わりに胸を責めたててくる。
「おい親父、おれの部屋は」
「あんた性格だけじゃなく、目と耳と頭とぜんぶ不自由かい。あたしの知ったことじゃないがね。二階のいちばん奥を使いな」
「二階だと?」
ウルザンドは天井を見た。風でがたがた揺れている、透けるほど薄い天井を。
「本当に鈍い男だね。地下の二階だよ」
階段のある横手から鍵が飛んできた。
黒光りする大きな鍵をウルザンドが顔面で受け取る様子を唇を噛みしめて眺めていたが、やおら背をむけ、目じりに涙をためたまま、無言で外へ駆けだした。
「こうするしか……な」
だから、あらぬ方を見てつぶやいたウルザンドの声もセリアの耳には届かなかったし、呆れたような幽霊のため息が聞き取れたはずもなかった。
†† † † † † † ††
「ネーバス殿はおられるか!」
築数百年を経たいまもなお衰えぬ白亜の淡い輝きが“絶叫海に咲く月下美人”と評されるギルゼリア城<ナイアス>を、煮えたぎる怒気をはらんだ男の声が震わせた。
文字通りナイアス上層。代行領主と側近たちや有力者たちの居住区、いわゆるところの沈黙の間。一面に敷きつめられた毛足の長い絨毯を踏み抜くように、夕日に映える銀の鎧が何度も廊下を往復している。
「誰かある! ネーバス殿は何処におられる! ネーバス殿!」
大きく張った肩当てに光るのは、黒地にたがいちがいの星が重なる、駐屯軍の統轄権を持つ正隊長の階級章だ。要所を守り、保護面積の広さのわりに邪魔にならない鎧には、見る者がみれば入念な手入れの裏に山ほどの実戦の跡が読み取れるだろう。
がしゃがしゃと鳴る重い鎧を平服のように着こなす男は、職責が想像させるより若い。二十歳を過ぎて何年か経ったばかりか。生真面目そうな、青年然とした顔は爽やかと表現としても差しつかえない。怒り狂ってさえいなければ。
やがて男は廊下を往復するのをやめて、茶塗りの壁を手甲で殴った。
「くそっ……あの女、どこに消えた!」
唐突に背後から返事があがる。
「イズリッド様。貴顕の方の汚い言葉は、時に御身を危うくしますわ」
……おそらくは、貴顕が危険と言いたいのだろう。
私はなにも聞かなかったのだ。絶対になにも聞いていないのだ。強く心に言い聞かせ、イズリッド=クレイアムは声の主へと振りむいた。
そこにたたずむ、緊迫感のない女の顔が、萎えた怒りに火をつける。
「これはネーバス殿。気づかずに申し訳ない。いずれの壁から涌いてでられた」
「悲しいですわ。イズリッド様のお呼びと聞いて、慌てて駆けつけましたのに」
今にも眠りかねないような静かな動作で扇を開き、ネーバスと呼ばれた女は口を隠した。長い黒髪がわずかに揺れる。腕より少し短いほどの大きな扇は、暮れなずむ夕日を浴びて錆色の鏡のようにきらめいている。鉄扇という武器の一種だ。
頭蓋骨でも一振りで粉砕できる凶器の先には、控えめな黄色のレースがひらめいている。その上に並ぶ眼は細く、その両端は可愛いと形容できる境界線の精一杯までたれ下がっている。
着ているのはドレス。それも貴族の令嬢が身につける類の豪華なものでなく、体の線がはっきり映る、胸元の大きく開いた気品より色気の香る代物だ。しかも服から分かる体は年頃以上に成熟している。だが顔立ちは清楚と言ってさしつかえない。
そんな際どい不均衡さに、ニコニコと、生きてるだけで幸せという緊張のない微笑みがつけば、大抵の男はだまされる。
不心得者には頭の足りない娼館育ち、いいように玩んでも後腐れなく逃げられる女と思う手合いもいることだろう。
だが幼少から家名より戦場に生きたイズリッドには、ネーバスの姿には凄味しか感じられない。
古くから権謀術数が跳梁闊歩するギルゼリアの中枢、中央府でも名を知られている名門名家がしのぎを削る権力の戦場に身体一つで現れて、数カ月で代行領主の補佐役にまでなった女だ。
それから数年、度重なる謀略や暗殺の刃をすり抜けて、なおこの街を牛耳っている。
不死身の渾名は伊達でないのだ。
「シフォル=ネーバス推参しました。どんな御用でございましょうか? レナール卿は変わらず伏せっておられますので、まだ面会は叶いませんが」
「もとより期待していない。貴殿が近くにいるのだからな」
露骨な皮肉に、ネーバスはまるで反応しなかった。
ネーバスが顧問になった翌日の朝、ギルゼリア代行領主レナールは病に倒れた。
城の誰もがネーバスの仕業であると疑っている。ネーバスも笑うばかりで否定していない。認めもしないが。
「恐れ入ります。レナール様が快復するまで、補佐役として微力の限りを尽くす所存です」
「白々しい」
そんな言葉を吐き捨てる。
あえて慇懃に振るまっているが、今さら態度をとりつくろう気は起こらなかった。
「イズリッド様、不用意な貴顕の言葉は――」
「もう聞いた。何度聞いても笑えないので黙っていただこう」
ネーバスの顔が哀しげに沈む。
もとの素材がいいだけに、演技だと判っていても、罪悪感のような何かを禁じきれない。
その感覚を絞め殺すのに、想像よりも手間取った。――なにかの魔法か?
