0 ギルゼリア <灯の檻>
以前執筆した小説です。
現代の感覚だと古臭く感じること、また文体が拙く感じることがあると思われますがご高覧いただけると幸いです。
苦痛は力であると知れ。
魔法に限った話ではない。
痛みがなくば生は保てぬ。
たとえ肉体は永らえるにしろ、力がなくば魂は無限に腐敗し続ける。
苦しみこそが唯一、魂の活力となるを知れ。
ようするに死ぬまで我慢だ。
──白魔導士、故ラークレイから生涯唯一の弟子へ
世界の南東、絶叫海と軒をならべる半島に、ギルゼリアという古都がある。
文明の黎明期から湾岸都市同盟に名を連ねてきた重鎮で、現在も五万を超える人口と、質・量ともに並ぶもののない船団を誇る、既知世界有数の大都市である。
陸路の客を迎えるための北区ノルス。
街の外まで続く湿地に、地方で一、二を争う大聖堂と教会領を擁した西部ゼムシス。
海に拡がる貿易と富、夢と冒険、欺瞞と挫折の中心地たる東区イテス。
そして天運も才覚もなく、他の三区から流されてきた者たちが破れた夢を縫いなおす人生の墓地、南区ボレアス。
壁で四区にわかたれた街なみの中心では、同盟から信任を受けた代行領主と、同じく派遣されてきた、あるいは在郷の有力家から呼集した側近が政治を動かす白亜の古城“ナイアス”が内外に威容を誇り、街の地下では広大にして不可解な太古の水道が寄生されるまま黙々と、街の営みに手を貸している。
雲の裂け目から差しこむ光が、朝の終わりを告げていた。
今日も南区ボレアスの古びた巨大な門の前には、行商人や荷車に野菜を積んだ農民たちが、朝早くから長蛇の列をなしている。
とりとめのない、だが一様に褪せた皮膚を持つ蛇の舌先で、軽装の兵士が二人、旅人たちから名前と滞在期間を聞き取り、もっとも重要な仕事として、些少の税を徴収している。
「ここがギルゼリアか」
「ん?」
若い兵士が、独り言のような、不審な声を聞きつけた。
周囲を見渡すがそれらしい人影はない。疲労か二日酔いだろうと判断した時、蛇なら右目にあたるあたりで罵声が上がった。
「さっさとしてくれよ!」
粗末な身なりの少年が列を離れて詰めよってくる。
「早くしないと腐っちまうんだ。あんたら弁償してくれるのかっ?」
両手から下げた籐の篭には、生血のしたたる大ぶりの牛肉塊があった。
「はじめて見る顔だな」
年嵩の兵士が平然と、近寄ってくる少年の首をつかんで引きよせた。
血色の悪い、ひびわれた唇を、苦しげに手足を振りまわす少年の耳元に近づける。
「あまり得体のしれないやつは、街に入れるわけにはいかんのだ。もしやおまえ、クロじゃあるまいな?」
その一言に、日焼けした少年の肌が青ざめた。
話を聞いていた者たちも、気まずい思いで目を伏せる。
少年は、どこか近隣の農園で飼われる奴隷だ。肩裏の焼き印がそれを保障している。
生き別れたのか、捨てられたのか。幼いうちに親から離れ、今の主人に買われたのだろう。そして恐らく真面目に働き、ずっと真面目に働いて、いくばくかの信用を得て、遣いの仕事を許されるまでになったのだろう。
そして嬉しさのあまり、少し調子に乗りすぎたのだ。
居合わせた全員が、我がことのように想像できた。珍しい話ではないから。
それが仕事にしくじって、あまつさえクロの疑いを受けて追い返されては──彼の主人がどんな行動にでるか、あえて想像する者はいなかった。
ただ、転売の際に値が下がるような真似は慎むだろう。
『クロ』絡みならば、それも保証の限りでないが。
這いつくばって、血がにじむほど額を地面にすりつける少年を立ち上がらせて、若い兵士は肩を叩いて励ました。涙を軽くぬぐってやると、列に戻るよう促した。少年は元いた右目に戻ろうとしたが、誰も順番を譲らなかったので、尻尾の先まで肩を落として歩いていった。
若い兵士は目線で同僚に詫び、ふたたび自分の仕事に戻った。その時にはもう不審な声を聞きつけたことも忘れ、響かないよう低く押さえた足音が、門から街に入ったことにも気づかなかった。
「汚れた街だな」
南区の入口近く、人気の絶えた暗い裏路地で、兵士が聞きつけたものと同じ声がする。
のら犬が耳をそばだて、首をのばして見回すが、彼女の他に生きものはいない。
「南はな。東はもっと行儀が悪い。西と北側はきれいなもんだ」
先とは別の声が答えた。やはり周囲に人影はない。
「詳しいな」
小犬はしばらく鼻を鳴らして人影を探っていたが、そのうちに気味悪そうに尻尾をたらして立ち去った。
声だけの会話は続く。
「オレっちは何回も来てる。どういうわけか、ヤツはこの街が特にお気に入りでな」
最初の声が、まるで緊張したように、小さく息を飲みこんだ。
「いるかもしれないんだな、ネーバスが」
自分をオレっちと呼ぶ声が、無言で肯定の意を伝えてくる。
その時、街の喧騒が耳に届いた。
「そいつ────!」
「──かっぱらいどもの親玉の────」
聞くとはなしに耳をすますと、捕り物らしい。泥棒がでたようだ。
「ほう」
足音が、引かれるように騒ぎのほうに歩きだす。
「……おいウルザンド、関わるなよ」
「心配するな。見物するだけだ」
「オレっちたちのやるべきことを忘れるな。無駄に割く時間はない……おまえには」
「わかってるさ」
苦い制止の声も聞かずに、透明な足音が表通りに近づいていく。
「どのみち、誰にも見えないんだ。関わりようがないだろう?」
言い訳めいた独白に、応える者はいなかった。