獅子と鈴蘭
彼女は、「鈴蘭の君」という呼び名に、ふさわしい女性だった。
彼女をよく知らない人間は、彼女の可憐で儚げな美貌を鈴蘭になぞらえたのだろう。
もちろん、彼女を間近で見た俺も、なるほど鈴蘭に相応しい女人だと思った。
でも、彼女はそれだけではない。激しく燃え盛る焔のような心と、貴族の賢さを持ち合わせていた。
…………本当に、鈴蘭とはよく言ったものだ。
その可憐さは人を誘い、手折れば根の毒で人を死に至らしめる。
雲一つない蒼い空と、爽やかな風が窓から吹き込むこの部屋は、俺にあの日を思い出させた。
………………
あの時、俺は相当荒んでいた。
新国王となり、やるべき仕事が山積みだったからだ。
俺は元々、王太子に最も近い第一王子などという存在ではなかった。
王の庶子──つまりは、父である国王がかなり身分の低い女性に生ませた子、王族の末席を文字通り「汚す」子どもだ。
兄たちやその取り巻きの貴族には散々詰られたが、権力とは程遠い位置にいる俺は、全く気にせずに日々を送っていた。
───そんなある日だ、父王が崩御したという報せが城を駆け巡ったのは。
そこからは血で血を洗うような醜い王位争いが続いた。
俺は無関心を貫いていたが、その戦はある日突然終わりを告げた、最後まで生き残った第一王子と第四王子の相討ちというかたちで。
かくして第八王子である俺は、望んでもいない玉座を手に入れた。
彼女と初めて会った日は、仕事も落ち着き、部下たちが頻りに妃を勧めてくるのに辟易した俺が遂に折れた日でもある。
「ごきげんよう、陛下。」
微笑みを湛えて挨拶をする彼女は、他の妃候補たちよりも大人びていて。
彼女なら恋だの愛だのに現を抜かさず、妃としての務めを果たしてくれるだろう。
そう判断した俺は、彼女との婚姻を承諾した。
それからというもの、彼女は俺の婚約者という名目で城にやってくるようになった。
「陛下、」と呼ぶ鈴のような声と彼女の艶然とした微笑みは、いつしか城の名物となった。彼女はしっかりと王族としての務めを果たし、それでいて仕える人々への配慮を忘れて傲慢に振る舞うこともない。
俺はそんな彼女に恋愛的な意味ではないが好意を持ったし、城の人間も彼女を受け入れ、この政略結婚は成功したかのように思えた。
数カ月たったある日のこと、俺は、彼女に部屋に呼び出された。
雲一つない青空と、窓から吹き込む爽やかな風。
彼女は顔を伏せて、城の最上階にあるこの部屋から、遥か遠くを見ていた。
「……おい。」
俺の声に、彼女は振り返って微笑を浮かべる。
「陛下、お待ちしておりました。」
「………用は何だ。」
政務で忙しかった俺を呼びつけ、のんびり空を見ている彼女に、思わずきつい口調で呼びかける。
すると、彼女の眼が優しさと慈しみの色から、決然とした苛烈な色にすりかわったのが見え、思わず俺は息をのんだ。
「私、王妃を辞退させていただこうと思います。」
「………そう簡単にはいかない。」
何を今さら。………あぁ、この娘も所詮は貴族。わがまましか言わない深窓のご令嬢ということか。
軽い失望が去来する。
けれど彼女はクスッと笑って、言葉を紡ぎはじめる。
「ええ、重々承知ですよ。………それでもです。大丈夫です、これは私の罪になるよう、手を回してありますから。」
思いがけない言葉を聞き、眉をひそめてしまう。
「……どういうことだ。」
彼女は、俺が珍しく感情を顕にしていることに、笑みを深めた。
「ですから、貴方が愚王などとそしられることはないと言っているのです。」
彼女はさらさらとした髪をかきやり、耳にかける。
溜め息をつき、彼女は目を伏せてから、俺にその視線をもう一度合わせた。
「あなたはご存知ないでしょうが、私には愛している男性がいるのです。」
俺の沈黙を、続きを促しているととった彼女はそのまま話をつづけた。……やはり彼女は察しがよい。だからこそ彼女が王妃に最適だと思っていたのだが。
「私は、その方の元へ行こうと思っているのです。」
しかし、やはり俺の過大評価だったのか。彼女は貴族としての役割を心得ていなかったのか。
「……やはり、認めることはできないな。お前はそれでいいのかもしれないが、お前が王妃を辞退したことでこの国の安泰はどうなる?王妃に逃げられた俺の立場は?お前の一族の体裁は?」
自分でも険しい顔で問い詰めていることに気が付いてはいたが、期待していた分彼女を責める口調が強くなる。
彼女はそれでも余裕の笑みを浮かべて、言った。
「大丈夫です。何も問題ありません。」
……やはりだめか。俺もため息をついて、言葉を放つ。
「ならば、良い。……お前は俺の期待には応えられないようだ。王妃を辞退せよ。」
「仰せの通りに、陛下。」
淑女の礼をとって、顔を上げた彼女に、俺は軽く目を瞠る。彼女は本当に幸せそうに、まるで花がほころぶように微笑んでいたからだ。
鈴蘭の君に相応しい。月並みな言葉だが、そんな感想を抱かずにはいられなかった。
やがて彼女は再び窓のほうを向き、蒼穹に向かって手を伸ばす。
「お元気で、陛下。……私は貴方の幸せをいつでも願っております。」
彼女は少し振り返って言う。青空へ溶けていってしまうのではないか。そんなくだらない不安が心にふと浮かび上がり、伸ばした腕は空を切った。
………………
それからのことはスローモーションのように見えたのでよく覚えている。
彼女は窓から飛び降り、この世を去った。
後日、彼女の恋人が権力に妄執する彼女の父によって葬られたこと、それで彼女は父を憎んでいたことを知った。
彼女は圧政を敷いていた父の領民をたきつけて暴動を起こさせたらしい。その男の悪事は断罪され、罪人の娘となった彼女は秘密裡に葬られた。…………まったく、旅立つ前に自分の身辺を整理していくとは。俺の期待はそう外れてはいなかったらしい。
今から思えば、俺は少なからず彼女に惹かれていたのだろう。俺は期待だと思っていた彼女への思いには恋情も含まれていたのではないか。今となっては憶測の域を出ないが、やはりそうであろうと思われる。
儚げで優しい振る舞いと、その中にある苛烈な色。そして、届かない存在である貴女に、俺は恋をした。
俺も、貴女が遠い世界で幸せであることを願う。
「陛下、そろそろお時間です。」
遠慮がちに入ってきた侍従が俺の長い回想と彼女への追憶を遮る。
部屋を出る間際にふと振り返った窓辺には、供えた鈴蘭が風に、可憐に揺れていた。