第一話:天狗のたまご・起
世界中に冒険なんてものがどれだけあるだろう。
主人公と呼ぶにふさわしい奴は何人いる?
俺はそんなことを考えながら、二度と上る予定のない坂を下っていた。たった独り、感動で飾られた喧騒を後にする。いいさ、いつまでも浸ってろ。俺はもうあそこに用はねぇんだ。
なんだよ――この寒々しい気持ちはよ。
考えてみりゃ無味乾燥な三年間だったぜ。それなりに歳相応のイベントはあったさ。でもな、これじゃあ俺はただの中学生でしかないじゃないかよ。俺の中学生活、終わってみれば理想よりずっと淡白で凡庸で平均的で保守的だった。俺自身どういうわけか周りに合わせて日和ってたのかもな。はははは……笑わせらぁ。もっとやっておくべき、いややりたいことがあったんじゃないのかって、今のこの気持ちこそ後悔ってんだろうなぁ。だけど、終わっちまったもんは仕方がない。キッパリ別れてケジメをつけるのが俺の正義だ。
頭で考えるのとは裏腹に、坂を下る俺の足はトロトロとしてちっとも校舎は遠くならない。あーあもう、我ながら未練がましいぜ。
「ちょっと、高司!」
後ろから軽快な急ぎ足の音が近付いてきた。
「待ちなさいよ!」
な、いい声してるだろ。今日まで俺の同級生で、これからも俺の幼馴染でいるヤツだ。彼女の名前は雛倉まこと。身長一五九センチ、体重は知らん。目測Cカップのショートボブ。
「あ? 第二ボタンならもうねーぞ」
「さっき自分で毟ったんでしょ。バカみたい」
まことは肩で息をしながら俺の横に並ぶ。女の甘い匂いがした。
「独りでどこ行くつもり?」
「帰んだよ」
「なんでよ。今日で最後なのに」
「最後ってお前、どうせ後で焼肉屋に集まるんだろうがよ。学校でうだうだやる気はねーよ」
「でも後輩は来ないし」
「俺には先輩も後輩もいない」
俺がいかにも薄情そうに、目も合わせないで言うと、まことは不満げに俺を睨んだ。ま、生まれ持った顔立ちが綺麗すぎて、怒っても怖くないんだがな。
「おばさんたちは?」
「おふくろ? どうせおばはん連中で世間話に花を咲かせてんだろうさ。俺には関係ないね」
そう。関係ないんだ。
柔らかい陽射しの下を冷たい風が通り抜けて、俺とまことの前髪を散らした。
「なにナーバスになってるの?」
「は? 別に」
「何か不満? やり残したことがあると思ってるんでしょ」
おいおいお見通しか? 参ったぜ。
けどなまこと、何をやり残したのかは生憎俺にも分からねぇんだ。
「そうだな」
珍しく無理にニヤついて言ってやる。唇が触れ合いそうな距離にまで顔を寄せてな。
「お前ともーっと愛し合いたかったな、まこと? ちょうど二人きりだしキスでもしとくか」
「ばっ、ばか‼」
殴られた。
「いってえぇ……」
まことの一撃はいつも重い。握り拳だもんな。そこは平手打ちとかにしろよな。
「しっ、心配してあげたのに結局いつもの高司じゃない! もう知らないんだから」
顔を真っ赤にして、まことは俺に背を向けた。
「おう心配いらねぇぞー」
腕の角度で怒ってますアピールをしながら去っていくまことを見送り、また心が変に沈んでいく。ちぇ、ここでキスの一つでもできりゃ不満もウソみたいに吹き飛ぶんだがなぁ。
証書と筆箱しか入っていない鞄を担ぎ直して、俺も何食わぬ顔で帰路に就く。
けっ、カラスどもが能天気に鳴いてやがる。
「何がカーだよ畜生」
悪態をついたがお構いなしだ。つまんねぇなぁ。
「……ねぇ高司」
不意に声がした。振り返ると、走り去っていったはずのまことが不思議そうな顔でまたこっちに歩いてきていた。どうかしたのか?
「いま、何か聞こえなかった?」
「何かってなんだ。カラスの鳴き声か?」
「違うわよ」
「だったら俺の胸の高鳴り」
「もうバカ、そういう話じゃなくて! 人の、小さい子供の声みたいなの」
「聞いてねーぞ」
辺りを見回しても、犬の散歩してるちっこい婆さんがいるだけだ。子供なんていない。まことは偶にこういう妙なことを言いだして周囲を困惑させる。一種の天然ってやつか。
「ババアと犬しかいねーじゃんかよ。お前、答辞の読み上げで緊張しすぎてヘンになっちまったんじゃねーの?」
「南中一番の変人に言われたくないわね。あと、せめてお婆さんって言いなさいよね」
「お前こそ人のこと変人とか気安く呼ぶんじゃねぇ。没個性的な集団の中で俺のパーソナリティが燦然と輝いてただけだっつの」
「冗談はおいといて……ほんとに何も聞こえなかった?」
「ああ。鳥の鳴き声かなんかだろ。ほらいるじゃんギャーって鳴くやつ。なんだっけ、名前忘れたけど」
「そんな感じでもなかったんだけど」
「いいから戻って後輩どもと話してこいよ」
「そう……うん、行ってくる。また後でね」
「告白されても断れよ!」
「……バカ」
「ありがとな!」
まことがまた背を向けた瞬間を狙って、俺は言った。振り向く顔が見たかったからだ。
「……え?」
「わざわざ俺を追っかけてくれてありがとなって言ったの。じゃあ後でな」
ひいぃ。カッコつけたのはいいが急に気恥ずかしくなっちまった。今度こそ早足になって俺はその場を離れていった。まことがどんな反応したか? 見てられっかよ。
俺の住んでる亀野守って町は、はっきり言って田舎だ。隣の白湖ほどではないにせよ、山に囲まれたパッとしねぇ土地だ。さすがに中学や高校がある辺りは建物も人通りも多いけどな。
歩き慣れた道を独り往く。
