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第一話:天狗のたまご・承

 (すぎ)(やま)(そう)(しょう)

 そう名乗った怪しい老人とも中年とも言い難い不可解なおっさん。どうやら偉い天狗様らしい。こいつは、俺が偶然助けた天狗の雛であるキミを渡せと言っている。

 歳は食ってるようだが、昼間の(からす)(てん)()コンビよりもずっと強そうだ。

「よく聞け。その子は儂が責任をもって、必ず親元に送り届ける。急がねばまた()(えん)の者が襲いくるやも知れぬぞ。昼間の兄弟は下っ端じゃ」

「じゃあもっとレベル高い追手が来るのか? 上等だ」

「図に乗るでない!」

 おっさんはぴしゃりと俺を叱りつけた。なんだよコイツ! 俺はこういう突然厳しい態度とる大人が大嫌いなんだ。背中でキミが囀った。

「ぴぴぴぴ……」

「あーおい! 泣いちまったじゃねーか!」

 泣いたというかびっくりしてつい声が出たという感じだったが。それでもおっさんは露骨に動揺してやんの。情けないぐらいの困り顔になって言うんだ。

「いや、悪気はなかったのだ。その……キミよ、堪忍してくれ」

 俺は疑うべきでない相手を疑ってたのかもしれない、と思った。この様子を見るに、おっさんは本当にキミの親に頼まれて人間の世界まで来たのかもってこと。だけど、まだ信用するには決め手に欠ける気がすんだよぁ。

「父上や母上の顔を見たくはないか? そなたの帰りを心待ちにしておるのだぞ」

 おっさんはキミに語りかけた。それを聞いたキミの顔は俺からはよく見えなかったが、心が揺れたのは確かだったな。だってそうだろ? 顔さえ知らなくても親は親だもんな。

「ちちうえ、ははうえ、だいじょうぶだった?」

 キミに問い返されたおっさんは即座に深く頷いた。

「父上は肩と羽を痛められ、母上は脚を怪我したが、いずれもすぐに治るであろう。さ、儂と共に来るのだ。すぐにでも両親の元に飛んでゆこう」

 杉山のおっさんが手を差し伸べ、俺がキミを降ろすべきか逡巡している時、急にまことが俺たちの間に割って入った。

「あ、あの!」

 おい声震えてっけど大丈夫なのか。

「まだ、杉山さんを完全に信用できません。偉い天狗さんらしいですけど、私たちにとっては顔が怖くて身分証もないおじさんですから」

「おっ、いいねぇ。もっと言ってやれまことー!」

「高司うるさい。だから……キミちゃんを連れていくなら、私たちも一緒に行きます!」

「なんと……!」

 さすがコペルニクスまことだ。大胆な発想にはおっさんも目を丸くしている。俺も面食らった。キミだけは無邪気にキャッキャ喜んでるが。

「おうおっさん、まことの言う通りだ。俺たちもあんたらの()()に連れてけ。キミの親にも一言くらい言っときてぇしな」

 キミも足をばたつかせて俺に賛成した。

「カツマとまこともいっしょ! いっしょがいい!」

(わが)(まま)を言うでない」

「いっしょ、だめなの?」

「ならぬ」

 おいあのうるうる上目遣いを見てもそのぶっきらぼうな返答かよ! 納得いかねー。

「なんでだよ⁉」

「ならぬものはならぬ」

 おっさんはふてぶてしくて偉そうな小憎たらしい仏頂面で理不尽な論理を押しつけてきた。

「お前たちは儂らの問題に深入りせずともよいのだ」

 さっきから本当になんなんだ。発する言葉がいちいち俺の神経を逆撫でする。

「人間には関わりのなきことだ」

「ふざけんじゃねえ‼」

 俺は、キレた。

「俺に関係ねぇことなんか一つもねぇんだよバカヤロー! 深入りするかどうかは俺とコーヒー屋が決めるんだ。いい加減なこと言ってやり過ごそうとすんな!」

 杉山のおっさんは俺の啖呵を受け、やや俯き気味になって言った。

「威勢の良い(わか)(びと)だ。烏天狗を倒して自信を強めたようだが、驕慢で天狗には勝てまいて」

「意味わかんねーな。聞き分けのないガキはぶっ飛ばすってか?」

「お前は井の中の(かわず)だと言うておる」

「なんだと……」

 井の中の蛙大海を知らず。井蛙は以て海を語るべからざるは虚に拘ればなり。夏蟲は以て氷を語るべからざるは時に篤ければなり。知ってる。知ってるぜ。

 俺に最もふさわしくない言葉だ!

「てめぇ‼」

「そこまで言うのならば――」

 例の杖、烏天狗を拘束した光を放つ杖が高く掲げられた。けどビビるより警戒するより怒りが先走って俺は猪突猛進するよりなさそうだ。心のブレーキは焼き切れちまったよ。

「高司!」

「カツマ!」

 女二人が悲鳴にも似た声を上げた。心配すんなって、腕が鳴るぜ!

「後悔すんなよおっさん!」

 俺が背中のキミをまことに預け、拳をバキボキ鳴らして臨戦態勢になった時、期せずして一触即発の状況は中断されてしまった。

 なぜかというと――。

「高司くん? まこと?」

 俺たちが向いているのとは反対の、つまりネオンで明るい通りから来た女が声を発したのだ。

「あ、(しゅ)()さん」

「しゅう……?」

 天狗が訝った。

 小走りにこっちへやってくるその人の名は雛倉秀羽。まことの母親だ。

 十五歳の子供がいるのだから普通に考えればどれだけ若くても三十後半くらいにはなってるはずだが、この瑞々しい美人はとてもそうは見えない。美貌はそこらの芸能人に余裕で勝ってるし、まこととは姉妹だと聞けば信じてしまいそうだ。女子高生の制服を着たってギリギリ違和感はないはず。実際、街を歩けば若い男に同年代か年下と思われてナンパされることもザラにある。しかも背が高くて乳がでかいパーフェクトボディの持ち主。ちょっと考えられないような存在なのだ。うちのフクロウみてぇな母親とは月とダイオウホオズキイカくらいの高低差がある。その秀羽さんが、俺たちの方へ歩いてくるのだ。

「お母さん⁉ どうしたの?」

「いやぁ、偶然昔の知り合いと会ってね。さっきまで一緒に飲んでたのよ」

 なるほど、確かに顔が少し赤い。色気あるなぁ。

「二人は今帰り? まだホテルとか行っちゃダメよ」

「ななな何を言ってるのバカじゃないの! バカバカバカ!」

 そういう冗談とそれに赤面するまことには本気で興奮するからやめろ!

