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5.噛まないという選択をする意思

匂いが、先に来た。


鉄と水と、古い油の混じった地下の空気の中に、

不意に、まったく別の匂いが割り込む。


乾いた土。

日差しで温められた草。

そして――生き物の、冷たい皮膚。


アリシャは瞬きをした。


視界が、ずれる。


ジェイクの巨大な背中が、

配管の影が、

迫り来る気配が――


すべて、遠のく。



夢だ、と最初は思った。


でもこれは、夢にしては鮮明すぎる。


白い日差し。

低い石塀。

風に揺れる洗濯物。


そして、庭の真ん中にいる黒緑色の影。


――大きい。


子どもの頃の自分の背丈から見上げても、

それは圧倒的だった。


短い脚。

硬そうな鱗。

眼鏡をかけたような模様のある目。


メガネカイマン。


「触るなら、ここからだよ」


背後から、穏やかな声がする。


振り返ると、

白髪で、背の高い老人がいた。


白衣でもスーツでもない。

よれたシャツに、土のついた靴。


でも、その人が“偉い人”だということを、

なぜかアリシャは知っていた。


おじいちゃん。


「鰐はね、感情を持たないと言われている」


その声は、いつも静かだった。


「海馬がないから、

 人間みたいに“思い出して泣いたり”はしない」


子どものアリシャは、しゃがみ込み、

恐る恐るカイマンの背に手を置く。


冷たい。

でも、嫌じゃない。


「大脳も、ほとんどない。

 怒りも、愛情も、きっとない」


カイマンは動かない。

ただ、そこにいる。


「でもね」


おじいちゃんは、必ずそこで言葉を切った。


「経験は覚える」


カイマンの目が、ゆっくりと瞬く。


「誰に撫でられたか」

「誰と歩いたか」

「誰を――傷つけなかったか」


アリシャの小さな体が、

いつの間にかその背に乗っている。


高い。

でも、落ちる気がしない。


カイマンは、ゆっくりと庭を歩き出す。


鎖もない。

檻もない。


それでも、どこにも行かない。


「感情がない、っていうのはね」


おじいちゃんの声が、少しだけ笑う。


「間違えない、ってことなんだ」


夕方になると、

カイマンは縁側で横になる。


アリシャは、その硬い腕に頭を乗せる。


――腕枕。


ゴツゴツしているのに、

なぜか、安心する。


「噛める生き物ほど」


おじいちゃんは、静かに言った。


「噛まないという選択を、

 ちゃんと覚えるんだよ」


その言葉が、

胸の奥に沈んだ。


理解できなくても、

忘れなかった。


アリシャは、子どもながらに思った。


(……きれい)


感情がないはずの生き物が、

選択を間違えないこと。


それを、美しいと思った。



「……っ」


アリシャは、息を吸い込む。


地下の冷たい空気が、肺に戻ってくる。


目の前には、

巨大な鰐の背中。


ジェイク。


工具を持ったまま、

彼は動かない。


でも、分かる。


彼は――

噛める。


そして、

噛まない。


理由は、分からない。


けれど、アリシャの身体は知っていた。


この闇は、

選択を間違えない闇だ。


無意識のまま、

彼女は一歩、近づいていた。


次の瞬間、

遠くで、金属音が鳴る。


A.P.の気配。


時間は、再び動き出す。


けれど、もう違う。


アリシャの中で、

確かに何かが繋がった。


それは、恋ではない。


もっと古くて、

もっと静かで、

噛まれなかったという記憶。



地下の奥で、

鰐は今日も口を閉じている。


そして、世界はまだ、壊れていない。

この猫ハイブリッドは、いつも近づきすぎだ。


そう思った。


あれだけ逃げ回っていたくせに、

今は、俺の影の内側に立っている。


匂いがする。

さっきまでとは違う匂いだ。


土と、草と、

それから――少し、懐かしい匂い。


理由は分からない。


分からないが、

胸の奥のほうが、微かにざわつく。


俺は、噛める。


それは事実だ。

生まれつきの構造で、

考えるより先に理解している。


それでも――


この猫に対して、

その選択肢は、最初から存在しなかった。


近づかれるのは、嫌いだ。

触れられるのも、基本的には不快だ。


なのに。


アリシャが一歩近づいたとき、

俺は、口を閉じたまま動かなかった。


逃がさないためでも、

無関心でもない。


ただ――

そこにいてもいい、と判断した。


理由はない。


ただ、

そうした。


配管の音が、

少しだけ変わった気がする。


世界は、相変わらず壊れている。

それでも、

この猫が俺のそばにいる間は、


噛まない。


それだけは、

間違えない気がした。

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