「貴殿を探した用向きは、昼前の騒動のことだ」
「なにかございましたか?」
「報告は聞いてるだろう。南区で貴殿の手下と、どういうわけか私の部下たちが、今日の故買市に現われた賊に重症を負わされた。市民にも負傷者がでている」
「初耳ですわ」
「それでも構わん。もともと貴殿の提案で始まった故買市だ。なにが起きても、ネーバス殿の領分で対処するかぎり、関知するつもりはない」
「でしたら、どんな御用事が?」
「私の駐屯軍の部下たちだ。私の知らない命令で貴殿の配下に協力させられ、ほぼ全滅だ。再編成どころではない」
「連絡不行き届きですのね」
「侮辱は止めていただこう」
不意にイズリッドの目が鋭く光る。
「そんな鬆のある組織なら月に十度は壊滅している。私が城に詰めている間、私とまったく同じ容姿の人間が待機所に現われた。仕草や癖まで酷似していて、毎日顔を合わせている部下が騙された」
「そんな魔法みたいなことがありますの?」
「まさに魔法だ。だから――貴殿ならできるのではないか?」
「わたくしが?」
驚愕でネーバスの細い垂れ目が少しだけ開く。
「わたくしにそんな、クロのようなことができると?」
「ようなと言ったつもりはない。ネーバス殿の整えた舞台で起こした事件が成功か失敗か、私は知らない。判るのはただ、これだけで終わるはずがないということだけだ。
貴殿、このギルゼリアでなにを企てている?」
ネーバスは目を伏せた。
「幸せな街を。誰も死なずにすむ世界を。それだけですわ」
「言っていろ。まあいい、私の用事は愚痴だけだ」
「お待ちください、イズリッド様」
きびすを返した鎧の背中を小さな声が呼び止めた。
「怪我人がたくさん出たとおっしゃいましたが……死んだ方はおられますの?」
一応は慎ましい態度を装ってネーバスが尋ねてくる。無論とりあうつもりはなかった。
「貴殿には残念ながら、なんとか死人は出なかった。危なかったのが数人いたが、直前で気絶していた軍の魔導士が息を吹き返したからな」
「なによりですわ。――気絶? 軍属の、白魔導士が?」
「ああ。賊から一発食わされて、後から出てきた野良魔導士に腕を斬られてな。後を継いで間もないとはいえ、情けない」
「その……よほど、おニブい方ですの?」
「魔導士を人間と比較するのが間違いだ」
「先代は立派な方でしたのに」
「ラークレイ殿か。貴殿と面会された直後に倒れられたな」
「…………」
前触れもなくネーバスが黙る。肩ごしに盗み見ると、唇を噛んで下げた扇をじっと見ていた。こちらの視線に気がつくと、弾かれたように緊張感のない笑顔に戻る。
「それで、賊はどういった方で?」
「先にも言ったが、魔導士だ。妙に肌白い、二つの声を持つ男と聞いた。別に女もいたようだ。知り合いらしい……どうされた?」
イズリッドが問いかけたのは、ネーバスが突如、鉄扇を取り落としたからだ。
「二つの声の魔導士――幽霊。しかも白くて……」
うわごとを語っている目は空中を泳ぎ、血色のいい口許は、信じがたいが、感情を抑えきれずに揺れている。
その様は、本当に年相応の女性に見えた。手酷く裏切られたか、恋に破れたばかりのような。
失敗すれば消される覚悟で、イズリッドは切り出した。
「貴殿になにか、その魔導士について心当たりはないのかな」
ネーバスの顔に正気が戻る。あるいは瘴気が。
「いやですわイズリッド様。どうしてわたくしが」
「その魔導士を誘き寄せるために、こんな騒ぎを仕組んだのかと聞いている」
「本当にそう思われますの?」
「その魔導士は貴殿の身内か? あるいはなにか因縁が? 答えてもらおう」
ネーバスの右腕が空中に線を描く。止まった時には、なぜか廊下に落ちた扇が手に戻っている。なにが起きたのか、イズリッドには見切れなかった。
「存じませんわ、クロなんて」
真正面から吹きつけてきた剣呑な気にあらがって、イズリッドは問いを続ける。
「ならば、どうして貴殿はその魔導士がクロと知っている?」
「……?」
「あえて最初から『魔導士』か『野良魔導士』としか呼ばなかったが」
「決まってますわ。昔から黒魔導士でしょう? 悪を成すのは」
