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5割の力で生きる

作者: イカルガ

このエッセイも5割くらいの力で書きました

 僕は全力の5割の力で生きている。つまり「そんなに頑張らない、努力はそこそこ、たまには反省する」程度の姿勢を保っている。


 なぜこのようになったかというと、世の中頑張ってもそんなに幸せになれないと気づいてしまったからである。


 僕が以前エッセイに書いたのだが、小学生の頃から頑張って勉強したって結局は就職に役立つ程度の結果しか得られないのだ。あくまでネットで聞きかじった知識だけど、大企業に就職したって、そんなにいいことは起きないらしい。上のポストは詰まっていて出世の望みは薄いし、平均年収の高い企業も、高年齢層の社員の年収が高いから平均値が高いだけだ。


 現代の若者は、高度な情報化社会のせいで、皆同じ情報を知っている。その中から何か抜きん出た能力を持って目立つ人が出たら、一瞬でその情報が共有され、袋叩きにあう。この「目立つ人」はいい意味でも悪い意味でも関係ない。政治家が汚職をした、芸能人が犯罪を犯した、一般の学生がネット上にいたずら投稿をした、若くして社長になった人、動画サイトに動画を投稿するだけで大金を稼いでいる人……、とにかく何でもいい、何か「一般市民たる私たち」と違う人が現れると「善良な市民たる私たち」は正義の名の下に、徹底的に叩き潰すのである。


 結果、芸能人だけでなく、一般市民の私たちも、いつ何時叩かれるか分かったものではないから、迂闊な行動は取れなくなった。「頑張って成功すること」は言ってしまえば「出過ぎた杭」になることだ。それに頑張ること=チャレンジすることは常に失敗と隣り合わせで、失敗しても失敗したで「出過ぎた杭」になってしまう。


 成功しても叩かれ、失敗しても叩かれ、成功したところで見返りが少ない、このような息苦しさを、僕は現代社会に感じる。みんな突出した何かを持たないように努めて集団に属し続けようとしている。


 しかし世の中はどうだろう? 不思議なことに、私たち一人一人に「個性」を高飛車に要求してくるのだ。


 これは僕が就活をする上で疑問に思った点の一つだ。企業は大企業も中小も、どこも学生に「個性」を求めていた。「他人と比べて、あなたの強みはなに?」「グローバルに通用する学生を〜」「圧倒的個性を求めています!」などなど言いたい放題だった。決して「個性なんていらないよ。仕事ができて、会社に利益を与えてくれればそれでいいって」なんていう企業は一社もなかった。


 今まで学生たちは個性を出すことがないよう、集団から浮かないよう、懸命に生きてきたというのに、その仕打ちがこれか!


 だから僕は頑張りすぎることやめた。何事も5割の力で済ませるようにした。努力は往々にして実らず、実ったところでろくな結果にはならない。それならば、最初から努力しなければいいのだ!


「そんなことはない、全力で努力することは素晴らしいことなんだ!」と思う方もいるだろう。しかし僕が思うに「努力すること」は「本当はやりたくないけど、イヤイヤやっている」ことを指すのだと思う。本当に好きなこと、人によってそれはTVゲームだったり、読書だったり、サッカーだったり、学問だったりする。それをずっとやっていることは、果たして本人にとって「努力」だろうか? 一日中数学の問題を解いている学者に「すごいですねぇ、努力家ですねぇ」なんて言ったって「いやいや、好きでやってることですから努力しているつもりなんてありませんよ……」と返されるのではないか。やりたくない、目を背けたい、だけどやらねばならない、そんなことを「努力」という言葉で美化し、あたかも「努力することは至上の価値があるんだ!」と自らに言い聞かせているにすぎないのではないか。


 つまり努力することはそんなに素晴らしいことではない。むしろ「いかに必要最小限の努力で成果を上げるか」を考えるべきだと思う。これこそ5割の力で頑張ることである。


 しかし世間の人々は「少ない努力で(少ない努力しかしてないように見える)大きな成果を上げる人」を極端に嫌う。未だに「汗水垂らして働くこと」が最上の労働と思い込んでいる人がいる。「俺がこんなに努力しているのに! それでも報われず必死で生きているのに! あんなに楽に稼いでいる奴が許せない!」と思う「正義の市民」はインターネットという武器を手に、安全地帯から、悪に対して総攻撃を仕掛けるのである。


 ああ、生きるということはえらいことだ! しかし、何事も5割の力にしておけば、結構楽に生きられることに気づいたのだ。


 自分と異なる価値観を持つ相手に出会っても「僕は同意できないけど、理解できなくもない」と思う。自分の意見を絶対だと思わず、相手の意見も悪だと思わず「正義の反対は、また別の正義」と心において、自分と相手の意見が食い違った時は「僕は間違ってない、相手も間違ってない、まぁそういうもんさ」と思う。できないことをできないと、知らないことを知らないと、嫌いなことを嫌いと、改善や向上を図るのではなく、受け入れてしまう。全か無か、善か悪か、二元論ではなく、その間の存在を受け入れることができれば、肩の力が抜けるのではないか。


 そう、つまり5割の力で世の中を生きよう! 「努力しなくては!」から「サボッちゃってもいいさ」で謳歌しよう! 今の自分と真逆の価値観を受け入れてみると、意外と面白いと思いますよ。


 


 

みなさんも5割くらいの力で小説を書いてみてはいかがでしょうか

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