 おっといけない。んなこと言ってる場合じゃねぇぞ。俺は今から天狗のおっさんとの熾烈極まる決闘をだな。

 あれ。

「いねぇ!」

 おいおいおい。なんだこのヘタレた展開は‼

 さっきまでここにいたはずのおっさんが忽然と姿を消しているじゃありませんか。秀羽さんが来たもんだから調子が狂ったってのか? 行き場を失ったフラストレーションはどうしてくれちゃうのよ。俺の足をつついてキミが言った。

「杉山僧正、とんでいっちゃったよ」

「そうか……へへっ。俺の気迫に恐れをなして逃げ出したんだな!」

「わぁー! カツマすごい!」

「だろ!」

 なんて言い合う俺たちを見て秀羽さんは首を傾げる。

「すぎやま、そうしょう……って」

 はいはい疑問はごもっとも。お次はその子だれ? だろ。

「その子、誰?」

 ほらな。

「あー、俺の妹だよ。妹じゃないけど、まあ妹みたいなもんで俺んちに来てて」

「高司!」

 まことが俺の名を囁いて肘打ちした。しまった、姪だっけか。早速の設定無視だがもうどうでもいいや。正体バレなきゃそれで。キミも喜んで挨拶してるしな。

「キミだよ!」

「ふぅん」

 秀羽さんはキミの前にしゃがむと、目線を同じ高さにしてにっこり微笑んだ。

「キミちゃん、はじめまして。こっちで困ることがあったらなんでも相談してね」

「うん。ありがと!」

 困ることがあったらなんでも相談してね、か。違和感を覚えないではなかったが、面倒見のいい秀羽さんらしい言葉ではあるなと、その時は思った。


     *


「ただいまー」

「あら随分早かったじゃない。卒業に浮かれて帰りは朝かと思ってたのに」

 フクロウ、じゃなかった。俺の母親は食器を洗いながらそっけなく言った。こいつは面倒臭がり屋だから、いつも食事から何時間か経たないと後片付けをしないのだ。

「俺がそんなことで浮かれるかっての」

「てのー!」

 皿を擦る手が止まった。まあ、突然知らない幼女の声が聞こえたから当然の驚きだ。母親こと勝間すみれはリビングの俺たちを振り返って見た。相変わらず丸っこい顔だ。

「……帰ってきたんならちゃっちゃとお風呂入っちゃいなさい」

「え?」

 それだけいうとすみれは何食わぬ顔で洗い物を再開した。スルーってどういうつもりだよ。

「すみれさーん? 壮大なツッコミ所があると思うのですが……」

「第二ボタンのこと? どうせ自分で毟ったんでしょ」

「ちげーよ! こいつだよこいつ!」

「きゃっ!」

 もしかして背が低いから見えてなかったのかと思い、俺はキミを高く抱き上げてみせた。

「なによ」

 洗い物を終えたすみれは水を止めると、手を拭いながらつまらなそうに言った。

「お母さん笑い所がわからないんだけど」

「笑い所がお前の贅肉以外のどこにあんだよ。こんなの連れて帰ってきたことに驚けよ」

「キミこんなのじゃないもんキミだもん」

 謎幼女が抗議すると、すみれもそうよと同調した。

「あ?」

 なにナチュラルに打ち解けちゃってる風なんですかね。初対面だよなこれ? あれ? 俺なんか勘違いしてる? なんか大事な展開端折られてない? あれあれあれ。キミが意味ありげにニコニコしている。この短時間に誰からそんな顔を教わったの! 

 俺は尋ねる。

「この子誰? とか訊かねーのか?」

「いくら私が忘れっぽいからって可愛い娘のこと忘れるわけないでしょうがバカタレ。冗談はいいから早くキミとお風呂入んなさい」

 娘……だと……⁉

「お、おいすみれぇ!」

「お母さんと呼びなさい」

「おかん!」

「どうしたひねくれ小僧」

「いまなんつった? 娘? こいつが?」

「いよいよ失礼ね。そうよ。キミは私の娘で、あんたの妹。忘れちゃったの?」

「いや……」

 俺は返す言葉を失った。キミは俺の手を握り、意味ありげに、かつ満足げにニマニマしていた。頭頂の髪が一束、アンテナみたいにピンと立っている。電波でも放射してんのか?

「びっくり? だいせいこうだよ」

 大成功ってどういう意味だよ。


「ふぅー……。なるほどなぁ、催眠術ってやつか」

 天狗の裸子に戻ったキミを抱えて湯船に深く身を沈めると、浴槽から溢れ出た湯が風呂全体に白い湯気を充満させた。

 たどたどしい説明から察するに、どうやらこの化物の子供はすみれに催眠術をかけ、自分を娘だと思い込ませたらしかった。まったく天狗の超能力には恐れ入る。そんなことができるなら、あいつらの前でも下手な嘘をつくことはなかったな。それにしてもこの歳でいきなり妹に恵まれるとは。人間万事裁縫が上手い……だっけ? はははっ、なんだかむず痒いやな。

「まさか俺にも催眠術かかってないよな?」

「だいじょぶ。カツマにはできなかった」

「あん? どうしてだよ」

「このすがたみられたら、ばれちゃうみたい」

「なるほどな。何も知らない相手に刷り込む術なのか」

 誰にでも効くんじゃチートすぎる。あくまで正体を知らない者限定で効果があるわけだ。とすれば俺とまこと、あと杉山なんたらって天狗のおっさんにも通用しないのかな。

「人間の姿でいるの、疲れるか?」

「ぴぴ。へいきだよ」

「お前タフだなぁ。生まれたばっかなのにな」

 俺は濡れた手でキミの頭を撫でてやった。でかい鳥みたいな小さな天狗は、目を閉じて嬉しそうに喉を鳴らしている。

 キミ、俺は優しい兄貴にはなれねぇぞ。

 けどまぁ、お前は俺の妹になったんだよな。そうだ。たとえどんな姿でも、何者であろうとも、こいつは俺が助けた、俺の妹なんだ。責任をもって実の親にも会わせなくちゃな。

 ……いつになるかは見当もつかないが。


     *


 こうして俺の生活は新たな家族を迎えて再スタートを切った。

 今までいなかった食卓に妹がいると朝の味噌汁の味もいつもと違って感じるな。

 両親はキミが実の娘だと信じて疑う様子もなくて少し不気味に思うほどだ。催眠術の効果は抜群。会う奴会う奴みんなキミと俺とが兄妹の関係だと思ってしまう。仕草が似てるなんて言われるが、そりゃ生まれてからずっと一緒にいたせいで俺が手本みたいになっちまってるんだろうな。へへん、俺の背中を見てしっかり育てよ。