「ほう?」
ここまでのようだ。片眉を上げて余裕の態度を見せながら、内心で唇を噛んだ。
しかし思わぬ収穫があった。
そのクロが、あるいは突破点となる。このギルゼリアをクロの魔女から取り戻す、あるいはネーバスを追放するための。
「よかろう」イズリッドはネーバスを見下ろした。
「なにかしら流れのクロや女について判明したらお知らせしよう。その情報が貴殿の害にならねばいいが」
「及ばずながら、お手伝いを」
ネーバスの声にはすでに、いつもの凄味が蘇っていた。
「無辜の住民とギルゼリアのため、互いに力を尽くしましょう」
「今度こそ、こちらの用事はそれだけだ。手間を取らせた」
「お待ち下さい」
足早に背を向けたイズリッドをネーバスが呼び止めた。
「まだなにか?」
手甲に隠した小剣に手をかけて、顔だけで振りかえる。
「老婆心ながら、二つほどご忠告を。素人が珍しがって知らない世界に首を差しこむと、時にそのまま抜けなくなって、切り落としてと泣き叫ぶことがあるそうですよ」
「覚えておこう。もう一つは?」
ネーバスが扇を閉じた。そうなると凶器である。そもそもどうせ魔具なのだ。
生唾を飲む。小剣の柄を握る手に力が入る。
手品のように鉄扇を服に隠すと、ネーバスは頬を膨らませ、上目づかいに男を睨んだ。
「たまには仕事以外のお話もしてくださらないと、わたくし、拗ねてしまいますわよ?」
「言ってろこのアマ」
ぐき、と革の小柄を滑った小指が、外側に折れ曲がるように捻挫する。痛みで涙の浮いた目を隠すように顔を背けて、イズリッドは吐き捨てた。
「わからない方々ですわ」
会談のような罵り合いから十分後、ネーバスは同じ場所から、“ナイアス”に余るほどある裏庭の一つを見下ろしていた。
そこでは葦毛の馬にまたがった下城途中のイズリッドが、部下らしき男たちと話し合っている。
常人ならば豆粒にしか見えない距離だが、ネーバスの目は彼らの挙動を細部まで捕らえていた。
理解しがたい人種というのが、ネーバスの軍人に対する感想である。
鍛練で肉体をすり減らし、命じられるまま危地にとびこみ、たった数十年の天寿を進んで縮めようとする。
それは何のためかと聞けば、答えはいつも『故郷と家族を守るため』。そのくせ魔法を――極めて効率の悪い一部を除いて――学ぶどころか利用しようとさえしない。
戦いのための組織は、組織されたが最後、目的もなくどこまでも肥大していく。勇敢を謳いながらも、より強大な敵を作ると承知しながら戦力を形にするのは、臆病の一つの姿ではないか。
そんな度しがたい人間のうちの三人が外へ駆けていく。一人は騎馬で、残る二人は自分の足で。
その先はギリゼリアの街。
そこに、あいつらがいる。
「いつまでなのでしょう」
感情が抑えきれない。常駐してる若化の魔法に影響するほどに。
「ミクジースの子と、ザイドリック……いつまでわたくしを狩りたてるのかしら」
鉄扇で手のひらを打つ。
同量の金より重い合金の魔具が、水風船を潰したような湿音を立てる。
ある事情から、ギルゼリアには長くても二十年ごとに立ち寄っている。今回のように人前に出て長く逗留する時もあれば、三日で離れることもある。
そして、あの幽霊もそれを知っている。
それでも来ずにいられない理由が、ギルゼリアにはある。
「あと何万年も続くのかしら。こんな生き方が」
どれだけネーバスが普通の生活を願っても、必ず二人が現われてぶちこわしていく。
「もう、いい加減にしさらせな」
異様な殺気が吹き抜けた。
城内の気温が下がる。花瓶の花が枯れ、ネズミや虫が卒倒し、壁に見えない亀裂が走る。愛馬の鞍から、白い鎧が姿勢を崩して転がり落ちる。
目を回すイズリッドを見て笑いもせずに、ネーバスは開いた扇で風を起こした。
一瞬でドレス姿がかき消える。
空気が濁り、唸りのような風音が、人気の消えた廊下に響いた。
†† † † † † † ††
ただ、暗黒と静寂だけが漂っている。
そう広くはない。
せいぜい長さは二十メートル、高さでは大人が頭をこする程度で、横幅は手を広げると両方の壁に突き当たる。壁は石のような手触りをしている。人肌くらいの生温かさがなければであるが。