ゴミ捨て場の脇ではホームレスみたいなヒゲのおっさんが座禅を組んでいた。見かけねぇ顔だが、あのおっさんもどこぞを卒業して、ここらで解放的な新生活でも始めるつもりなのかね。けど、家もねぇなら座禅組むより求人雑誌でも読んでた方がいいんじゃないか。
俺には関係のないことか。
はぁ。
さっきほどではなくなったが、やっぱり俺の中にはいいようのない思いが燻っていた。なんかこう、力の全部を出しきるまで暴れてやりたい気分だ。誰かケンカ売ってきたりしねぇかなっと。いたらぶっとばしてやんのに。そんな奴ぁこの界隈にはいねぇか――。
と、思った矢先だ。俺の左肩に、向かいから歩いてきた奴の右肩がぶつかった。
「おい」
ぶつかってきたのは学ランを着崩して、だっせぇピアスと十字架のネックレスなんか着けちゃってる、いかにも不良ですヨってな感じの野郎だった。バカそうなのに絡まれたなぁおい。
「あ?」
「ぶつかっといてその態度なんなんだよ。ナメてんのか」
おいおいおーい典型的すぎんだろ! こりゃ時間潰しにはもってこいの遊び相手だな。
「はぁぁん⁉ おいお前こそフザけてんじゃねーのその態度? お前どこ中だよコラ。襟足だけ染めてっけどそれカッコイイと思ってるわけ? はっきり言って全ッ然似合ってねぇからな! 誰にも指摘してもらえないってそれ相当可哀想な人生送ってきてるからなお前!」
こいつ、首筋覆うくらい伸ばした襟足だけ金髪にしているのだ。ビジュアル系バンドかっての。ちょっと笑っちまうな。ぶへへへへへ。
「おォん⁉ 髪は関係ねぇだろ‼ てめ俺が誰か分かっててンな口利いてんのか⁉」
「こんなダセぇ髪の知り合いがいるわけねーだろいい加減にしろ!」
「てめぇコラァ! どこのどいつだオラァァ‼」
挑発に乗って、なんだかよくわからない不良は俺の胸倉を掴んで吠えた。
「はん、南中の勝間高司様を知らねぇとはモグリだな? 和名エリアシモグラ」
「あぁ⁈ 何様だコラぁぁ‼」
「何様でもねぇ俺様だよ! 世界一偉い俺様だ!」
「な……やんのか⁉」
「おぉう上等だコラぁ! 俺の強さナメんな!」
「おぉい‼ てめぇ、いいんだな? 俺はムシャクシャしてんだぞ、今の俺怒らせてタダで済むと思ってんなよ」
お前もかよ。気が合うじゃねーか。
「どうした? さっきから威勢がいいのは口だけだなぁ? お前から喧嘩吹っかけてきたクセにビビッてんのか? さぁ来いよ。こっちだってムシャクシャしてるんだぜ。売られたからには高値で買ってやる。へへっ、釣り銭ごとくれてやらぁ」
「てンめぇ‼」
こういうときは思い切りやり合うに限る。往来の冷ややかな視線を浴びながら、俺たちは同時に鞄を放り投げて間合いを取った。高揚してきたぜ!
だが。
<たすけて!>
「あぁ――?」
突然、俺の頭に刺すような呼び声が響いた。それも子供の声だ。
「おぼぁ!」
直後、俺は不良馬鹿のパンチを顔面に食って後ろ向きにすッ転んだ。ちくちょう、油断した! 頭がぐわんぐわんしやがる。
「お……お前な、不意打ちはいかんだろ……」
「どこが不意打ちだよ!」
「ちょ……ともかく小休止。待て待て、タイムだ」
俺はフラつく頭を押さえてフェンスに寄りかかり立ち上がった。
「なんだったんだ? 今の声は」
「わ、わけ分かんねーこと言ってんじゃねぇ。かかってこいよ!」
「誰か助けてっつったような……」
「おぉい‼ 無視かよッ!」
俺たちを取り巻く見物人を見回すが、あんなソプラノボイスを発しそうな幼児は見当たらない。だが、代わりに俺の洞察力豊かな目は、雑踏の先に怪しい二人組を捉えた。
黒いスーツにソフト帽、サングラス、マスクで顔を完全に隠した男たちは、大きな革のトランクを二人がかりで持ち運んでいた。しかもそのトランク、細いロープで何重にも巻かれているうえ、中に生き物でも入っているかのようにカタカタ小刻みに揺れているのだ。不自然、あまりにも不自然だ。
トランクに閉じ込められて助けを求める幼女の姿を想像するのは簡単だった。
「お前ら待てッ」
俺はケンカそっちのけで二人組の方に走った。男たちは俺に気付くと、トランクを抱えたまま血相を変えて逃げ出した。やっぱりあいつら怪しいぞ、犯罪の匂いがする!
「お前が待てよ! どこ行く気だコラ!」
なぜか不良中学生も俺の後を追って走ってくる。もうお前に興味ないんだけどなぁ。
「待てっつってんだろォ!」
「だとよお二人さん!」
黒づくめのコンビは速かった。そこらの大人には負けない程度に走りには自信があったのに、俺と奴らの距離は一向に縮まらない。奴らと不良の距離も同じだ。
「あっちだ!」
片割れが進路を指差し、もう一人がうんと頷いた。
<たすけて!>
そして二人は角を曲がって古い家や営業してんだかしてないんだかって商店が並ぶ入り組んだ路地に逃げ込んだ。
<こわいよ!>
俺には確かに聞こえていた。幼稚園児くらいの、小さな女の子が必死に助けを求める声。まさか、さっきまことが聞いたのはこの子の悲鳴だったのか? 迂闊だったぜ。
「待ってろ……今助けてやる」
「おい、てめ、さっきから誰に話しかけて――」
「もうバテてんのか? 体力ねーなおい!」
「だっ、黙れ!」
右かと思えば左に曲がり、西かと思えば東に隠れ、二人組は俺たちを撒こうとしている。
俺は走りながら、路上に転がっていた空き瓶を素早く、掬い取るように拾い上げた。
「これでも――くらえっ!」
「……いだい!」
ナイススロー。瓶は背の低い方の男の頭にぶち当たった。帽子がずり落ちる。二人のスピードが急速に落ちていった。今なら追いつける!
