4.優しい配管の音
地下旧区画の朝は、音から始まる。
金属がきしむ低い振動。
水圧が変わる微かな唸り。
ジェイクにとっては、それが目覚まし代わりだった。
配管の上に腰を下ろし、工具を広げる。
今日も変わらない。
壊れたところを直し、流れるべきものを流すだけ。
――一つだけ、違う点があるとすれば。
「ねえ、ジェイク」
背後から聞こえる、軽い声。
振り返らなくても分かる。
猫ハイブリッド――アリシャだ。
「それ、昨日も直してなかった?」
「……圧が不安定だ」
「ふーん」
興味なさそうな返事。
けれど彼女は、相変わらず少し離れた場所に腰を下ろし、尻尾を揺らしている。
来てから、三日。
彼女はまだ、どこへも行っていない。
追い払う理由はない。
積極的に受け入れる理由もない。
ただ、そこにいる。
それだけのはずなのに。
「ねえ」
また声。
ジェイクは工具を回したまま、短く言った。
「なんだ」
「ジェイクはさ、毎日毎日飽きもせず修理してるけど。配管を直しますーっていうより、壊します!噛み砕きます!って方が似合う顔してるよね」
アリシャの言い分に、小さく鰐男は鼻を鳴らした。
その後、アリシャはもっと小声で「でもそんな顔を毎日見てても飽きないんだよ」と頬をほんのり赤く染めながら呟いたが、それが鈍感すぎる鰐の耳に届いたかどうかは定かではない。
地下旧区画。
住む者も少なく、管理も最低限。
A.P.の目が届きにくい、忘れられた層。
「上は嫌い?」
アリシャが続ける。
ジェイクは一瞬、考えた。
嫌い、というより――
どうでもいい。
「……仕事があるのは、下だ」
「ふーん。私はね、」
彼女は膝を抱えた。
「上も下も、どっちもあんまり好きじゃない」
ジェイクは、工具を止めた。
「逃げるの、面倒なんだもん」
その声は、軽い。
いつもの彼女の調子と変わらない。
でも――
言葉の奥に、違う音が混じっていた。
ジェイクは、口を閉じた。
下手に聞けば、踏み込むことになる。
踏み込めば、噛み砕いてしまうかもしれない。
それを、彼は無意識に避けていた。
「ねえ、ジェイク」
また、名前を呼ばれる。
呼ばれるたび、少しだけ胸の奥がざわつくのが気に食わない。
「私さ、たまに変な記憶見るんだ」
工具が、わずかに鳴った。
「走ってるの。すごく、速く」
「……」
「風が気持ちよくて、楽しくて。
でも、どこなのか分からない」
アリシャは、指で床をなぞる。
「それで急に、頭が痛くなる」
ジェイクは、ゆっくりと振り返った。
彼女は笑っている。
いつも通りの、無邪気な笑顔。
なのに――
その背後に、見えない影が揺れている気がした。
「……上には行くな」
思わず、そう口にしていた。
アリシャは目を瞬かせる。
「え?」
「しばらくは、ここにいろ」
命令でも忠告でもない。
ただの、低い声。
彼女は数秒考えてから、にっと笑った。
「じゃあ、ジェイクが飽きるまで?」
「……知らん」
「ふふ」
尻尾が、楽しそうに揺れた。
そのとき。
配管の奥で、微かに異音がした。
金属音。
規則的すぎる、足音。
ジェイクの背中の鱗が、僅かにざわつく。
――匂いが違う。
管理用ドローンでも、作業員でもない。
アリシャも、ぴたりと動きを止めた。
「……ねえ」
小さな声。
「今の、なに?」
ジェイクは答えなかった。
答えられなかった。
ただ、無意識に彼女の前に立つ。
境界線を引くように。
彼の口の奥で、
抑え込まれた闇が、静かに目を覚ました。
地下はまだ静かだ。
けれどそれは――
嵐の前の、優しすぎる静寂だった。
配管は、嘘をつかない。
壊れた場所は音で分かるし、直せば必ず流れが戻る。
分かりやすい。
だから、この仕事は嫌いじゃない。
――なのに。
最近、音を聞き逃すことがある。
理由は分かっている。
背後に、気配があるからだ。
猫の足音。
軽くて、静かで、なのに妙に意識に引っかかる。
振り返らなくても、そこにいると分かる。
作業の邪魔になるはずなのに、追い払う気にはならない。
おかしい。
興味なんて、持たないはずだ。
誰にも。
それなのに、彼女が動くたび、
尻尾が揺れるたび、
声の調子が変わるたび、
配管より先に、そちらを気にしている自分がいる。
噛めば終わる。
それだけの力を、俺は持っている。
だから、近づくべきじゃない。
なのに――
気づけば、境界線は俺のほうが引いている。
彼女の前に立つために。
理由は、まだ分からない。
分からないままでいいとも思っている。
ただ一つ、確かなのは。
この地下で、
配管の音よりも先に聞き逃したくないものが、できてしまった。
それだけだ。




