第3記
その日は穏やかな小春日和だった。森を抜けるその街道は道々小鳥のさえずりに満ち、ウサギやリスが時折道端を横切ってゆく。
春爛漫といった風情は、あたり一面が喜びに満ち溢れているようでもあった。
「それにしても、ここってドコだよ?」
遠くに見渡せる山々の頂を眺めながら、テトラはその疑問を口にした。
「どこやろな。パーソロンを出港してからだいぶ南に来たしな……」
「誰もここまでは来たことないはずなりよ」
「……」
時は大航海時代を迎えようとしていた。国家事業として、また財閥は巨万の利潤を得ようとこぞって巨大な船を建造し、未知なる海を開拓して新天地を目指そうとやっきになっていたのだ。
それに乗じたわけではないが、彼らエムターンも巨大になりすぎた船団の新たな拠点を探そうと、未開拓の土地を探している途中というわけだった。
「もしや……」
それまで口を閉ざしていたマークだったが、その話題になると静かに言葉を繋いだ。
「伝説のハイペリオンではないのか?」
それを聞くとテトラにも思い当たる節があるようだ。
「おお……ハイペリオンか……」
「知ってるなりか?」
「いや、全然」
「じゃべるなボケ!」
「……」
ため息混じりに語り始めたマークの話によれば、彼らの住む大陸ターントゥより遥か南、灼熱の海を越えた向こうに魔法が支配する伝説の国があると言い伝えられているそうだ。
「魔法ねえ……見たことねえけどな」
テトラにとってはさほど興味が湧くようなものではなかったようだ。むしろ頭から信じていないように見える。
「それより食い物と服が先決だな」
極限の空腹ですでに足元がおぼつかない状況だ。もはや視点すら定まらなくなってきていたのだ。
さっきの男が徒歩で歩いていた割には軽装だったことを考えると、さほど街までは遠くないはず……と、テトラは頼りない脚に鞭打つと、少し歩様を速めた。
歩くことさらに数時間、日が暮れかけた頃に建造物が見えてきた。
それは夕日を背に、黒い影を延々と横たえている。どうやら城壁に囲まれているようだ。
10メートルは遥かに超える城壁が両翼に広がり、その切れ目が見えないほど長く続いている。想像だにしていなかった城砦都市が一行の前に立ちはだかっていた。
「やばいんちゃうか?」
「どうするなりか?」
「どうするっつってもよ……」
道は大きな城門の前に続いていた。
その門は開け放たれてはいるものの、物々しい甲冑に身を包んだ衛兵が両脇に数人控え、また門の上にはおどろおどろしい猛獣か魔物と見られる彫刻が槍を構えてそびえている。
その威容に足を止めた三人だったが、マークだけはひとり、気にする風もなくずかずかと門へと踏み込んだ。
「ちょっと待て、この街のものか?」
銀色の鎧が鈍く夕日に照らされている。マークは特に動じる様子もなくさらりと答えて見せた。
「旅人である。何か不審でも?」
「いや、その服が……」
「趣味である」
静かに、しかし押しの効いた声は衛兵を妙に納得させたようだ。『どうぞ』と言うとマークを通していた。
「やるなあ、じゃあ俺も行くか」
続いてテトラが門を通る。こちらはすんなりと問題があるはずもない。しかし次のチェリーは少し手間取ることとなっていた。
「なぜ貴様のようなデブがメイド服など着ておるか?」
「しゅ……趣味なりよ」
「醜い! 入ることまかりならん!」
けんもほろろに追い返されようとしていたが、マークが一言『我と同類である』と助け舟を出すと、渋々衛兵は許可を出した。
「じゃあ行くか」
テトラたち三人は早速食料を求めて街の中へと足を踏み出したのだが、その後方では激しく言い争う声が響いていた。
「貴様だけは通ることまかりなかんぞ!」
「なんやとコラ、なんで俺だけアカンねん!」
「見えておる! 不浄なものが見えておるではないか!」
「おのれも持っとるやろが……あ、お前らどこ行くねん。待てやおい!」