「おい襟足バカ。あいつら取り押さえるぞ!」
「誰なんだよあいつら!」
「そんなこと俺が知るか! いいからいくぞ!」
頭を打たれてグロッキーな相棒を引きずって、ノッポの方はよろめきながら進んでいく。そうして二人は、俺たちの町の片隅にある小さな廃ビルに逃げ込んだ。しめた、袋の鼠だ。
「おっ、おおっ⁉」
キキーッってな感じの効果音がつきそうなぐらいの急ブレーキ。立ち止まったのは襟足野郎。
「ここ、これ幽霊ビルじゃねぇかおい!」
そういえば小学生の頃はそんな呼び名で囃してたっけな。って、こいつ真っ青になってんじゃんかよ。なんという怖がり。それでよく俺にケンカ売ってきたもんだな。
「お……おい、行くのか? ガチでか?」
「怖けりゃそこでじっとしてろヘタレ襟足野郎! 幽霊が怖くて人間やってられっか!」
火が点いたからにはもう止められねぇ。俺は襟足を置き去りにして、勢いをつけ暗いビルの中に飛び込んだ。ここは元々何かのオフィスだったらしいが、俺が物心ついた時には既に無人だった場所だ。どういうわけか今に至るまでずっと取り壊されないでいる。
「どこ行きやがった!」
コンクリ剥き出しの灰色の部屋で俺は耳を澄ませる。さっきの子の声も、物音らしい物音も聞こえはしなかった。天板のなくなったテーブルのパイプ脚に蜘蛛の巣が張っている。壁にはスプレーの落書き。ひび割れだらけのタイル床は砂と埃に覆われている。
「おいっ」
背後の怒声に振り返ると、入り口から襟足野郎が覗いていた。
「怖ェわけねぇだろうが。全ッ然ッ怖くねぇ」
心の準備は済んだらしいが声が裏返っている。
「だったらどこぞの家政婦みてぇなカッコしてないで来い。あいつら、たぶん上だぜ」
俺は顎で階段を示した。窓には外から板が打ちつけられているから、一階に出入口は一つしかない。出ようとすればすぐ分かるはずだった。
「よ……よし、なんだか知らんが付き合ってやる、怖くなんかないからな」
「へへっ、ただのバカかと思ったら意外と度胸あるんだな。名前、なんてんだ?」
「どっちがモグリだかな」
俺が気を利かせて訊いやると、襟足は調子に乗ってふんぞり返った。やっぱバカだな。
「木瀬川だ。東中の、いや、元東中の木瀬川龍我」
「聞いたことねぇが……どうせ札付きのワルとかいうやつだろ? まぁいいや、卒業おめでとさん。俺もさっき中学生辞めてきたとこだ」
「めでたくなんかねぇ。ムカムカしてくるだけだ」
「ますます気が合うね」
俺たちは臨戦態勢で階段を上っていった。殴りかかってくるのはいつでもいいぜ、不審者さんよ。こそこそしてないで出てこいっての!
階段を上がる一歩一歩が、静かなビルによく響く。こつ、こつ、こつ、こつ。さぁ二階だ。
「……いねぇな」
二階もまた灰色。人の気配はなかった。人以外の気配? 知るかよ。だけど俺の目当ての物はあった。
「見ろよ木瀬川」
破れ目だらけのソファの上に、奴らが運んでいたトランクがぞんざいに放り出されていた。さっきと同じように小刻みに動いている。やっぱり中に人がいるんじゃないのか。
「動いてる!」
「行くぞ」
俺がトランクに駆け寄った時だった。後れをとった木瀬川が、あッと驚きの声を上げた。そして俺の視界を真っ黒なものが覆い隠す。ギャアギャアギャア――けたたましいカラスの叫び声がして、次の瞬間俺は胸を蹴り飛ばされて後ろに飛んだ。
「うぐっ」
壁に叩きつけられて呻き声が漏れた。痛ぇ、どこに隠れてやがった?
「畜生め……!」
「おい……おい……!」
木瀬川は例の二人組と対峙してわなわなと震えていた。俺の方はそこまで臆病じゃない。凛々しい顔つきを作って、きっと連中を睨みつけて――。
なんだ⁉
「なんなんだお前ら⁉」
俺と木瀬川は度肝を抜かれた。この時ばかりは頭がおかしくなったのかと思ったぜ。だってよ、目の前に立ちはだかってたのが化け物だったんだからな。信じられるか?
そいつらの顔には太くて黒光りする嘴がついていた。でかい眼は黄色く光ってて、眉毛と髪が白いほかは、全体が黒い毛に覆われている。手には鋭い爪、足に至っては鳥そのものだ。背中からはスーツを破って、これまた真っ黒で長く大きな翼が飛び出していた。
カラス人間⁉ そんなバカな。
「人間の悪ガキ風情が我らの邪魔をするとは不届き千万」
「おらたちとお前たちの格の違いを見せつけてやっかな!」
ノッポとチビの怪人は人間の言葉を操って俺たちを威嚇した。この状況には俺も背筋が寒くなった。思うに、さっきの蹴りはほんの小手調べだ。あの爪で本気の一撃を食らったらひとたまりもねぇぞ。殺される。木瀬川なんかもう完全に縮み上がってる。
逃げるか? 階段はすぐそこにある。
けどよ。
<たすけて……>
まーた聞こえちまったんだよなぁ。声がさ。
<たすけて!>
「もちろんだ! 行くぜぇえええッ‼」
俺は助けを求めるレディを放って逃げるようなタマなしじゃねぇ!
「おらあぁ!」
拳を振り上げて二匹の化物に突進した。カラス怪人はガーガー喚いて向かってくる俺を張り倒した。尋常じゃない力だ。体が宙に浮いた。そして落下! 今度は思い切り背中を打った。
まずい。動けねぇ。俺は無様に寝っ転がったまま痛みに呻いた。
「カッカッカ、やはり人間は大したことないな」
チビが俺をバカにして笑ってる。悔しいが、本当に今の俺は大したことなかった。だけど人間、図星突かれると余計に腹が立つもんでな!