地上にのしかかる夜の闇とは異質な暗さが、周辺を埋めつくしていた。
細長い空間の最奥部には、真横から卵の色の光線が数条ばかり差しこんでいる。
二階のいちばん奥の部屋。
目を閉じて、立ちこめる埃と黴を空気ごと鼻から肺に収めると、セリアは腰から短刀を抜いた。
軽い反り身の、刃こぼれのない刀身が暗闇の中で銀色に光る。
濁々と跳ね回る心臓をなだめるために、輝きを凝視しながら深い呼吸を繰り返す。
やがて短刀を逆手に握ると、音のしないよう重心を低く落として歩き始めた。
あの男のいる、二階のいちばん奥の部屋へ。
――黙ってられない。
人生の黄金期。セリアに親はいなかった。生まれた時から、打ち捨てられた教会を再利用した孤児院にいた。
孤児院をたった一人で支えていたのは、オーガスト=ファンベルという男性だった。三十代の半ばのわりには老けた容貌をしていたが、いつも立派に振る舞っていた。父親と呼ばれることを嫌っていたため、セリアを始め大概の子は『先生』と呼んでいた。
いちおう自給はしていたが、時によっては二桁を超える育ち盛りの食べ盛り、いたずら盛りを抱えていては自足など到底できず、ことあるごとに怪我人や悪霊のでた家に魔導士として呼ばれていった。
年長組の一員として、セリアも子供の世話や仕事に忙しい毎日だった。
忙しかった。だが日々の世界は手応えと生気にあふれ、輝いていた。
いつごろだろうか。先生が『クロ』であるという噂が広まりだしたのは。
最初は誰も気にしなかった。孤児院の中では、誰も。
だが確実に仕事は減った。貧困で家族の絆が張りつめていった。
数カ月が過ぎて、先生は役人に連れて行かれた。「すぐ帰るから」と約束し、返ってきたのは死亡の通告だけだった。
役人は先生が死んだと告げ、この孤児院の財産はすべからく代行領主に没収されると楽しげに笑った。邪魔な子供を畜舎に押しこめ、念入りに時間をかけて家捜しをした。没収品の金額に応じて担当した役人の懐が温まると知ったのは後の話だ。役人たちは家財はおろか、傷痕で身長をはかった壁まで持ち出た。最後には腐った床さえ残らなかった。家を失って、仮の家族はバラバラになった。かりそめのものであっても、絆ごと。
その日から3年が経過した今日。
先生の遺品が故買市にあると知ったのは偶然だった。
思い出の品で、消え去った過去を取り戻せるとは思っていない。
しかし先生の形見の品が、本当の重罪人が残した物と並べられるのは耐えられなかった。
雑多な品物が並べられたなかで、見覚えのあったのは飾り気のない指輪だけ。
なんとか買い戻したかったが、先生の指輪はなぜか高かった。広い会場で一つだけ、本物の貴金属のような値がついていた。
だから隙を見て盗み出し、逃げる途中で本物のクロに奪われた。
奪い取られて、引き下がったのだ。
――指輪だけでも返してもらう。
セリアは壁に背中をつけて、部屋の様子をうかがってみた。
立て付けの悪い扉から、ランプの灯が逃げ出している。まだ眠ってはない。
勢いだけでここまで来たが、正直なところ、あの黒魔導士に立ち向かえるとは思えない。力の代わりになる作戦も浮かばない。見えないし触れもしない幽霊も同様である。寝込みを襲う。できそうなのは、それだけだ。
息を詰めたまま数分が経つ。
ウルザンドはまだ眠っていない。
皮巻きの柄を握った右腕が強張ってきた。
本番で取り落としては元も子もない。少し力を抜こうとした時、セリアは体の異変に気付いた。
ぴくりとも動けないのだ。
金縛りにでもあったかのように、身体がまったく言うことを聞いてくれない。驚愕の声を上げるにも口が開かないほどだ。
(よう嬢ちゃん。いい夜だな)
頭の中で、あの幽霊の声がした。
(セリアだったか? こんな夜更けに男の部屋で、なにする気だね)
――あんた、幽霊のくせにうるさいわ。
(自己紹介は終わってるんだ。名前で呼べよ)
――うるさいって言ってるの。
(オレっちが? 同意しかねる。声なんか出してない)
――動けないのはあんたの仕業?