三人の耳にはもはやスパチャホフの声は届いていないかのようだ。夕暮れの城門にはいつまでも獣のように吼える男の声が響いていた──
おそらくは街の繁華街といったところだろう、月の輝きさえも薄れそうなほど周りには煌々と灯りがともされ、雑多な人々が食べ物を、酒を手に通りを埋め尽くしていた。祭りの喧騒を思わせるこの賑わいは、この街がいかに活気に満ちているかを窺わせる。
道は石畳で覆い尽くされ、レンガ造りの建物が続いたと思えば、木材で組み合わされた東洋風の建物が並ぶ通りもあり、また、それらの通りが集まる広場にはテントを連ねた屋台が人々を集めていた。
「良い匂いだな」
「もう我慢できないなり」
「小者の暴ではあるがいたし方あるまい」
まさに手ぶらで金銭など持ち合わせている筈もない。腸詰を抱え、かじりながら歩いている中年男性に目をつけるとマークが声をかけた。
「旦那、良い娘がいるんですよ。今日は大サービスですぜ」
「良い娘? どんな娘だ」
赤ら顔を緩ませながらその男は黄色い歯を見せて食いついた。
「すっごいグラマーですぜ、ダ・ン・ナ。しかもメイドコス!」
テトラが胸の前でふくらみを表現すると、その中年男性はふらつく足取りで導かれるままに暗い路地へとついて来る。あとはご想像の通りである。
手厚いサービスを受け、路地に寝転がる男を打ち捨てて遅い晩餐を取る一行。その彼らの耳に鋭い笛の音と男たちの怒声が聞こえてきた。
「そっちへいったぞ!」
「必ず捕らえよ」
「おのれ、逃げ足の早いやつめ!」
ふと通りを覗いたチェリーの目に飛び込んできたのは、十数人の兵隊に追われる一人の男の姿。その男は網のレオタード一枚でひたすら駆け、人ごみを掻き分けて逃走をはかっていた。
その混乱をきたす雑踏には女性の悲鳴が飛び交い、まさに騒然といった状況だ。
腸詰をむさぼるテトラがチェリーに事の詳細を尋ねた。
「なんの騒ぎだ?」
「変態が追われてるなり……」
それを聞いたテトラは『ふーん』と一言もらしたきり、また食事を続けている。しかし食事を終えた頃、目の前に怒髪を天に逆立てた一人の男が立ちはだかっていた。
「なにしてんねん……お前ら……」
その声は怒気に震え、拳は硬く握り締められている。
「いやお前『なにしてんねん』て……その格好で言われてもなあ……」
「好きで着てへんわ!」
「まあまあ、落ち着くなりよ。ほら、食い物だってたくさん……僕らの胃に納まってることだし」
「食い尽くしとんかい!」
我慢の限界を超えたスパチャホフと他の三人はついに乱闘を繰り広げていたが、その隙に逃げ出した中年男に気づいたテトラが声を上げた。
「あ、お前のせいで逃げたじゃねえか」
「知るかボケ!」
「まだ金も身ぐるみも剥いでねえのによ。せっかくお前に着せてやろうと思ってたのに……」
その残念そうな表情にスパチャホフの拳が止まる。
「そ……そうやったんか?」
「当たり前じゃねえか、俺たち仲間だぜ」
拳を収めるスパチャホフのその表情には反省と後悔の色が窺えた。
「なあ、もう仲間割れはよそうぜ」
「ああ、すまんかった」
手を取り合うテトラとスパチャホフ。その光景はまさに友情を絵に描いたような美しい人間模様であった。
と、そこへ──
「いたぞ、こっちだ!」
細い路地にどっと兵士らがなだれ込んできた。剣を抜き、鎧の擦れる音が辺りに反響する。
「貴様等も仲間か!?」
隊長格と見られる先陣を切って駆けてくる男の問いに
「助けてください、変態に襲われて……!」
と、テトラは即答することに間髪を入れなかった。
「お、おま……」
スパチャホフには反論する猶予などない。
「ぬおお、こやつ。男色を好むとはますます破廉恥なる賊!」
大声で喚きながら猪を思わせる隊長のタックルをかわすと、さらに後続の兵士が次々と繰り出す剣先をかわす。
「おのれら、覚えとけや!」
捨て台詞を吐いたスパチャホフはそのまま夜の巷へと駆けて行き、そしてテトラたちは宿を探すためにその場を後にした。