「ふざけんな!」
「げふ!」
もう一度体を起こして正拳突き。渾身のパンチは憎らしい化け物の鳩尾にクリーンヒットした。チビの方はよろけたが、すかさずノッポが俺の襟首を掴んで横に投げ飛ばした。また壁に激突して俺はダウンする。今度こそダメかもしれないって気がした。そんな俺を蔑むように見下ろして、ノッポの鳥人間がトランクに手をかけた。
「乙坊、飛ぶぞ。遊んでおる暇はない。急がねば杉山に勘付かれる」
「そうじゃな。親分もお待ちかねだろうしな!」
翼がばさばさと動いて室内に風を巻き起こす。すぐに二人の体が浮き上がった。しまった、二階の窓は普通に開いてるじゃねーか! このままじゃ逃げられる。
「待てよ‼」
這いつくばる俺は腹から声を出して怒鳴った。けど、思うように声が通らなかった。化け物二匹がまた俺を見る。俺は、力の入らない手を伸ばしてトランクを指差した。
「震えてんだろうが、助けてって言ってるだろうがよ! お前ら幼気なガキ泣かせて何しようってんだ! そのトランクの中にいる子を出せ!」
化け物たちの目つきが、さっきまでよりずっと冷酷な輝きを発した。
「お前、ただの人間ではないな。何者だ」
「何者だぁ? 嬉しいね。お前なかなか見る目があるぜ。そうさ俺はただの人間じゃない。とびきり高級な、特別の存在だ。つまりな、へっヘヘヘ、俺は俺、勝間高司だ!」
びしっ、と相手を指差して名乗る。我ながら惚れ惚れするね。俺はこうしている間にも必死で逆転のきっかけになるものを探した。どこのどいつが持ってきたのか、ここは一回にも二階にも雑多なゴミが散乱している。ゴミだから碌なもんはないが、使いようによってはチャンスを作れるはず。視神経が焼き切れちまいそうなほど目を凝らして、結果、あるものを見つけた。
よし。
「おらああっ」
上体を起こしていた俺はそのまま前のめりになって、ソファの影に落ちていた聖剣――骨だけの傘を手に取った。柄のフックの方を猪口才なノッポの股ぐらに滑り込ませる。
そして――分かるな?
容赦なくグイっと。
「んあっ」
がくん、と野郎の体が揺れ、いや、崩れ落ちた。
「があああああ⁈」
「兄さん⁉ 兄さぁぁぁん‼」
狙い通り悶絶だ。股間を抑えて苦しんでるヤツからトランクを引ったくり、硬直している木瀬川を連れて階段を駆け下りる。なんだよコレ、結構軽いじゃん。
「待てこら、あっ!」
「おおおおん」
チビの方は兄さんとやらに躓いてすっ転んだらしいや。間抜けめ。この隙に俺たちは廃ビル脱出だ。背後で大爆発ぐらい起きたっていいんだぜ?
「もう堪忍袋の緒が切れたッ! 待てい小僧ども!」
「兄さんタマの方は大丈夫か。先帰っとるか?」
「ええいうるさい! アレを取られておめおめ帰れるか!」
「アレ? タマか?」
「タマゴだ!」
なんだ? 奴ら、羽を引っ込めて人の姿で追ってくる。正体を隠したいのか。だけどよほど頭に来たらしくて、顔だけは変身が不十分、口がマヌケに尖ってる。
「おい木瀬川ァ! いい加減独りで走れよ追いつかれっぞ!」
「うるっせェェ! 走れりゃとっくに走ってる、腰が抜けてんだよ!」
「んなこと威張りくさって言うな!」
待て待てと喚きながら奴らが距離を詰めてくる。こっちは二人三脚だってのによ。参ったぞ、どうも選んだ逃げ道が悪かったらしい。これ、上り坂だ。
「おまっ、バカだろぉ」
「うるせーぞ腰抜け野郎!」
まずいヤバい。こうなりゃ一か八かで勝負をかけてやる。
坂の半ばで立ち止まった俺は木瀬川を離すと、奴らめがけて、跳んだ。
「勝間キーック‼」
「ぶはぁっ!」
今回も乙坊とかいうチビに当たった。だけど、相方が俺の足首を掴まえた。またか!
「やめろぉおおお!」
驚いた。木瀬川が坂を駆け下りてきたと思ったら、奴に当て身を食らわせたんだ。熱いタッグバトルじゃねーの。鳥人間は坂を転げ落ちていったが、なんてことだろうな、また羽を出して俺たちの方へ飛んできた。反則だろ、それ。相手が化け物になると木瀬川は途端にビビっちまうらしく、とうとう限界に達して気を失った。「きゅう」じゃねぇよ!
くっそぉ……無謀な飛び蹴りで捻挫したらしい、俺の足も痺れて動かなくなってる。へっへ、上等だ。それでも俺はトランクを死守するぜ。俺はその場に胡坐をかくと、トランクを抱えて蹲った。
来いよ。さぁ来い。早く来てみろ――でっかいカラスが風を切って迫る。ビュオオオォってな、俺への敵意が飛んでくる音だ。もうこれでお終いだな。
「くらえぇぇッ‼」
俺は、奴らをギリギリまで引きつけたところで両方の拳を力一杯空に突き上げた。化け物どもの顎に必殺必中のアッパーがめり込む!
どうだよこのファインプレー。俺の作戦勝ちだな!
鳥人間は空中で引っくり返り、そのまま何メートルか向こうにばったり墜落した。あーらら、完全に伸びちゃった。
「はーっはっはっはっはっは! 俺は勝つ!」
笑いが止まらなかった。これこれ、こういうのだよ! こういうスリルとアドレナリンが燃え滾る感覚だ、俺が求めてたのは。
身震いがするほどだ。たまらねぇ。
「見事な戦いぶりであった」
あん?
背後でいきなり偉そうな野太い声がしたせいで俺の笑いは止んだ。
「あ、あんた……?」
坂の上に仁王立ちしていたのは、校門を出て少し歩いたとこで見かけたホームレスのおっさんだった。 おっさん……だと俺は思ってたんだが、よく見てみれば鳥の怪人に負けず劣らず異様な風体だ。
「そなたのような人間の若者が、外道とはいえ烏天狗二人を退治するとはな」
顔の皺や弛みは老人のそれだ。だけど後ろに撫でつけた髪と長く伸ばした髭はびっくりするくらい黒々としている。
「こやつらめ、小細工をして儂の目を欺いておったか。その鞄に籠めた呪いで気配を断っておったのだな、愚か者め」
何より目を引くのは大きな鷲鼻。服は黒っぽいボロでみすぼらしいが、全体的な印象は異国の紳士かって感じにキリッとしている。背筋はピンと張ってるし、黄みがかった眼は人間離れした力強さだ。何者だ、このおっさん……?
