8.鰐が熱を帯びる夜
ジェイクは、横になったまま天井を見ていた。
溶接跡だらけの鉄板。
歪んだ継ぎ目。
自分の体格に合わせて無理やり広げたこの部屋は、いつも冷たく、静かで、安心できる場所だったはずだ。
――今夜までは。
布が擦れる音がする。
次の瞬間、視界が遮られた。
「……」
重くはない。
けれど、はっきりと“体温”がある。
アリシャが、ジェイクの上に跨がっていた。
下着姿。猫のしなやかな体が、無防備なほど近い。
金色の瞳が、上から覗き込む。
「ねえ」
声が低い。
いつもの軽やかさより、少しだけ落ち着いた大人の声。
「私も、子どもじゃないから」
意味は、分かるでしょ?
そう言われている。
ジェイクの喉が、わずかに鳴った。
爬虫類の身体に、本来あるはずのない熱が、腹の奥で生まれている。ハイブリッドの雄の体を持つ以上、それは自然な事でもあるのだが、ジェイクにとっては今まで感じたことのない感覚で、本人を困惑させた。
それを悟られないよう、彼はゆっくり息を吐いた。
「……降りろ」
強くは言えない。
「お前は、温かすぎる」
逃げだと、自分でも分かっている言葉だった。
アリシャは、くすりと笑う。
「私、抱くには暑すぎる?」
直球だった。
ジェイクは思わず、額に手を当てた。
この仕草が、もう“理性が削れている”証拠だと気づいてしまう。
守りたい。
壊したくない。
その感情が、はっきりと名前を持ってしまった。
「違う」
低く、慎重な声。
「壊したくないんだ。危ないだろ」
イリエワニの口。
六十を超える牙。
制御できない力。
「俺は――」
そこまで言ったところで、言葉が途切れた。
アリシャが、両手で彼の顔を包み込んだからだ。
硬い鱗。
冷たいはずの皮膚。
その中心にある唇に、ざらりとした感触が触れる。
猫の舌が、ゆっくりと、愛おしげに滑った。
牙の並ぶ口元を、確かめるように。
ジェイクの全身が、びくりと強張る。
――これは、挑発じゃない。
知っている。
本能で分かる。
これは、猫の最大の愛情表現。
「……アリシャ」
名前を呼ぶ声が、かすれた。
噛まない。
噛めない。
彼はただ、彼女を抱き締める代わりに、動かないことを選ぶ。
アリシャは、彼の額にそっと額を寄せた。
「ねぇ」
囁く。
「噛まないって、選んでくれてるんでしょ?」
その言葉に、ジェイクは答えられなかった。
答えは、もう態度に出てしまっている。
灯りを落とすと、地下の静寂が部屋に満ちた。
配管の奥で水が流れる低い音だけが、規則正しく続いている。
ジェイクは再びベッドに横になり、天井を見上げていた。
金属板を溶接して作った簡素な寝台は、きしみもなく彼の体重を受け止めている。
その隣で、アリシャは少しだけ間を空けて座っていた。
さっきまでの空気が、まだ残っている。
触れれば壊れそうで、離れるには近すぎる距離。
「……寒いか?」
ジェイクが低く尋ねる。
アリシャは首を振り、代わりに、そっと彼の手に指を絡めた。
猫の指は細く、温かい。
ジェイクの手は大きく、硬い。
獲物を引っ掻き、逃さないために生まれたはずのその手が、今はただ、彼女の手を包んでいる。
拒まなかった。
握り返しもしない。
ただ、離さない。
それだけで、十分だった。
アリシャの尻尾が、無意識に動く。
次の瞬間、ジェイクの太い尻尾が、ゆっくりとそれに触れ、絡まった。
ほどけないように。
でも、縛らないように。
ブランケットは一枚しかない。
それを二人で分け合う形で、肩が触れる。
アリシャは、彼の腕に頬を寄せた。
「……ね」
小さな声。
「噛まないでくれて、ありがとう」
ジェイクは答えなかった。
ただ、呼吸を整え、彼女の体温を確かめるように、静かに目を閉じる。
噛まない。
壊さない。
離さない。
それが、今の彼にできる、最大の愛だった。
手を繋いだまま、
尻尾を絡めたまま、
二人はゆっくりと眠りに落ちていく。
――一線の、ほんの手前で。
それでも確かに、
同じ夢を見る距離だった。