(否定しかねる。明白だろが)
――放しなさいよ。
(質問に答えたらな)
――ニブい幽霊ね。明白でしょうが。
(だから止めたんだけどな。幽霊言うな)
――幽霊のくせに生意気なのよ。幽霊のくせに偉そうなのよ。
(……とにかく落ち着け。ウルザンドに居るのバレるぞ)
――どういうことよ。
(オレっち、部屋から追い出されてな。いい時に来た。嬢ちゃんも一緒にのぞこうぜ)
――そんな趣味ない!
(生きてるんだから細かいことを気にするな)
――関係ないでしょ!? ちょっと、やめなさいってば!
所有者の意志を省みずセリアの体は壁から離れ、扉の裂け目に頬を押しつける。
客室は小ぎれいに片づいていて、意外にも必要と思われる物は一揃いあり、にわかに信じられないが、頻繁に掃除もしてあるようだった。
それなりに長い交流はあるが、客室に目を通すのは初めてだった。
狐のような顔の老女を思い出す。ここの主人のドリス婆さん。
つっけんどんで人好きしない性格であるが、優しい部分も持っている。誰が泊まるか判らない部屋を毎日欠かさず清める姿は、なぜか彼女に似合う気がした。昼間、そのドリス婆さんと……嫌なことを思い出し、セリアは思考を打ち切った。
強制されるまでもなくウルザンドを見る。
出会った時の服装のままベッドに腰掛け、近くに寄せた円台を真剣に注視していた。
その円台に置いてある物は……先生の指輪。
幽霊の束縛が一瞬破れ、小さな声が口から洩れた。
ウルザンドの赤い目が揺れる。
――バカ!
(馬鹿!)
二人は同時に罵倒しあった。
「シドックか」
ウルザンドが視線をそのまま問いかける。バレてはいない。
「――ああ」
「離れてろと言ってるだろうが。こいつはおれが始末する」
「こんなので無理はするなよ?」
――こんなの?
「当然だ。そもそも、どうしておれが――」
台詞の途中で異変が起きた。
突然、形見の指輪が光を放った。
三人の視線を浴びつつ、指輪から流れる光が白から赤に、赤から紫、そして黒へと変化して――黒い光?――逆に指輪に吸いこまれていく。
生木の裂ける音がして、金属製の台座に無数のひび割れが走る。
「来るぞ! 下がれ!」
声と同時に指輪が砕ける。
破片の中から出てきたものは、セリアの理解を超えていた。
印象として近いのは、黒く輝くもやである。もやではあるが、輪郭は大柄な人間に見える。そして全身から、目には見えない、なにか気分の悪い空気を放出している。
(悪霊ってやつだ)
シドックが声を出さずにセリアに言った。
(非業の死を遂げた魂をいくつか集めて、自我の境界をぶっ壊してから溶け合わせると、大体あんなのができる。存在形が近いぶん、オレっちのほうがあの手合いには弱くてね)
理解はできた。おぼろげながら、理解はできた。
でも、なぜそんなものが先生に指輪の中に?