ここで俺は決死の覚悟で救出したトランクのことを思い出した。早く開けてくれと言わんばかりに膝の上でカタカタ揺れてやがる。
「待ってろよ、いま出してやるからな!」
慌てて縄を解き、手際よく留め金を外して蓋を開けた。中には小さな女の子が……。
あれ。
なんだこれ。
「それは天狗の卵じゃ」
「天狗の卵ォ?」
確かに俺がトランクから取り上げたのは卵だった。殻は斑模様、サッカーボールより一回りでかいくらいのサイズの、ほんのり温かいやつな。
しかし、天狗ってお前。いや、実際襲われたし否定しようもなくなってるけどな。急展開すぎるだろ、と。アタマが追いつかねぇよ。
「おい。おいおい、どうなってんだよ」
「天狗界のさる夫婦の間に生まれた卵だ。そこで伸びておる盗賊どもに攫われたのを、儂が追いかけておったのだ」
おっさんは手にした杖で俺を指した。
「さぁ、その卵を渡してくれ」
「渡したらどうする」
「親元に帰す」
「おォい」
俺は皮肉っぽく笑ってやったさ。おっさんは怪訝そうにしてる。
「お前みたいなホームレスの戯言なんか信じられっか。こいつらの仲間かも知れないしな」
「うむ……疑り深いことだが、一理ある」
感心したように二度ほど頷くと、おっさんは杖を一振りして怪人こと烏天狗たちに向けた。すると杖からは白い光の帯が二筋シュッと飛び出し、奴らに巻きついて一瞬できつく縛り上げてしまった。
「これで信用したか」
「あぁ。けど、まだ……」
俺は視線で坂の上の樹を指し示す。そして老人にはちょっと聞こえそうもない小声で伝える。
「……いるんだ」
「なに」
おっさんの目付きが一段と鋭くなった。背筋が寒くなるな。
「そこかッ」
振り向きざまに杖から光線を発射する! 梢に光が照射されると、カラスの群れがギャアギャア大騒ぎして飛び去った。それを見たおっさんは不敵な笑い声を上げる。
「はっはっは、あれは魔縁の眷属ではない。ただの烏じゃ」
……。
…………。
返事なんてない。
「……どこに行った?」
ま、俺は隙を衝いて逃げてたんだな。当たり前だよなぁ。木の上に仲間がいたらそれこそ驚きだ。あんなビームオヤジをどう信用しろと? 無理な相談だぜ。
足の痛みを無視して走り、俺は脱いだ学ランで覆い隠した卵を抱え町中に戻ってきた。そういえば木瀬川を置いてきちまったが、まぁアイツなんかどうでもいいや。
「ったくよぉ、なんなんだこれ。天狗の卵って……玉子焼きにでもする気だったのか? いや、それじゃあ共食いか。だったら、身代金でも取るつもりか」
さっきのはハッタリだったが、実際奴らの仲間が近くに張っている可能性はあると思う。とりあえず俺の部屋にでも匿ってやるか……なんてプランを練ってたら。
「おわっ⁈」
卵は俺の腕の中で盛んに跳ねはじめた。
ちょっと待て、生まれるのか? 孵化すんのか⁉
「待てよ待てよ待てよ……今かよ⁈」
俺は右往左往した末に結局都合のいい隠れ場所にも出会えず、通行人どもに卵の孵化を披露する羽目になった。学ランを取り払うと、もう卵のてっぺんにはヒビが入っていた。ピキピキ音を立てながら、殻は急速に割れていってる。卵の中から殻を叩くような音と振動が伝わってくるのは、やっぱし鳥みたいなのが中にいるからなんだろうなぁ。
やべぇよやべぇよ、どうすんだこれ? もう周りの老若男女みんな俺の方見てるんだけど! 「ママーあれなにー?」ってママも訊かれたら困るからなそこのガキ! 「あれダチョウよ」って、これ天狗だからなババア!
「みっ見世物じゃねーぞ! 散れ!」
ぐああ余計に注目が集まってる!
なんて言ってる間に、とうとう、卵の殻が完全に割れて――。
「ぴい」
生まれた。
そいつが俺の胸に顔を出した途端、周囲がどよめき、拍手まで聞こえてきた。おめでとう! って、お前誰だよ。
「ぴい!」
頭に殻を被って元気よく鳴いてる天狗の雛は、当然のことながらどんな動物図鑑にも載ってなさそうな姿をしていた。まず肌は緑がかっていて、眉辺りの他には羽毛も産毛も生えてない。顔はさっきの烏天狗を幼くしたようで鳥に似ていて、長い嘴があるがまだ柔らかそうだ。頭にはいくつかの突起かコブみたいな盛り上がりがある。手足は二本ずつで人間的だが、骨ばった指先はどうも鳥じみている。眼は、人間の白目にあたる所が赤、虹彩が黄色い。
でな、雌だった。
ヒヨコの性別判定すら難しいのにどうして天狗の雛のことが判るかって?
男としての直感だよ。
「あー……とりあえずハッピーバースデー。お前も災難だったなぁ」
「ぴっ」
頻りに辺りを見回していた天狗の雛は、声に反応して俺の顔を見上げた。
「ぴぴぴ!」
「おぉそっかそっか。何言ってんだか全然わかんねぇや」
最初こそなんてバケモンだと思ったが、なんだよ、こいつ案外かわいらしい顔してんじゃん。
「天狗に刷り込みなんてないよな? 言っとくが俺はお前のおふくろじゃないからな」
「ぴょ」
そんなこと知ってるとでも言いたげな鳴き声だった。なんだこいつ、俺の言葉は分かるのか。
「ぴ……?」
生まれたばかりの純真無垢な妖怪は、俺が黙るとまた周囲を観察しはじめた。それでどうやら、自分だけは周りにいる連中とは種族が違うと気付いたらしい。ぴゃあ、なんつって驚いている。でもって、天狗の雛は衆人環視の中で俺の腕からぴょんと飛び上がると、頭三つ分くらい上の所で身を丸め、何を思ったかくるくると回転しだした。また周りから拍手が起こる。
雛は風をその身に絡め取って――ちょうど小さな竜巻のような白いオーラを纏うと、身軽に着地した。今度は絹糸か何かが解けるように白い気体が消えてなくなると、雛の姿が再び露になった。ただし直立してバンザイの姿勢をとる雛は、今さっきまでとは全く違う外見に変化していたんだ。
「できたー!」
と叫んだ雛の肌は白く柔らかくふっくらとしていて汚れなく……ええいまどろっこしい。雛は五歳くらいの人間の幼女に変身していた! しかも全裸!
