9.迫り来る影
地下街の外れは、とても静かだ。
ぽつぽつと点在する住居には、音を発さない爬虫類ハイブリッドが住むばかりだし、他に雑音を出すようなものは、何もない。
だからこそ、異音にいち早く気付くことができる。
ジェイクは目を覚ました瞬間に、それを察知した。
水音が、ない。
配管の奥で常に鳴っているはずの、低い循環音が消えている。
——遮断されている。
隣では、アリシャがまだ眠っていた。
爬虫類のごつごつとした手と、ふわふわの小さな手は繋がれたまま。
太く硬く、鎧のような尾と、柔らかくて自在に動く尻尾も、絡んだまま。
名残惜しさをほんの少しだけ感じつつ、
ジェイクは、ゆっくりと指を外す。
その瞬間。
家の周りを取り囲んでいた複数の気配が動き出す。
「……来たか」
彼は立ち上がる。
眠っていたはずの体が、即座に“仕事”の状態に切り替わる。
天井裏。
壁の奥。
自分で通した逃走用の配管。
それぞれに小柄な猿ハイブリッドの気配がある。
次の瞬間、スピーカー越しの声が響いた。
「こちらA.P.特別行動班」
無機質で、抑揚がない。
「猫型ハイブリッド、個体名アリシャ。
確保対象」
アリシャが、その音を聞いて不快そうに目を覚ます。
ジェイクの背中越しに、玄関の重い金属扉が軋みを上げていた。
「イリエワニ型ハイブリッド。
処分対象」
静かに、しかしはっきりと、処分という単語が響き渡った。
「抵抗は非推奨だ」
金属扉が、外側から固定される音がした。
突入するのではなく、固定? アリシャは理解しかねて、ジェイクの顔を見つめる。
イリエワニの大きな横顔は、一見するとほとんど表情が読み取れないが、アリシャにだけは分かった。獲物を狙う捕食者の目をしている、と。
アリシャの呼吸が、速くなる。
「……ジェイク」
彼は振り返らなかった。
代わりに、低く言う。
「俺の後ろにいろ」
次の瞬間、一部の天井が落ちた。
粉塵の中に、影が降り立つ。
ニホンザル・ハイブリッド。
軽量装甲を身にまとい、関節を機械化して強化している。
そして、明らかに連携前提の複数個体が2人を取り囲むように並んでいる。
——そう、彼らはA.P.の特殊部隊。
「確保班、前へ」
命令一つで、動く。
ジェイクは怯むどころか、一歩、前に出た。
噛めば、終わる距離。
だが——噛まない。
彼は、手近な配管を引き抜いた。その怪力に、配管はするりと抜けて彼の大きな手のひらに収まる。
溶接済みの鉄管を、ただの“道具”として構える。
「……仕事だ」
その一言で、地下が戦場に変わった。
猿は速い。
判断も、連携も、人間より洗練されている。
天井から粉塵が舞う中、ニホンザルハイブリッド達は消音器を装着した小型銃をジェイクに向けて発砲してきた。
だが、見えない速度で迫る銃弾に、ジェイクは怯むことなく、信じられない速さで巨躯を繰る。
彼が体をよじると、筋肉に鉄の鎧を纏ったかのような重厚な尻尾がぶんっと空気を切り裂き、侵入者を正確に捉えて吹き飛ばす。
そう、この地下は——
ジェイクが作った。
壁が壊れ、床が沈み、配管が暴れる。
彼は噛まず、殴らずとも、誰にも負けない。
アリシャは、その背中を見ていた。
——噛まないワニ。
——だから、処分される。
アリシャに眠る謎の記憶のセリフが浮かんできて、それを今まさに理解してしまう。
A.P.にとって、
彼は危険なのだ。
力があるからじゃない。
選べるから。噛むかどうかを選ぶほど、余裕があるから。強すぎる力を持っているから。
「ジェイク……!」
彼は振り返り、初めてアリシャを見る。
「逃げ道を使え」
「でも——!」
「命令だ」
声は低く、でも確かだった。
彼女は、頷いた。
最後に、もう一度だけ、瞬間的に彼の手を握る。
「……噛まないで」
その言葉に、ジェイクはわずかに目を細めた。
「噛まない」
約束だった。
次の瞬間、すぐ近くで爆音がした。
地下街の外れで、
静かな巣は、完全に壊れた。
あの夜、私は幸せな気持ちで眠れたはずだった。
ジェイクに抱かれたわけじゃない。
それでも、手を繋いで、尻尾を絡めて、同じブランケットの中で過ごした。
それだけで、胸がいっぱいで。
抱かれるよりも、むしろ彼の愛を感じた自分がいた。
出会ってから今まで、冷たい捕食者の爬虫類のように、噛んだりしないでくれること。
無関心そうに見えて、離れないでくれること。
壊さないように触れてくれること。
それが全部、愛情だって、私は知ってる。
初めてこんな気持ちになった。
彼から絶対離れたくないって思う。
だから。
目を覚ました時、残酷な現実に引き戻されると思わなかった。
知らない声。
知らない言葉。
「確保」と、「処分」。
私がA.P.に追われるのは、社員の家からちょっとした盗みを働いたから、だと思ってた、ずっと。
もう三年くらい前のこと、そんなに高価でもない、立派な会社に勤める奴にとってはちょっとしたアクセサリー程度のもの。
ずっとそれが原因で追われてるって思ってた。
警察は機能してないから、A.P.が社員の問題も解決するのかな、ってくらいの軽い気持ち。逃げ回ってれば、いつか終わるはず。
見事に、その考えは打ち砕かれた。
しかも、好きな人とくっついてるその大事な時に!
私を確保までして、何をするつもりなんだろう。
それよりも、私のせいで巻き込まれたであろうジェイクに対しての、「処分」っていう、ありえない言葉。
ムンドゥスを実質支配してるのは、他でもないA.P.の連中。権力も金も何もかも持ってる。
そんな奴らが「処分」って言い出したら……?
ここまで考えて、信じられないほどの不安が胸をぎゅっと締めつけてきた。行け、と言われて彼から離れようとするけれど、本当にいいの?
一瞬の迷いの次に爆音がして、
次の瞬間、爆風から逃れるために、私は跳ねるように太い配管の中へ飛び込んだ。




