6.地底で忍び寄る違和感
地下は、音が遅れて届く。
水の流れる音も、金属が軋む音も、すべてが壁の奥で一度溜め込まれてから、低く反響する。
ジェイクは天井近くの太い配管に腕を伸ばし、溶接面を少しずらして言った。
「ここ、前に直した跡があるな。
でも……手癖が違う」
「分かるの?」
足元で工具を並べていたアリシャが顔を上げる。
「分かる。
俺だったら、ここは一回切り直す」
言葉通り、彼は迷いなくトーチを入れた。
火花が散り、地下の暗がりに一瞬だけ光が走る。
その瞬間だった。
——気配が、増えた。
水音でも、足音でもない。
“見られている”という圧だけが、空間に差し込んでくる。
ジェイクの手が、ほんの一瞬止まる。
アリシャはその背中を見て、なぜか胸がざわついた。
——噛まないワニ。
脈絡もなく、記憶が跳ねる。
誰かの声。
遠い昔、人間だった頃の祖父が、静かに語っていた何か。
「特別なものほど、目立たないように生きる」
その言葉の意味を考える前に、影が動いた。
配管の陰から現れたのは、
作業着姿のキツネザル・ハイブリッドの男だった。
年若い。
視線が忙しなく、でも逃げ腰ではない。
「依頼人だ」
男はそう名乗り、アリシャを一切見ずにジェイクだけを見る。
手に持っているのは、紙の図面。
「この配管、誰が通したと思う?」
ジェイクは振り返らずに答える。
「古い街区の規格だ。
でも……更新が入ってない」
「だよね」
男は薄く笑った。
「存在しないはずの系統だ。
それを“直せる”のが、君なんだろ?」
溶接の火を落とし、ジェイクはようやく振り返る。
黄金色の瞳が、男を正面から捉えた。
「俺は、仕事をするだけだ」
「それが不思議なんだよ」
男は肩をすくめる。
「君みたいなのが“まだ”普通に働いてるのは、
ちょっと不思議でさ」
空気が冷えた。
アリシャは無意識に、ジェイクの影に一歩近づく。
彼はそれに気づいて、ほんのわずか、尻尾を彼女の前に垂らした。
守る仕草だった。
ジェイクは再び溶接面を下ろす。
「修理は続ける。
邪魔なら、そこをどいてくれ」
男は何も言わず、一歩下がった。
作業は完璧だった。
配管は正しい位置に収まり、圧も流量も問題ない。
ジェイクは最後まで、仕事を裏切らなかった。
工具を片付ける音の隙間で、
男がふいにアリシャの横をすり抜けた。
その時だけ、低い声が耳元に落ちる。
「噛まない個体は、だいたい最初に消えるんだよ。
意味、分かるか?」
一瞬、思考が凍る。
次の瞬間——
「シャーッ!」
アリシャは歯を剥き、威嚇した。
爪が空を切る。
男は驚いたように目を見開き、
それから何事もなかったように、早足で闇の奥へ消えた。
地下には、また水音だけが残る。
ジェイクは何も聞かなかった。
ただ、工具箱の蓋を閉め、静かに言う。
「……帰るぞ」
その声は低く、確かだった。
アリシャは頷きながら思う。
——噛まないワニは、特別だ。
弱いから噛まないと言いたいのだろうか。
そうだとしたら、それは大きな間違いだとアリシャは思う。
彼の背中は、怖いくらい、安心できるのだから。
地下は寒い。
金属はいつも冷たくて、油と水の匂いが混ざってる。
それなのに、
ジェイクのそばにいると、胸の奥だけがあたたかい。
彼は優しくない。
言葉も少ないし、触れれば簡単に壊されてしまいそうな力を持ってる。圧倒的な暴力の持ち主。
それでも——
噛まない。
噛まないと「選び続けている」ことが、
どれだけ難しくて、どれだけ尊いかを、
私は知っている。遥か前の記憶から、なぜか知っている。
だから私は、わざと触る。
作業の邪魔にならないふりをして、
彼の腕に、背中に、尻尾に。
そのたびに、
彼が一瞬だけ動きを止めるのを見るのが好き。
怖がっているわけじゃない。
欲望を、理性で抑えているだけ。
その強さが、たまらなく愛おしい。
いつか彼が、
私を「守る対象」じゃなくて
「欲しい存在」として見る日が来たら——
私はきっと、逃げない。
噛まれないことを知っているから。
そしてもし、あのキツネザルが言うように、この世界が彼を消そうとするなら。
私は——
彼の前に立つ。
だって私はもう、
噛まない鰐を、独りにしないって決めたから。
もう離れない。いつ、ぎゅってしようかなってワクワクしてる。