「うわあぁぁぁ‼」
俺は雛幼女に学ランをひっかぶせて担ぎ上げ全力疾走した。冗談じゃねぇぞ! 公衆の面前でいきなり裸の幼女に変身する奴があるか! どんな大道芸だよ。そして幼女を学ランに包んで逃走してる俺は何者なんだよ! このままじゃ人生棒に振る結果になりかねねぇ!
「ねぇねぇ、どこいくの?」
「司法の手が届かない場所だな!」
でも新しく分かったことが一つある。助けを求めていたのはやっぱり雛だったんだ。この声とちょっと舌っ足らずの喋り方、頭に響いてきたあの声と同じだからな。生まれる前からテレパシーを送ってくるなんて、天狗ってのは驚くべき超能力の持ち主だ。
俺は人気のない倉庫の影に滑り込んだ。今日どんだけ走ってんだ、さすがに息が上がるぜ。だけどモタモタしてはいられない。おっさんや烏天狗が追いかけてくるかも知れないし、巡回中のオマワリにでも見つかったら俺自身がお縄になる。
雛の幼女は焦る俺を不思議そうに見つめていた。言い忘れてたがコイツ、髪が鮮やかな緑色なのだ。肌が白くなったぶん、元の体色が髪に反映されたんだろうか。天狗の生態なんて知ったこっちゃないが、緑髪の女の子なんて漫画やアニメ以外じゃそうそうお目にかかれない。これがまた可愛いんだよなぁ。
「ばけるの、じょうず?」
「ああ、とても初めてには思えないな。……ちょっと待ってな。じっとしてんだぞ」
「なんでー?」
「なんでじゃない。人間は裸でうろつくと死ぬの。社会的にな」
俺は携帯を取り出した。一縷の望みを託して電話をかける相手はマイエンジェル。
「……もしもし高司? 電話なんて珍しいわね。どうかしたの?」
「まこと! 子供の頃の服あるか? 四、五歳くらいの頃のだ」
「え……探せば残ってると思うけど、それが何か」
「今から言う場所にそれ持って来てくれ! できるだけ急いでほしい。あと子供用のパンツも買ってこい。いいか、場所は――」
「高司! なんでいきなり子供服? まず事情を教えてよ!」
「事情は後で話すが予め言っておくと俺は決して悪くないし法にも触れてないから安心しろ。むしろヒーローになったんだ。何しろ小さな命を救ったんだからな。じゃあ頼むぞ!」
言いたいことだけ言って切る。こうすればまことは来てくれると確信していた。
*
待つことおよそ一時間、まことは服の入ったバッグを手に、人目を忍んで倉庫裏までやって来た。どうにも緊張の方は隠しきれない様子で、ドラム缶の影に身を潜める俺に近付いてきた。
「まこと! 助かったぜ」
「高司……?」
聡明なる我が幼馴染、俺が何か言う前に、俺がだっこしていた幼女と目が合った。
「こんにちは!」
「こ、こんにちは……はぁ、かわいい」
まことも早速こいつの愛くるしさに心打たれたらしいが、お前だって可愛いぜ。
「高司、この子誰なの?」
「わたしね、キミ!」
緑髪の幼女は警戒心ゼロで名乗る。
「キミちゃんっていうの?」
「さっき俺がつけた名前な」
「どういうこと? あ、私はまこと。雛倉まことです」
「わぁい、まことー!」
「あっこら!」
キミはまことに駆け寄ろうとして学ランを抜け出した。キミが裸だったと知って、当然まことは驚愕する。すぐさま謎の女児を抱き上げて俺を厳しく睨みつけた。くるぞ金切り声!
「ちょっと高司! まさかこんな小さな子を」
「シャレにもならねー勘違いはよせ! とにかく服着せてやってくれよ」
「……そ、そうね」
まことが上機嫌のキミに服を着せてやってる間、俺はここに至るまでの事情を大まかに話した。レディの着替えを凝視するほどゲスじゃないもんで背を向けてはいたが、話が進むごとにまことが呆れていったのは相槌からもまったく瞭然だった。
「あのねぇ。さっきから天狗とか卵とか、私がおとぎ話を信じるような歳だと思ってるの? 怒らないから本当のこと言いなさいよ」
「子供扱いはどっちだっての。ウソなんかついてねーんだって。その証拠に鼻の長さは今までと同じだろ。どうしても疑うなら俺たちにも考えがある。ほらキミ、見せてやれ」
俺は振り返ってキミに指示を出した。生まれたばかりだがこいつは実に賢いのだ。
「はーい!」
と言うが早いか、キミは激しく首を振って元の烏天狗顔に戻った。
「ぴぴい!」
「ウソ……」
まことは口元を押さえて絶句した。卒倒するかと焦ったが、なんとか意識は保ってくれた。
「ほーら見ろ。勝間、嘘ツカナイ」
「カツマうそつかない!」
もういいぞと言うとキミは人の顔になり、俺はその頭にぽんと手を置いてみる。髪がサラサラなんだよなぁ。
「よく似合ってるぜ、ワンピース」
サイズもぴったりだ。
気持ちの整理をつけたまことがしおらしくなって言う。
「疑ってごめんなさい。世の中には不思議なことがたくさんあるのね」
でも、とまた俺を窘める口調に切り替わった。
「キミって名前の由来は卵の黄身でしょ。もう付けちゃったのはしょうがないけど、いくらなんでも適当すぎない?」
「何言ってんだ。こういうのは変に奇を衒わずシンプルなのがいいんだよ。当のキミだって気に入ってるもんな?」
「うん。キミ、いいなまえ!」
「そう……ふふふ、もうすっかり仲良しね」
キミの無邪気な笑顔を見ていると俺たちも自然と表情筋が緩んだ。もうゆるゆるもいいとこだ。これも一種の超能力ってところだな。それにしても、これからどうする。まことも同じことで頭を悩ませている様子だ。
「親元に帰してあげるべきよね。でも天狗ってどこに住んでるの?」
「キミ、生まれる前のこと覚えてるか?」