「ミクジースの末裔ウルザンドが、貴様の苦しみ引き受けてやる!」
「………………………!」
ウルザンドに叫びに応え、悪霊が咆哮をあげる。
低すぎてなんと言ったか聞こえなかったが、空気の震えは伝わってきた。
同時に短い足を蹴上げる。自身の体積を把握しきれていないのか、足はウルザンドに遠く届かず、弾みでかすめた小テーブルを粉々に舞い上げた。かなりの力があるらしい。
関節と無縁の動きで足を戻すと、悪霊は腕を振り上げた。その腕が下ろされる前に、つぃと顔を寄せ、悪霊の耳もとで唇を動かした。
その途端、まるで時間が凍ったように、悪霊の動きが止まった。
ウルザンドはさらにささやく。
セリアの位置では聞き取れないが、歌めいた韻律で、一言一言を噛みしめるように言葉を紡いでいるようだ。
不意に悪霊の放つ嫌な空気の濃度が落ちた。
黒い人影が、みるみるうちに薄くなっていく。
(魂に植えつけられた苦しみと強迫観念を払ってるのさ)
シドックが解説を入れている間に、人間ならば顔の部分に、表情めいた陰影が浮き上がってきた。
恨みの念に固まったそれが、しだいに和らぎ、ほぐされて……ついに微笑んだ。
三人が緊張を解く。
終わった。と思った途端、嫌な悪寒が背筋を抜けた。
「ウル! まだだ!」
取り憑いたままのシドックが同じ異変を感じ取っていた。
断末魔の悲鳴とともに、ほぼ透明にまでなっていたもやが爆発的に四散した。
「くだらんことを!」
ウルザンドも惚けてはいない。両手を使って印を組み、半球状の緑の膜をめぐらせる。
衝撃が収まった時、膝立ちになるウルザンドの眼前に、どす黒い獣のような生き物がいた。
先程のようなもやでなく、肉体を持つ犬じみた獣。
質量感にあふれる四本の足が床を踏みしめている。
皺のよる鼻面は苦しみではなく、悪意のこもった残虐な喜びに彩られていた。
――なにあれはっ!?
セリアは我を失った。
(落ち着け!)
――なんなのあれは! もう帰らせてよっ?
(どこに帰る気だ。あいつを信じろ)
本物の獣に勝るスピードで、前肢の鉤爪がウルザンドの喉笛を狙う。
今度は反応しきれない。ウルザンドは手を突っ張って一撃を受け止めようとするが、防ぎきれない。右腕が裂けて血が吹き上がる。
さらに獣が斬りかかる。反撃できぬまま、ウルザンドは傷ついた腕で急所を狙う鋼鉄のような爪の連撃から守る。
返り血を目に浴びて、ほんのわずかだけ獣がひるんだ。血まみれの拳をふるい、獣の鼻面をしたたかに打った。
獣が二本の後ろ肢だけで、のけぞるように後方へ飛ぶ。
生じた間合いに、ウルザンドが唇をつり上げた。
「赤刃破!」
漂う彼の血液が刃のついた鞭に変じて、黒光りする獣を襲った。
「…………!」
さらに獣が背後に逃げる。必死に四肢と身体をよじる。
だが、かわせなかった。
明らかに街で見たより鋭い初撃が胴を斬りとばし、続く刃が獣の頭を二つに割った。刻まれることわずか数秒、黒い獣は崩れて消えた。
とりついたシドックから安堵の息が伝わってくる。
――なにが起きたのよ。
(混ぜ合わせた魂の中に、獣化の呪いを入れてやがったな。油断してたよ)
――あの化物は?
(説明したろ?)
――なんで先生の指輪の中にあんなのがいたか聞いてるの。
(偽物だからな)
――ニセモノ?
(どこかの魔導士が、自分のこしらえた悪霊を、セリア嬢ちゃんの知ってる指輪と同じ形に変えて時間を止めたのさ。いつでも封印を解けるよう細工もしてある)
――なんで判るの。
(ウルザンドも魔導士だ。オレっちだって心得はある。幽霊が魔法なんか使ったら自滅だけどな)
――そんなのをあたしから盗んだわけね。
(そんなのだからだ)
――え?
幽霊の言葉を理解するより早く、セリアは眼前の光景に我を失った。
見るとはなしに覗いていた部屋で、しばらく前からウルザンドは部屋の惨状を眺め、困ったように目頭を揉んでいた。深々と裂かれた腕を痛がりもせずに。
やがて、諦めたように両眼を閉ざすと、だらだらと血を垂れ流す右腕に手を当てる。
治療の魔法を使っているのだろう。出血量が減っていく。
しかし遅い。先生の治癒魔法に慣れているセリアには、もしかして手遅れではと勘繰りたくなるスピードである。
文句のつけようがない重症に、終始ウルザンドは無表情を貫いていた。
そして服を脱ぎだした。
出てきた肌は、本当に白い。
(言いづらいんだが、出歯亀は関心できんぜ)
横からの声を黙殺するうち、上半身だけ裸になると、自分の体を触り始めた。
何をするのか、セリアは視線を外せなくなる。
(なあ、このへんで止めといてくれや)
――なんで今さら?
(頼むから。いよいよとなれば力ずくでも帰ってもらうぜ?)
無言の会話をしているうちに、ウルザンドは荷物入れの袋からナイフを出して、小指の側に刀身をむけて握った。
そして左手で自分の身体をぺたぺたと触り始める。まずは肩。肉づきの薄い胸をさすって脇腹に落ち、左側の腰で止まった。
何回か押して、手をどける。そして、まったくなんの躊躇もせずに。
ナイフを突き立てた。
――!