 キミの服とパジャマは、とりあえずまことのお下がりを貰って間に合わせている。けど、それだけじゃかわいそうだっていうから、試験が終わったら三人でキミの服を買いに出かけることになった。っひゃあぁ、これもうほとんどデートみたいなもんじゃね? もうキスとかその先の何かも目前じゃね? ガッツポーズを抑えきれねぇな。ほんとキミは幸せの緑の鳥だ。

 あぁ、試験と言うのは言わずもがな、高校入試のことだ。

 俺は生まれつき試験というものに拒否反応を示す(たち)だ。誰から見たって実力は明らかなのに、それを敢えて試されることの屈辱よ。だけど受けないことには何も始まらないわけ。嫌んなるね。ああ、俺の志望校は近場の亀野守第三高校な。ありふれた公立だ。真面目に試験を受けさえすりゃよほどのバカ以外は楽に入れる。で、俺はよほどのバカじゃない。

 言い忘れてたが、今日がその試験日なのである。

「じゃーサクッと解いてくるわ」

 靴を履きながら俺は言った。別に緊張も何もない。やることはいつもと同じようなもの、ただ行き先が違うだけだ。懸案事項は途中でどれだけ腹が減るかってだけ。

「しっかりやんなさいよ!」

「自然体で肩の力抜いてやるんだぞー」

「がんばってねカツマ!」

 丸っこい母親と薄毛の親父とできたての妹が旅立つ俺を激励した。

しかしキミよ、兄を名字で呼ぶってどういうつもりだ。お前だって今は勝間キミだろうに。催眠術の効果で誰も疑問に思わないようだし、まぁいいけど。

 ともかく俺は、やっぱり入れる物がなくて軽い鞄を担いで家を出た。教科書? 参考書? 今更なんの役に立つんだ。読み返すまでもないね、っと。

 雛倉家を通り過ぎる。真面目なまことのことだから、どうせ俺よりずっと早く受験会場に向かっているだろう。その辺は確認するまでもなく分かるのだ。幼馴染なんだからベッドまで起こしに来てくれたっていいのになぁ。もちろんキスとかで起こすやつな。俺んち布団だけどな。甘さのカケラもなくって虚しいぜ。

 亀野守の大部分は大昔に山を切り開いて造った土地だと聞く。その名残か知らないが、この辺りは長短問わず坂が多い。亀野守第三高校、通称亀三に行くにしたって坂を上らなくてはならないのだ。しかも中学の校門前より長い。受験生らしい青臭い元中防どもがかしこぶったマヌケ面でぞろぞろ歩いてる。はぁーあ。やっぱ苦手だわこの雰囲気。なんでお前らテストとかにやる気出せるんだ? 

 と、そこで俺は受験生たちの中に見覚えある襟足を発見した。そう、あのダサい金襟足だ。

「おい木瀬川ァ!」

 後姿に名を投げかけて駆け寄ってみると、それはやっぱりあの木瀬川龍我だった。

「あ! お前あの時の!」

 木瀬川は心底驚いた様子で口をあんぐりと開けた。

「なんだよそんなに驚くことないだろ?」

 そこで木瀬川の隣を歩いていた女子が、いかにも親しげに襟足に問いかけた。

「龍我、知り合い?」

「いや……」

「勝間高司です、よろしく! 知り合いどころか木瀬川君の大恩人だぜ?」

 求めた握手はスルーされた。最初は誰だってこんなもんよ。

「だ、誰が恩人だ」

「俺様だよ。ところで」

 これは東中の制服だ。少し小柄だが胸と尻はほどよい発育具合。アッシュイエローっつの? あんな感じの色に髪を染めてる。目はぱっちり、鼻は控えめ、唇はすげーエロい絶妙の厚み。正直言って超超ストライクゾーンだ。

「おま、木瀬川ッ! このお前に不釣り合いすぎる可愛い子は彼女か!」

「何が不釣り合いだ! 悪いかよ!」

「羨ましいだろうが死ね!」

 木瀬川の女は間に入れそうにないと判断したのか、俺たちを放って歩調を速めていった。

「あっ、待てって()(さき)!」

 伸ばした木瀬川の手は虚しく空を掴んだ。悲しきバカに俺は肩を組んでやる。

「キサキちゃんっての? お前もいい趣味してんなぁ。でも今ので俺に惚れちゃったかなぁ。あ、でも俺にはもうまことがいるからなぁ。見かけなかったか? このぐらいの髪の長さのとびきり可愛いやつ。あれ俺にぞっこんだから。首ったけだから」

「だ、黙れクズ。なんでお前まで亀三受けるんだよ」

「カリカリすんな心の友よ。今日はお互い頑張ろうぜ? いや、俺は余裕で合格するんだけどな、お前だって自分の名前くらいはちゃんと書けるんだろうなって心配で」

「なんだそれバカにしてんのかテメェ!」

「はいはい喚くな騒ぐな。いやーしかし無事で何よりだったぜ」

「どの口が言ってんだこのヤロ。あの日のこと誰にも喋ってねぇだろうな?」

「お前が天狗にビビって気絶したってことか? 大丈夫だよ言ったところで誰も信じないって」

「喋ってないんだな⁉」

「ご想像にお任せしますよ、はっはははは……」

 いかにも優等生って感じの眼鏡女子トリオが、俺たちの方を見て何かひそひそ話しながら通り過ぎていった。

「お前のせいであらぬ誤解を被ったぞ幸先悪ぃな」

「知るかボケ。つか、あのあと何があったんだ? 目が覚めたら誰もいなくなってた。あの怪物どもはどうなった? 鞄の中身は結局なんだったんだよ、なぁ?」

「あぁ、その件についてなら……」

 坂を上り始めた俺の関心は喧しい木瀬川を離れ、別の人物に向いていた。

 下駄を鳴らして歩く、黒い――。

「……合格祝いにとっといてやる。またゆっくり教えてやるよ」

「あぁ⁉ おい、勝間! 高校そっちじゃねぇぞ!」

 ここは再会の坂か? なんだって奴がまたいるんだ。

「……相変わらず意味わかんね。もうすぐに試験始まるってのに」

 俺を挑発するように坂を下りていったあいつは……あいつは杉山僧正だ!