キミは指で唇をなぞりながら沈黙していたが、答えを見つけると俺たちに言った。
「わたし、たまごのなかにいた。おそとみてないの」
「あぁそっかぁ。これじゃ手がかりなしだ。あの烏天狗かおっさんをシメて聞き出すべきだったかな」
「そんな余裕なかったくせに」
「うっせ。手加減してやったんだよ俺は」
そこで、ぐうぅ――と俺の腹が鳴った。そういえば朝飯食ったきりなのに夕方に差しかかってるんだもんな。空腹の叫びを聞いてまことが吹き出す。
「あ! 笑ったな」
「何よ。別にいいじゃ――」
ぐうぅぅ。
今度はまことの腹が鳴った。
「ははははは! 俺より長ぇじゃん。なんだダイエット中か?」
「まったくあんたは……いい加減にデリカシーを身につけなさいよね」
ぐうぅぅぅ。
なんだ、一番の長鳴きはキミの腹の虫じゃないか。俺たちは顔を見合わせて大笑いした。
「おなかすいたね!」
「そうよね。キミちゃん生まれてから何も食べてないもんね」
「よし!」
俺は手を叩いて言った。
「これからのこと考えんのは後回しだ。キミも俺らと一緒に焼肉食うか!」
「やきにく?」
「美味いぞぉ。焼きたてアツアツの牛肉をタレにつけてな、こう野菜とかと一緒に頬張るんだ」
「やきにくー! キミもくう!」
「キミちゃん、食うじゃなくて食べるって言いなさい。高司みたいに下品に育っちゃだめなんだから」
すまし顔でさらっと俺を貶したまことは、小さなキミの手を優しく握った。
「行こっか」
まことがキミと歩きだす。なんか、まことが俺の恋人にもならないうちに急に母親になっちまったみたいで、変な焦燥を覚えた。だから咄嗟に軽口を叩いた。
「俺とは手繋いでくれないのかよー」
「高司は子供じゃないんでしょ?」
「さっきのは言葉の綾だ! 本当の俺はまことママのおっぱいが恋しい乳児なんだ!」
「殺すわよ」
「あっ、今のなし! ウソだって怒るなよぉ」
……痛てぇ。
足を挫いたのをすっかり忘れてた。無理を無理とも思わず走ったせいで、今になって一歩進むたび耳の付け根まで痛みが走るようになってきた。ま、湿布貼って一晩寝りゃ治るか。
「……ほら、早く」
ん? 立ち止まったまことが体を反らしてこっち向いてる。胸を強調してんのか?
「ど、どこ見てんのよ変態。肩よ肩。貸したげるから掴まって歩けば?」
心なしかまことの頬が紅潮しているような。
「まこと――」
「顔も手も擦り傷だらけ。ごはん食べる前に消毒だからね?」
「ああ……」
やっぱり聡明だ。俺を気にかけてくれてる最高の女だ!
「それじゃ遠慮なく」
まことの肩に手を回し、俺は少しだけ自分の体を彼女に委ねた。上着は脱いだままだったから、シャツ越しにまことの温もりと優しさが伝わってくる気がした。あとこれは大事なことなので強調しておきたい。いい匂いだ。
ありがとな、まこと。
キミとは手を繋げなくなったが、今の俺は凄く満ち足りた気分だ。
風が三人の前髪を揺らした。
冒険なんつうと大仰に聞こえるが――いや、それでも今日の出来事は冒険には違いなくて、そのうえ俺は主人公だった。短い間でも、世界に二人といない存在として輝いてたさ。
知ってるか? 主人公ってのはな、大抵「ひょんなこと」から大きな事件や騒動に巻き込まれて、明後日の方向に驀進してくもんなんだ。今日まではひょんなことってなんだよフザけてんのかなんて思ってたが、なるほど、確かに出会うもんだな、ひょんなこと。
俺は、だから、落日に胸騒ぎってものを感じてみることにした。
*
んで――。
焼肉屋に子連れで来店した俺たちが元クラスメイトから夫婦だなんだと散々冷やかされたのは言うまでもない。しかも俺は頬やら手やらに絆創膏を貼ってるし、まことはなぜだか恥ずかしそうにしているしで、下品な男なんかはバカなことこの上ない妄想をしてみたりするのだ。へっへっへモテない連中のやっかみは困るねぇ。つーかキミの緑色の髪にはツッコまねぇのな。普通気にするだろ、そこ。幸いキミは人見知りする子供じゃなかったから、卒業祝いの騒がしい雰囲気にも馴染んだし、母性を擽られたらしい女子どもにも可愛がられた。「キミちゃんかわいい~!」ってさ、そういう嬌声をさ、三年の間に一回くらい俺にもかけてほしかったなぁ。
「勝間にこーんな可愛い姪がいたなんてね」
「だから姪じゃなくて俺の母親のいとこの旦那の弟のホームステイ先の」
「ねー! 全然似てない!」
そりゃそうだ。親戚の子だなんてまこと考案のウソだもんな。どうせエピローグのモブども、今日で交流が絶える奴も多いんだから適当に言っとけばいいんだよ。
「カツマにてないよ! だってキミね、てん」
「わああああ! キミほら豚トロ焼けたぞ!」
喋るな喋るな! なに首傾げてんだよ、店入る前に言っただろ。お前はいま謎のかわいらしいゲスト幼女ってだけでいいの。正体が天狗なのはトップシークレット。
「とんとろ?」
って疑問なのはそっちかよ。
「とんとろたべる!」
鼻息荒くキミは叫んだ。そう、キミは生後数時間の雛鳥とは思えないほど食欲旺盛だった。あのちっこい体で俺と同じくらい食う――おっと、食べるんだぜ。胃袋は一人前以上だな。
子供の面倒を見る傍ら、俺は。
最後だからか、色んな奴と色んな話をした。そうしてるとあぁコイツは知り合った時とは随分印象が変わったなぁとかコイツとはあまり話してなかったなぁとかさ、そういう感想や思い出が心の中で湧いては消えて、なんだか――なんだかな。
まさか寂しいわけでもないだろう。俺はもう、新章に突入する気でいるんだからな。
なんとも思っちゃいない。