さらに言葉を失ったセリアの前で、ナイフを伝って血が流れていく。
たっぷり数秒待ってから刃を身体から引き抜いて、傷に手を当てて治癒をほどこす。
完全に傷口が塞がってから、またウルザンドは自分の身体をまさぐり始めた。
今度は膝で手が止まる。再びナイフを振り上げて――――
――ちょっと、やめてよ!
セリアは心で悲鳴を上げた。
――痛くないの!?
(痛くないんだよ)
シドックが沈んだ声をだした。
(触感が弱い。特に痛覚はないに等しい。無痛症とかいうやつだ)
二人の前で、ウルザンドはさらに自分を傷つけていく。腕や肘には難儀している様子だが、苦しがったりはしない。
黙々と作業をこなす表情が、異様さを際立たせている。
――でもなんで自分の身体を……!
(血が弱いんだ)
――弱いってなによ。
(乱暴な言いざまなのは承知の上だ。医者じゃないから詳しくは知らん。とにかく、血が固まらない。軽い傷なら押さえれば傷口は塞がるし、重傷だってそのうち治る。たまに勘違いするやつがいるが、切ったから血がどばどばと噴き出すなんてこともない。さっきのは傷が深かっただけだ。だが、内出血はどうにもならん。体に残った血を出さないと、関節や臓器が傷む。だから自分で外に出すのさ。痛みがないから気付くのに時間がかかる。だからといって見落とすと笑えないことになる。そういえば今日、無遠慮に肘鉄入れた女がいたな。あとは……)
――まだあるの?
(いくらでも。有名なので敏感肌に痛風や金属かぶれ。水虫にインキンなんてのもある)
――クロだから?
(あん?)
――あいつは黒魔導士だから、罰があたってそんな身体になったのかって聞いてるの。
(少しは魔法を知ってるのかと思ったが、嬢ちゃんもただの素人か)
ため息に混じっていたのは失望だった。
(苦痛はそれがそのまま力だ。白魔導士は自分の苦痛や集中の苦しみで魔法を使い、黒魔導士は他人の痛みを力に変える。それだけだ。あとは普通の人間だ)
――だったら、自分で治せばいいじゃない。他人を苦しめて。
(偏見持ちか。素人よりも扱いづらいな)
――なにが偏見よ。あたしの先生はクロの濡れ衣で殺されたし、十年前に北地区の井戸へはじから毒を入れたのだって見習いのクロがやったことだし、東の海に嵐を起こして船乗りを苦しめたのも、結局クロの仕業だったわ。百年も前に、山に籠もって手下に街を襲わせたのは、あいつと同じ死人みたいに白い顔したクロだったって話だわ。
(……あったな、そんなことも。最後の奴はウルザンドの八代前だ。ブレイ……ブレイ=エスカナ=ミクジース。有志市民の代表とやらに山賊退治を頼まれて、事が終わると報酬代わりに毒入りの酒をもらった)
――幽霊が見てきたような嘘つかないで。迷惑なのよ。
(見てきたんだよ、オレっちは。素人が知ってるような嘘つくな)
――…………
(ついでに言っとこう。痛みがないのも血が止まらないのも、そう珍しい病気じゃないさ。これだけの規模の都市なら、まず何人かいるはずだ)
――あたしは知らないわ。
(たまたま機会がないだけだ。病気なら、魔導士の腕がよければ大概のやつは治せるさ。ウルザンドだって何人か治してる)
――なら。
(もう少しだけ黙ってろ。あいつのアレは、病気じゃないんだよ)
「おい」
突然の肉声に、セリアはびくりと身をすくませた。
「寝る。後はまかせた」
「あいよ」
すでに服を着直していたウルザンドはベッドの上に倒れこんでいた。
びくついた肩の力を抜くのに、セリアはかなり苦労した。
――病気じゃなければ何なのよ。
(勘弁しろよ。もうオレっちが話せる範囲は超えちまってる)
――信用できないわ。
(勝手にしな)
――信じられない。
(嬢ちゃんの自由だ)
――本当に信用できない。だったら……
(どうした?)
――だったら……だったらなんで、あたしにあんな態度取ったの。指輪だって、財布だって……
(不器用なんだよ。察してやってくれ)
――だからって、小僧はないじゃない!