 試験のことなんぞ頭から吹き飛んでおっさんを追いかけた。天狗は時折振り返って俺の様子を窺いながら、小走りでどこかへ駆けていく。

「おい! コソコソすんなおっさん!」

 どうやら俺を人のいない場所に誘導したいらしい。乗ってやろう。


「もういいだろ杉山僧正! こんな脇道、誰も通らねーよ」

「やはりその名を知っておったか」

「は?」

 何言ってんだこいつ。自分で名乗ったんだろうが。それに、こんなに猫背だったか?

「ふっふっふ……では吐いてもらおうか。裸子の居所をな!」

 声を荒らげて杉山僧正は振り返った。驚くべきことにその面相はさっきまでとは全くの別物になっていた。目はより大きく獰猛そうになって吊り上がり、下顎からは二本の長い牙が伸び出ている。黒かった髪は灰でも(まぶ)したみたいに白っぽく変わっていた。

「それが正体か!」

「さにあらず! 見よ我が真の姿!」

 杉山僧正はごつごつした手で自分の黒い衣を掴むと、それを一気に剥ぎ取った。不穏な風が巻き起こり、大きな羽根が飛び散った。そうして、天狗の恐ろしい姿が露わになった。

 背中には大きな翼! 上半身を覆う褐色の羽毛! 厳つい嘴! 逆立つ髪!

 この間のは正に烏天狗って感じだったが、こいつはさしづめ鳶か鷹の化け物だ。赤い腰巻と両肩に絡ませた緑の帯が風に靡いている。そして手に持っていた杖は細長い一本の骨に変わっていた。なんて禍々しい姿なんだ。さすがの俺も多少背筋に冷たいものを感じた。

「きえぇいッ‼」

 天狗は奇怪な気合いで俺を怯ませると同時に怪しい骨を突き付け、その先端から一筋の火炎を噴出させた。たちまち火の輪が俺を何重にも取り囲んだ。これ、こけおどしじゃなさそうだ。ハンパじゃなく熱い!

「うっ……くぁ……!」

 炎の縄に縛られてるようなもので、俺は直立不動のまま身動きがとれなくなってしまった。

「なんだてめぇ……俺を炙って食おうってのか! 人間のタタキか!」

「お前なんぞ食うても舌が穢れるだけだ」

 天狗は邪悪な笑みを浮かべて俺の方へにじり寄ってくる。ココココ、と喉の奥で笑いが漏れていた。手にした骨を俺の頬に押し当てて言う。

「熱いだろう」

「へっ! 今日はまた冷えてる。ちょうどストーブに当たりたかったとこで助かったぜ」

「強がりもそこまでだ小僧。裸子はどこにいる! 言わぬと頭を黒焦げにするぞ」

「ふざけやがって……」

 心頭滅却すれば火もまた涼し、だ。

「ぶっとばしてやる!」

 俺は正体を現した杉山の脇腹に回し蹴りを叩き入れた!

「がっ!」

 よろめいた隙に炎の輪から飛び出して間合いを取る。

「うわっ()ぃい! あちち!」

 なんちゅう火力だ! 服のあちこちに燃え移った火を手と鞄を使って大急ぎで消した。

「よくもやってくれたな! ここからは俺のターんわぁぁ⁈」

 なんてこった。天狗は俺の胸倉を掴み上げ、そのまま空高く飛翔した!

「おあぁぁぁ!」

 体が浮き上がる。宙ぶらりんの足と遠くなる地面を見下ろして、俺はいよいよ身の危うさに震えがきた。

「小僧! 俺が手を離せばお前など地に落ちてペシャンコだぞ!」

「おぉ……俺がそんな脅しに屈すると思ってんのかこのチキン野郎! 唐揚げにすっぞコラ!」

「ほれ! ほれ!」

 天狗は狂気じみた眼を輝かせて腕をがくがく動かした。連動して俺の全身が大きく揺れる。

「うわぁ! よせ、マジで落ちる!」

「怖いか! ならば天狗の裸子の居所を吐くのだ!」

「それとっ、これとはっ、別問題だろぉがよぉ!」

 落ちる落ちる落ちる! もうこれ三十メートルくらいは上がってるぞ! 空気薄い!

 だけどここでキミの居場所を喋っちまうなんて展開はつまらなすぎるだろ。

「拷問なんて前近代的な真似はやめろォ!」

「吐け!」

「いやあぁぁぁ」

 何か逆転のチャンスになる物は……ってあるわけねぇぇ! 強い突風かバードストライクでもない限りこんな空中で状況を変えられそうな要素なんて皆無だ! どうする、どうするんだ俺は⁉ この体と、この口だけでこいつを倒すしかねーじゃねーかよ畜生! タマは縮み上がってるのにか? ああもう! やってやろうじゃねぇかッ‼

「やい杉山! お前に俺が殺せるわけねーだろ。俺が死んだら誰が天狗の雛のこと教えるんだ? 言っとくがあいつの変装はもう超一流だ。お前みたいなフシアナには見抜けない!」

「ふふふふふ……少なくとも人に化けていることは知れたッ!」

 がくん、と大きく体が上下した。心臓がついてかねぇ。

「な……⁉」

 いや、そんなのこいつらだって想定内のはずだよな。きっと俺を動揺させるためのブラフだ。

「それにな小僧!」

「うわっ!」

 ぐるり、と体が宙を舞う。天狗が急に旋回したんだ。冷汗の滴がスローモーションで遠い地上に落ちていった。緊張のせいか手足が痺れて力が入らなくなってきてる。

 早く降ろせよサディスト!

「俺は探す。お前のようにちっぽけな手がかりがなくともたやすく見つけてみせる!」

「だったらなんでここまでする!」

「ふははっ、己の鈍い頭で考えてみるがいい!」

「こいつ、強がんじゃねぇ……!」

「強がりはお前だ、身の程知らずの人間め!」

 さっきから耳元で風がびゅうびゅう唸っているのに、奴の声はそれを上回る凄味をもって伝わってくる。空の上で、俺は操り人形のように力なく揺れるばかりだ。

「さぁ、これが最後だ。言うか言わぬか!」

「く……言わぬ‼」

 ここまで来たら頑として喋ってやらないもんね! 落としたけりゃ落としてみろよ!