で、宴も酣ってところで散会。健全な高校生がギリギリ許される外出時間になって、俺はようやくまともに家路に就いた。幹事を務める元学級委員長に自分の払い分を預け、一足先に店から出る。どうやら束縛がなくなって浮かれきった連中は二次会でカラオケに繰り出す気でいるようだが、俺はそっちは遠慮しよう。
「これで酒でも飲めりゃ盛り上がったんだろうけどな。ま、大多数は卒業祝いの雰囲気に酔ってたみたいだが」
「ふーん。そういう高司は素面なんだ」
「なんだよ」
俺の前に回ってきたまことがニヤニヤしている。なんだ可愛い顔しやがってちきしょう。キスしてやろうかな。
「カラオケ行かねーの?」
「私がいないと困るんじゃない? キミちゃんのこと」
腹一杯になったキミは俺の背中ですやすや眠っていた。天狗だけど天使みたいだな。
「家に連れて帰るにしても、おばさんになんて説明するつもり?」
「そりゃお前、ありのままに迷子の天狗だって言えばいいだろうが」
「だーかーら!」
気怠く答える俺に、まことは口を尖らせる。
「迂闊に喋っちゃうとどこから情報が洩れるか分かったもんじゃないでしょ! 卵誘拐犯の仲間が天狗の子を探し回ってるとしても、まだそれがキミちゃんだとは知らないはずなんだから」
「お前もでかい声で天狗がどうとか言うなよ」
「あっ」
「はははは! 心配すんなって。天狗の一匹や二匹、俺がパンチ一発で華麗にぶっ飛ばしてみせるさ。所詮はトリだ。そこらの人間様には勝てても俺様には勝てない」
「自身過剰。驕れる者は久しからずなのよ、ちょっとは警戒しなさい!」
もういい、といってまことは俺の三歩先まで進むと、俺に向き合い両腕を広げた。
「お? ハグか?」
「ばーか。キミちゃんは私のとこで預かるって言ってるの。高司じゃ危なっかしくて任せられないわ。変態だし」
「お前こそバカか。俺の強さナメんな! 何が来ようとキミは守る。それに俺は毛が生え揃ってない女は恋愛対象にしな――ってぇ!」
殴られた。突発的に暴力的になるんだよなこの女。
「まことのゲンコツでも天狗倒せそうだな」
「冗談言わないでよね。私やキミちゃんはか弱い乙女なんだから」
「はいはい、か弱い乙女ね。よっく覚えておきますよ……」
ゆらり、と。
いや、ひらりとか?
何気なく視線を投じた前方の暗闇の中に、何かが動く気配がした。かつ、かつ、というのは足音だろう。誰かが俺たちの方に歩いてくる。
「あ……!」
思わず声が出た。
ネオン看板に照らされてそいつの姿が明らかになったとき、俺は時間が凍りついたような錯覚に陥った。いまだ俺を見ているまことは背後の変化に気付いていない。
「高司どうしたの?」
「おっさん……!」
そうだ。俺の方へ歩いてくるのは、昼間のあのおっさんだったのだ。なんてことだ! まだこの町をうろついてたのか。俺を見る目には昼よりも不穏な殺気めいたものが宿っていた。
「裸子は既に生まれたか。背に負うているのがそうだな」
声に驚いたまことが俺の後ろに飛び退いた。
「ねぇ、この人誰?」
「さあな」
おっさんは俺に手を出すと見せかけて、その実俺ではなくキミに手を差し伸べて言う。
「天狗界へ帰らねばならない」
喋る度に大きな鷲鼻が上下する。まるで嘴みたいだ。どうせこいつも天狗だろう。
「さぁ。その子をこちらへ」
「嫌だね」
「なぜ」
「察しろよ」
「そなたには感謝しておるのだ。だから儂に手荒な真似をさせないでくれ」
「手荒な真似?」
あぁイライラしてきた。なんだってこいつはこんな偉そうな口を利いてくるんだ?
かつ、かつ。硬質な足音が耳障りだぜ。
「大体てめぇは誰だよ。あの烏天狗の仲間じゃないのか?」
「言うに及ばず。あのように下品な者どもと同じに思われるのは甚だ心外である」
「それ以上近付くな!」
こつ。音が止む。照らされた足には一本歯の下駄が。
「仲間じゃないならキミの父親か? それとも祖父さん?」
「キミ……?」
おっさんは不可解そうに眉間に皺を寄せた。この顔がもう、強烈に厳めしい。キミの外見くらいの歳のガキだったら大泣きして小便漏らしながら引っくり返りそうなほどだ。
「この子の名前だよ。俺がつけた!」
「勝手なことをしてくれたな。まぁ仕方あるまい。儂は、その子とは血の繋がりはない」
「だったら俺たちはあんたに用はない帰ってくれ。子供の居場所が知れてるんなら親が迎えに来るのが筋ってもんだろう」
「それはできぬ相談。天狗には天狗の為来がある」
「我が子ほったらかしてまで守るしきたりなんぞあるかよ!」
つい熱が入って大声を出してしまったせいで、背中のキミが目を覚ましてしまった。
「ふぁ、カツマ……?」
「悪い。俺ちょっと穏やかな話し合いの最中でな」
「カツマ、おこってる」
「怒ってないさ。大丈夫だ、心配しないでいい」
無垢な天狗の雛は事態を呑み込めず目を擦っている。俺の後ろには凡その事情を察したまことが、キミを守るように立っている。同窓生たちはこの一触即発の現場には鼻もかけない。
怪しいおっさんがゆっくりと手を動かした。何をするのかと俺は身構えたが、ただ長い顎髭をさすっただけだった。
「素性を明かさば儂を信用するか」
「聞いてみるまでは分からねぇな」
「よかろう」
黒衣の不審なおっさんは俺をきっと見据えると、自信に満ちた声で朗々と名乗った。
「我こそは常陸岩間山に住まう仙にて十三天狗の首領。名は――杉山僧正」
杉山……なんだって?
取りあえずヤバい存在と対峙していて、今が一歩も退けない状況だというのは伝わった。