(……それで依怙地になってたのかよ。あいつ、目にも問題あるからな。間違えただけで、他意はなかったさ)
――確かあんたも『そうらしい』とか言ったわね。
(まぎらわしいのが悪いんだ)
――なら、血を飲むって言ったのも?
(……………………)
――なんで黙るのよ。
(聞かないほうがいいからさ。機会があったら話してやるよ)
――帰れってこと?
(狐みたいな婆さんからの伝言だ。見回れないから、五階より下の部屋には来るなとさ)
――忘れてた。ねえシドッチ。
(シドッチと呼ぶな。オレっちはシドックだ)
――どうでもいいわよ。
(いいわけないだろ)
――あんた、力ずくでも帰らせるってのはどうしたのよ。
(……そうだった。嬢ちゃん、近い身内に魔導士はいないか?)
――知らないわ。孤児院生まれよ。
(そうか……)
――それがどうしたの?
(オレっちの力が効かない。強力な魔具が、オレっちの力を妨げてやがる)
――爆発した指輪じゃなくて?
(そんなのじゃない。強力な上に、信じられんが、白でも黒でもない魔具だ)
――持ってないわよ?
(持ってるはずだ。間違いなくな)
――でも、あんたの魔法、ちゃんと効いてるじゃない。動けなかったし。
(最初の三分間だけだ。とっくに解けてる)
「え?」
自分でも間抜けに思える声がでた。
手をわきわきと動かしてみる――確かに動く。
「お前さん、絶対に魔具を身につけてるはずだ。それと、魔具ってやつは因縁がないと使えない。よく考えてみろ」
考えてみるより早く、大きなあくびが口をついてでた。
「――また今度までにな」シドックの忍び笑いが空気を揺らす。
「うん」
急激な眠気に襲われ、セリアは素直にうなずいた。
「最後に一つだけ教えて」
「なんだ?」
「魂ってなんなの」
「知らないか?」
「名前は知ってるけど、実感ないもの」
「自分自身さ」
幽霊の答えは簡潔だった。
「意志。思考。判断。記憶。脳を媒介にそういうものを感じる、自分自身だ。神経や血を経由して身体の隅々に宿り、同時にそれ自体が一つでもある。魂が細胞に活力を与え、肉体が魂の歯車を動かしているネジを巻く。片方が機能を果たせなくなれば、ともに衰えて消える。それが老いであり、死というやつだ」
なにも見えない空間から、面白がるような気配が伝わってくる。
「どうしてそんなことを聞く?」
「死んだ人にも、また会えるかなと思ったの」
「肉体を失った魂は半日も保たずに拡散して消える。ウルザンドくらい業の使える魔法使いなら乖離した瞬間を留めるくらいは可能だが、強力な魔具の補助でもなければ三日が限度だ。それも無理やり生かされる魂に、ひどい負担をかけることになる。すぐにでも気が狂うくらいな。悪霊どもの表情は見ただろ。諦めろ」
「でも――」
「ついでに言えば、死後の世界なんてのもただの妄想だ。幽霊なんか、どこにもいない。オレっちが特別なんだ」
最期の言葉で、セリアは深々とうなだれた。
「帰って寝るわ」
「下の階段はそっちじゃないぜ?」
「家に戻るの。ドリス婆さんに謝っといて」
背を向けたまま片手を上げる。
「おい、なにか落としたぞ」
セリアは立ち止まり、足元に落ちた小瓶を眺める……ふりをした。
「傷薬。よく効くんだけど、あたしのじゃないわ」
「これだけ暗くて見えるのか?」
見えなかったが見えると言った。
「シドッチおやすみ」
「シドッチじゃねえ」
文句は忘れず、シドックはふらふらと歩み去る小さな背中を見送った。
「オレっちの周りには、なんで素直じゃないやつばかり集まるんかね」
やがてセリアが見えなくなると、軽く精神を集中させて、小瓶を手元に引き寄せた。
念動力というもので、大した力はないものの、素のままでは実体物に触れない幽体のシドックは重宝している。
瓶を見る。かなり古いもので、存分に使いこまれた跡がある。
眺めるうちに、重大なことに気付いた。
「おい……どう言って渡せばいいんだ?」
この暗闇に、シドックの声を聞く者はいない。
また終わらない夜が始まる。生身の人間は寝るが、不死の幽霊は眠らない。
することはないが、話し相手もいなければ、ミクジースを置いて一人で遠くに行くわけにもいかない。
確かにそれは退屈である。退屈であるが、そう感じることのできる魂があることを大切に思うべきだと、常人に比べると長すぎる生涯の中で、シドックはすでに知っている。
しかし今夜は、普段より退屈な夜になりそうだった。