 ほら‼

「ならばこうだッ‼」

「うほぉっ⁈」

 瞬間、無重力。意思なき浮遊。

 天狗のヤツ、本当に俺から手を放しやがった。

「あ」

 こんな経緯で人生初のスカイダイビングを体験するとはな。

「ああ」

 放り投げられて、バランスもとれないで。体の前と後ろが激しく入れ替わる感覚。くるくるくる。頭の中が滅茶苦茶にシェイクされて、確実に、そして急激に高度が下がっていく。羽を持たない俺にはどうすることもできない。

「あああ――」

 落ちる。

「ウソだろおおおおおい‼」

 目の前に林が! 

 叫びと共に、俺は頭から木の葉の中に突っ込んだ。無数の葉や枝が俺の顔や手足を切り裂くように接触する。体中に鈍い痛みが広がったような気がして、頭と体は隈なく機能停止状態に陥ったようだ。つまり俺は無様にも、空から真っ逆さまに落とされて気絶したのだ。

 あるいは死んだのかもしれない。でも、そう考える余裕はなかった。


     *


「目が覚めたか?」

 穏やかな口調で男は俺に言った。

 耳元に落ちた携帯電話が震えて着信を知らせている。誰だろうな。

 上を向いてるのか下を向いてるのかも分からない。それ以前に目はしっかり開いてるのか? 手足はちゃんとくっついてるか? ピン()けした視界は数秒を経てようやくまともな景色になり、更に数秒遅れて手足の末端まで感覚が蘇る。どうやら俺は腐葉土の地面に仰向けになって、自分の体が林の木の葉屋根に開けた穴を見上げていたらしいや。

「あの高さから落ちてこの様とは。なかなかしぶといではないか」

 なんだかまた違和感がある。さっきまで俺がいた場所とは何かが違ってるんじゃないか。なんだろう……と重い頭で鈍った思考を巡らせて導き出した結論は、時間の経過。ここで二、三時間かそこらは気を失っていたに違いない。陽射しが変わっているのだ。

「骨が折れたのではないか。無理に動くと足が使い物にならなくなるぞ」

 男は穏やかさの中に嘲笑をこめて言った。男……だと? そうだ、記憶がはっきりしてきた。この声は俺を投げ捨てた天狗だ。くそ!

「てめぇもう手加減なしだ!」

 俺は天狗に殴りかかろうと体を起こした。だけど、あいつが言った通り足が折れていたのか、まともに立てず前のめりになってすっ転んだ。口の中に土の匂いと苦みが広がった。

「ぴ……」

 で、追い打ちをかけるように絶望の事態がまた加わる。

「ぴぴ……」

「え?」

 杉山が片手で提げている大きな鳥籠。その中に緑の天狗の子が閉じ込められていた。

「カツマぁ」

「キミ!」

「ごっ、ごめんね。わたしのせいでお、おかあさんが……」

 キミは俺が寝てる間に捕えられてしまったのだ。それに、俺の親も何か危害を加えられたらしい。愕然とする俺を杉山が嘲笑した。

「思いの外早く見つかったわ。なにせこの裸子、母親譲りの(みどり)()でもあったからな……!」

「杉山ァァァ‼」

 俺はなりふりかまわず天狗に殴りかかった。怒りで頭がどうにかなりそうだ。こいつだけはもう絶対に許さない。俺がこの手でぶちのめしてやる!

 だが、杉山は悠然と鳥籠を置くと、やはり薄気味悪い眼光を向け――逆に俺を殴り飛ばした。

「ぶえっ」

 一撃では済まなかった。倒れた俺を蹴転がし、襟首を摘んで無理に立たせると、横っ面を張り飛ばした。また倒れた俺を容赦なく鳥の足が襲う。

 痛かった。

「先日は我が弟子が大いに世話になったな! このような屈辱は久しぶりだッ!」

「ぐあっ!」

 やっぱりあのチビとノッポはこいつの子分だったんだ。下らねぇ小芝居しやがって!

「どうだ!」

「ぐふぅ」

 腹はやめろ。思い打撃で何も言えなくなる。

「カツマぁぁ!」

 キミの絶叫が遠退いた俺の意識を呼び戻した。俺は腹に置かれた天狗の足にしがみつき、これ以上の攻撃を止めさせた。汚い虫にでも送るような侮蔑の視線。この天狗野郎……俺だってこんな屈辱初めてだ。苦い口に、今度は血の味まで広がっている。

「お前……こんなことって……キミを親元に帰すなんて嘘だな!」

 鉄格子を握って涙を流す天狗の子は、まるで売られる前の家畜だった。妹として接してきたキミをそんな風に扱われて、もう頭が弾け飛びそうなほどに怒りが沸騰している。

 天狗の(こめ)(かみ)がひくひくと動いた。

「キミ……名を与えたのか。これはいい」

 分かるか、この違和感。さっきからどうも変なんだ。天狗の子に名前をつけたことはこいつだってもう知ってたはずなのに、初めて聞いたような反応じゃないか。けど、今の俺の脳味噌は思考を司る部分まで怒りに浸蝕されている。

「俺の質問に答えろ! そいつを本当はどうするつもりだ」

「我が血肉とする。すなわち、喰らう」

 冷酷な一言に、繁みに隠れる小鳥たちも恐れをなして飛び立った。俺だって血の気が引いた。

「なんだと⁉」

 キミを食べるだって?

「共食いじゃねーかよ!」

「生まれたばかりの天狗の裸子。その新鮮な身を食えば、俺の霊力は今以上のものとなる。はははは、そうだ! いずれ俺はあらゆる大天狗を上回る魔王になる!」

 魔王だって? 陳腐な単語でもこんな奴が言うとそれなりに凄味があるもんだな。

「んなことさせるか変態手羽先野郎!」

 俺は天狗の足に抱きつき、そのまま全力をこめて骨を折ってやろうと思った。けどそんな芸は到底無理だったようで、足の一振りで俺の体はまたしても宙を舞い、笹の繁みへ華麗に落下。

「ち、ちくしょぉ……」

 情けねぇぜ。こんな鳥一羽ぶっ飛ばせないのか俺は?

「お前を殺してからじっくり頂くとしよう……キミの温かい血と肉とをな。くくくくっ」

 俺に近付いてくる杉山僧正は堪え切れずにまた笑い出した。ふざけんなふざけんなふざけんな! 俺が、この俺がこんなドクズに負けるわけが……! 

 感情だけは燃え盛るが、俺の体は傷つき疲れ果て、もう使い物にならなくなっていた。起き上がろうとしても、腕立て伏せに失敗したみたいに体が崩れる。

繁みに横たわる俺を邪悪な鳥人間が覗き込んだ。大きく広げた羽は既に魔王のマントみたいだった。それがもう無性に腹立たしくて、口をついて罵倒の言葉が出る。

「馬鹿野郎ォォォ‼」

 天狗の握り拳が俺に振り下ろされようとした時だった。林一帯が真っ白な光に包まれたかと思うと、ぷしゅうッと狭い隙間から空気が吹き出すような音がした。同時に、俺を襲う天狗の体が真横に吹っ飛ばされる。草を踏む履物の音がして、すぐにこんな声が聞こえた。

「魔王が聞いて呆れるわ」

 その瞬間に光は収まり、周囲のコントラストは元通りになった。俺は急ぎ立ち上がって声の主を見る。現れたのは俺の予想通り、杉山僧正だった。

「偽者だったのかてめぇ!」

 俺は木の幹に頭を打ちつけてダウンしている天狗に言った。そういうことだ。こいつはあの烏天狗の兄弟の親分で、杉山僧正の姿に化けてうろつき回ったのは、その姿に反応する奴、つまり天狗に関わった人間を探していたからなんだ。俺はまんまと釣り餌に引っかかったってわけだな! ああもう俺の間抜け!

 杉山僧正が杖をキミの鳥籠に向けた。どんな力が発射されたのか、鳥籠は一瞬で分解して飛び散り、捕らえられていたキミは解放された。

「逃げよ」

「そうだ逃げろキミ!」

 どうせこのまま敵を逃がすわけはない。俺はあの悪党の最後を見届ける気でいた。

「早く!」

「でも……」

 怯えるキミはその場を去ろうとしない。その時、俺の脳裏に秀羽さんの言葉が浮かんだ。

 ――こっちで困ることがあったらなんでも相談してね。

「……秀羽さんのとこに行け!」

 キミはそれで意図を汲んだらしく、大きく頷いて再び人間の姿に変わった。杉山も何も口出ししなかった。そしてキミは一目散に駆け出し、後ろ髪引かれる様子ではあったが林を抜け出した。俺と杉山僧正、そして謎の天狗は黙ってそれを見送った。

「ううむ……よくも俺の裸子を」

 変装天狗はさっと体勢を立て直すと、餓えて血走った猛禽類の目で杉山を睨んだ。

「お前の子ではない。相も変わらず妄執(もうしゅう)に囚われておるな」

「杉山僧正! こうなればここで雌雄を決するより他に道はあるまい!」

「愚か者」

 杉山は杖を、もう一方は例の骨ライターを構えた。

「いくぞオラァァ‼」

 俺は武器がないから握り拳で勝負をかける!

「どけ!」

「がっ」

 俺は翼で振り払われてリングの外に放り出され、杉山と天狗はそれぞれの得物を使ってチャンバラを始めた。おぉい! ここ俺が活躍する場面だろ空気読めや!

 まったくしょうがない連中だな。早々に戦いからハブられたのは悔しいが、俺は不覚にも、このふたりの戦いにすぐ見惚れてしまった。映画でも観てるような高揚した気分になる。

 杉山僧正はおっさんとは思えないほど軽い身のこなしで、重く痛烈な一撃で敵を叩きのめそうとする。対する天狗は炎を操るトリッキーな戦法ながら、杉山が決め手としたかったであろう杖の一振り一振りを全て捌き切るだけの実力を備えていた。そして人間を遥かに凌駕する跳躍力を駆使して縦横無尽に渡り合う。達人同士の決闘といって差し支えない。そういう対決の例に漏れず、闘いは大して長引かなかった。

「きええぇいッ‼」

 あのバカらしい奇声を上げて飛びかかった天狗の胴腹に、杉山のおっさんが杖を突き込んだのだ。決まった――と誰の目にも明らかだった。ギャラリーなんて俺しかいなかったけどな。

 天狗は地に落ちるかと思いきや、その体は濃い紫色の煙となってドロン。消え失せた。

「……死んだのか?」

 俺が後ろから問いかけると、杉山僧正は違うと答えた。

「もはや勝てぬと踏んで逃げたのだ。逃げ足だけは早い魔縁じゃ」

「そのマエンってのはなんなんだよ」

 杖を下ろした杉山僧正は俺の問いかけには答えず、回れ右をして上から下まで俺をじっくり観察した。よせよ気色悪いな。

「酷い怪我だな」

「そうか? かすり傷だぜ」

「大した痩せ我慢だ。来い、治してやろう」

「治すだって?」

 おっさんの杖がぐにゃりと形を変え、絵本やなんかで天狗がよく持ってる()(うち)()になった。どういう仕組みだよ。次におっさんは口の中で胡散臭い呪文のようなものを呟くと、その羽団扇で俺の全身をふわっと扇いだ。

 やけに冷たくて爽やかな風が俺をすり抜けた直後、ずっと体を支配していた痛みと倦怠感が急に軽くなった。こいつ回復呪文みたいなのまで使えるのか? チートスペックだな。

「すげぇ……」

 思わず言ってしまった。

「せめてもの詫びと思うてくれ。家の母御も軽い怪我を負っていたゆえ同じように手当てを施してある。もっとも、儂らの姿は記憶から取り去ったがな」

「すまん。助かった」

 ここは素直に礼を言うしかなかった。あのマエンとかいうの、俺の母親にまで暴力を振るっていたとは返す返すも許せない奴だ。

 って。

「あーっ! こんなことしてる場合じゃねぇ‼」

 俺は重大なミスに気がついて真っ青になった。携帯を出して時間を確かめると、なんと既に午後三時。着信履歴もメールボックスもまことまことまこと。まことからの連絡で一杯だった。

 やばい。

 俺、併願なんて出してねーぞ。

「うわああああ! 最終学歴があぁぁぁ‼」

 俺は走った。それはもうかつてないくらいに死に物狂いで走った。この前烏天狗を追いかけた時よりも急いで。憎き坂道を全速力で踏破して、亀三の門を潜った。

「あぁ……そりゃ六時間遅れじゃ駄目だよな」

 靴箱の前に設けられた受付けスペースには既に誰もいなかった。

 俺の受験は終わった。もうお先真っ暗だ。

 工事現場で肉体労働に勤しみながら制服姿のまことを見送るうらぶれた俺の未来予想図。

「いっ、いやだぁぁ……JKと戯れることもない青春なんて青春じゃねぇ……」

 いや、本当に泣きそうだ。天狗の馬鹿野郎、俺の人生引っかき回しやがって……。

 ぜ、絶望。

 そうこうしているうちに試験の全日程が終了したようだ。教室の戸がガラッと開けられて、中から緊張が解けて安堵の表情となった受験生たちがぞろぞろ出てきた。

 俺に気付いた奴は形容しがたい表情をとる。何こいつ? 今来たの? 嘲笑、憐れみ、軽蔑、あとなんか貰って嬉しくない感情色々。いっそ声を上げて笑ってくれ。

 朝見かけた眼鏡女子たちが俺を見つけて怪訝な顔で通り過ぎていく。髪の毛に引っかかっていた枯葉がひらりと落ちた。あー、最後の一葉が落ちたから私は死ぬのね、なんて。

「あの、どうかされましたか?」

 受付けのテーブル前でへたり込んだ俺に声をかけたのは、スレンダーな若い女だった。

「お、かわいい」

「えっ、やだ……照れますぅ」

 赤くなった頬を押さえる彼女は「試験官」と書かれた青い腕章を着けていた。たぶんこの学校の教師なのだろう。俺は藁にもすがる想いで貧にゅ……おっと、控えめな胸のお姉ちゃんに頼み込んだ。

「すいません遅刻しましたぁーッ! どうか追試を受けさせてくださいませ!」

「え……えぇー?」

 何をのたまうんだと言いたげな困惑の表情。

「お願いいたしますだ! お代官様ァ‼」

「わっ、わたしお代官様じゃありませんから困りますぅ!」

「そこをなんとか! 金なら! 金ならどうにか工面いたしますからァ!」

「お金の問題でもありません!」

「だったら体でご奉仕させてくださいお嬢様!」

「なぁっ、何を言ってるんですか、もう!」

 もう土下座で懇願するよりない。俺は赤面する女教師の足元でブサイクなガマガエルみたいに這いつくばった。でも、頼りなげな彼女はますますうろたえてしまう。

「つ、追試なんて予定にありませんから……」

 完璧に周囲の注目が俺に集まってきている。最悪だ。エクストリーム恥晒しだ。天狗には勝てないし試験は受けられないし踏んだり蹴ったりだよこれじゃあ。

「高司⁉」

 人混みをかきわけ血相を変えてまことが現れた。悲嘆にくれる俺に駆け寄り問い質す。

「あんた今まで何してたのよ⁉ 何度も電話したのに……」

「え、えへへへっ、いや、ウォーミングアップにさ、運動しててさ、ははは……」

「高司!」

「うひゃへひゃほははは……はぁ」

 本当に追い詰められた人間は笑うしかなくなるという説を身をもって実証したぞ。

「あの、本当にもうダメなんですか?」

 今度はまことが教師に尋ねている。

「はあ、あの、まあそういうことになるかと思います」

「そこをなんとか!」

「もう、もういいよまこと。ここで終わる運命だったのかも知れねぇ。俺の屍を越えていけ」

「何たそがれてんのよ! あ……」

 まことは何かに驚いて言葉を切った。女教師も呆然と出入口の方を向いていた。

 かつん、かつん。杖と下駄の音。

「今からでは受けられませんかな。本当に?」

 そう言ったのは杉山僧正だった。

「おっさん……」

「す、杉山さんがどうしてここに? まさかキミちゃんに何かあったの」

 まことはやっぱ頭の回転が速いや。

「やむを得ぬ事情があったのです。彼の不注意から遅刻したのではないことは、この儂が証明しましょう。どうです、今からでも試験を受けさせてやっては――」

 俺を追って学校に入ってきた杉山僧正は、今までより声を一オクターヴ下げて教員に迫った。その瞳の奥にはぼんやりと、白い神秘的な光が灯っているようだった。彼女は不思議な力に魅入られて、風呂上りのようなぽーっとした表情になっている。

「はい。責任者に……相談してきます」

 そう言って、慌ててどこかへ駆けていった。

「催眠術か」

「間もなく試験が始まるぞ。準備をしておけ」

 でも、どうしてこんなことまで。

「これも詫びってやつなのか?」

「カツマといったな」

 確かめるように黒目が俺の顔に向く。

「へ? あぁそうだよ、勝間高司だが、それがどうした」

「昔の弟子に似た名だ」

「よせよ。俺を誰かの劣化複製品(ニセモノ)みたいに言うな」

 俺が口答えすると、杉山のおっさんはくっと口元を歪めた。

「思ったより見所があるな。今夜、改めてキミを迎えに参じる」

「あ、おい!」

 杉山僧正は返事も聞かずに背を向け去っていった。呼び止めようとした俺は、その前に駆けつけた別の試験官たちに名を呼ばれて足止めを食ってしまった。狐につままれたような顔のそいつらが言うには、今から俺だけ急遽試験を受けてもいいことになったらしい。

「頑張ってね、高司」

「お、おう。余裕だぜこんなもん。俺の学力ナメんな!」

 まことの真摯な激励を受けて、やっとこ俺の高校入学試験が始まった。

「……まこと。消しゴム貸して」

 そして俺はガラにないほど精一杯に頭を使って試験に挑んだのだった。まあ俺にはやさしすぎる問題だったな。けどほら、(こん)詰めてやったからもう頭がオーバーヒートして知恵熱出そうだぜ。え? 知恵熱ってそういうもんじゃない? うるせぇな雰囲気が伝わりゃいいんだよ。

 あー、腹減った!


     *


「うーっすこんばんわー! キミ大丈夫だったかー?」

「カツマぁぁぁ! おかえりっ!」

 夜九時過ぎまで高校に居残って試験を受けてきた俺は、まずキミとまことに会うため雛倉家に立ち寄った。玄関が開くなりキミが大喜びで胸に飛び込んできたのだ。

「おー元気そうじゃねぇか!」

「はんばーぐたべたよ!」

「秀羽さん手作りだろ? いいよなぁ」

「私が作ったのよ」

 鍵を開けてくれたまことが頬を膨らませた。

「なんだまことか」

「なんだって何よ」

 まことの料理の腕は、まだ秀羽さんほどではない。

「今日のは最高傑作だったんだから。いつかみたいに塩と砂糖間違えたりしてないもん」

「だったら安心して食えるや。それはさておき、今日の話聞いたか?」

「うん。別の烏天狗に襲われたって」

 深刻な表情でまことが言った。昼間の出来事は試験を終えた身には夢のように思えるね。

「杉山さんが助けてくれたのね」

「胸糞悪ぃがあのおっさん滅茶苦茶強かった。俺がどうがんばってもあと一歩まで追いつめるしかできなかった相手を、あいつは大苦戦して危うく死にかけながらも追い払ったからな」

「話盛ってない?」

「全て事実だぞ」

 あ、信じてないなコイツ!

「とにかく上がってってよ。お腹減ってるでしょ?」

「いや、もう少しここで待つ」

 俺は上り框に座って訪問者を待った。拍子抜けするまことに言う。

「すぐに杉山のおっさんが来る。そんな気がするんだ」

「そうね、私もそんな気がする」

 廊下に出てきた秀羽さんが楽しそうに言った。語尾に音符がついてそうな感じだ。

「秀羽さん⁉」

「しゅー!」

 キミが手を振った。しゅー、か。こいつが呼ぶとなんでも可愛らしい響きになる。

「その杉山さんって方がキミちゃんの保護者なんでしょ?」

「いや、それはその」

「そうなのよね?」

「ああ……」

 楽しそうといっても、それはある意味ごく表層的な演技で、実際は内面に凄まじい何かを秘めているように思えて、怖い。うちの親父も三十過ぎた女が無意味に笑ってるときには用心しろっつってたしな。実際、何かあるのだろう。

「秀羽さん怒ってる?」

「ん、どして? 私も会ってみたいだけ、す・ぎ・や・ま・さ・ん・に」

 こえーよなんだよこの静かに凄まじいオーラ! 俺はまことに耳打ちで尋ねた。

「秀羽さんどこまで知ってんだ?」

「さぁ、キミちゃんがどこまで話したのか……さすがに天狗云々は信じないと思うし」

「あの人になんて言った?」

 念のためキミにも訊いておく。

「へんなのにおっかけられてこわかった、って」

 だったら真相なんて知るはずないか。この妙な雰囲気はなんなんだ?

「いつになったらいらっしゃるのかしらぁ?」

 俺たちの困惑をよそに、秀羽さんは玄関のドアノブに手をかけた。

「実はもう来てたりして」

「ぬっ⁈」

 どんだけ勘が鋭いんだよ! 

 玄関先には本当に杉山のおっさんが突っ立っていた。いきなりドアを開けられて驚いている。

「なんと、儂の気配を見抜くとは……」

「今度は本物だろうな?」

「む、試してみるか」

「やめとこう」

 おっさんは不審者じみたどこかおどおどした目付きで秀羽さんちらと見て、微かに口を動かした。間近にいた俺には「やはりか――」と呟いたように聞こえたが、それが示すところの意味は全く把握できなかった。年寄りの考えるこたぁ分からんな。すぐにいつもの仏頂面に戻っちまったしよ。ま、どうせ今の感心は別にあるんだからいいんだけどな。

 俺は言った。

「本題に入るか。キミの今後について、今度こそじっくり話そうぜ」

「うむ」

「そのことなんですけど……」

 ここで、なぜか秀羽さんが俺たちの会話に割って入った。余程意外だったのか、おっさんは目を見開いて秀羽さんを凝視している。ケケケ、バカでぇ。

 秀羽さんは――。

「たとえどれだけ短い間であろうと、キミちゃんをあなたに任せたくはありません」

 と、驚くようなことを言った。間髪入れず付け加える。

「反論も聞く気はありません」

 きっぱり言い切った。俺たちはみんな呆然としたさ。実の娘のまことだって予想外だった。

「ご両親と直接お会いできるまで、キミちゃんはこちらの世界でお預かりします。守ってあげるべきときに手を伸ばせない親は親じゃない。そうは思いませんか杉山さん?」

 まるでもう答えが分かっているかのような問いかけだった。杉山僧正はあからさまに狼狽して、額には玉の汗まで浮かべている。不思議だ。仮に俺が同じことを言ったとしても、こんな反応には絶対ならなかったろうに。苦し紛れにおっさんはこう返す。

「だが、肝心なのは、キミの意思であろう……」

「わたし、みんなとはなれるの、こわいよ」

「なんと……」

 決定打は電光石火のスピードで撃ち込まれた。そうだよな、キミは不安を感じて当然だ。

「気に入らなければ天狗でも鬼でも寄越せばいいんです。もうあなたに用はありません」

 杉山僧正は黙りこくっている。

 秀羽さんは深々と頭を下げた。

「お引き取りください」

 汗の滴が一粒、玄関のタイルに落ちた。

 こうして天狗は言い負けた。

 捨て台詞すら吐けず、杉山はすごすご引き上げて夜の闇の中に消えた。

「すげぇや秀羽さん、度胸あるなぁ」

 俺は気持ちを隠さず称賛した。母は強しってこういうことなのかと、ごく素直に事態を受け取った。秀羽さんは夜の外界を向いた遠い目のまま一言こう言う。

「ここはあのひとのいていい所じゃないから」

 わぁ、いつになく厳しいお言葉。かと思えば、すぐに慣れ親しんだ明るく優しい物腰になって言うのだ。

「さっ、高司くん上がって! すみれさんには電話してあるから」

 ははん、そうですか。

 俺は捉えどころのない、複雑な事情という名の何かを悟ったような気がした。

「そんじゃ軽くメシでもご馳走になりますか。楽しみだなぁまことのハンバーグ」

「もうないわよ」

「えぇ⁉ なんだよそれぇ」

「冗談よ。ちゃんと高司の分もあるから。でも、も、文句言ったら許さないんだからね……っ」

 なんだよ可愛いなコイツ。へへへ、文句なんて言うわけないだろぉ?

「秀羽さん、とりあえず生ビールね!」

「かしこまりましたー、って未成年でしょあなた。おとなしくお茶にしときなさい」

 一同の和やかな笑いが雛倉家に響いた。なんて愉快な夜なんだろうか。

「ぴぴぴぴぴ!」

 さて、キミの処遇に関する問題は一段落したとみていいだろう。疑問の氷が全て解けたとはいえないが、本当の春まではまだ少し間がある。だから、とりあえずこれでいい。

 こうしてイカれた化け物との対決は幕を下ろして、ここから俺の日常はエブリデイマジックなコメディ方向にシフトしていくんじゃないか、そんな予想もしたさ。ところがどっこい、主人公の身の回りにはどんでん返しと危険な罠がまだまだたくさん待ち受けていた。

 どうだよ、波瀾万丈だろ?


 

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