22.生まれ変わったから選べる未来
地下の家は、静かだった。
水の流れる音だけが、遠くでかすかに響く。
金属製の巨大なベッドにちょこんと腰掛けるアリシャ。
愛らしい猫ハイブリッドが自分のベッドに腰掛けていることに満足しつつ、ジェイクは無言で工具箱を開いた。
金属の匂い。
油の匂い。
アリシャの首のあの忌まわしい首輪。
「動くなよ」
低い声。いつも落ち着いて聞こえる彼の声。
だが指先の爪は、わずかに震えている。
「うん」
甘える猫のように、素直に顎を上げるアリシャ。
ジェイクは慎重に留め具を探る。
(あのイカれたテングザル野郎)
ほんのわずかな線、そこが留め具のようだ。
だが、固い。
削っても、こじっても、びくともしない。
「……くそ」
工具を持つ手に力がこもる。
焦り。怒り。
こんなもの一つ外せない自分への苛立ち。
アリシャはくすっと笑う。
「そんなにやきもきしなくても、ずっとここにいるよ?」
「分かってる」
ジェイクは当然だと言わんばかりに返答する。
だが、首輪に対しての怒りはそれとは別物だ。
「これは、俺が外す」
誰にも任せない。誰にも触らせない。
長い時間のあと――
カチ、と小さな音が鳴った。
首輪が床に落ちる。乾いた金属音。
ジェイクはそれを見下ろす。
そして、安堵したように息を吐いた。
「……終わりだ」
次の瞬間。
アリシャが待ってましたと言わんばかりに、勢いよく抱きつく。
「ジェイク!」
細い腕が彼の首に絡む。大きなイリエワニの顔を持つ男の首に、かろうじてアリシャの腕が回る。
「大好きだよ」
ずっと言いたくて待っていた。
まっすぐな声。嘘も迷いもない。
切実で、純粋で、気持ちがこもった言葉。
ジェイクの瞳が揺れる。
それは、ほんの一瞬。
それから、彼は彼女を抱き返した。
強く、壊れそうなほどに。
「俺も」
低く、確かな声。
「お前以外、何もいらない」
地下の灯りが揺れる。水音が遠のいて行く感じがする。
二人の呼吸だけが、重なる。
その夜、
首輪を、最も愛する存在に外してもらったアリシャは、
生まれて初めて、本当の意味で自由になった。
そう、感じた。
金属製のベッドがジェイクの重みで軋む。その音すら忘れたくないと、アリシャは思った。
かつて、お互い違う種で、異なる形で大切と感じていた存在。
望まずしてハイブリッドの世界になってしまったがーー
アリシャは自分に覆い被さるイリエワニハイブリッドの横顔を見る。ずらりと並ぶ鋭い牙の一つ一つすら愛おしい。
そして、彼の腕が自分をきつく抱きしめるほどに、喜びを感じる。ハイブリッドになったから、お互いの種が近づいた。だから、こうして愛し合えるーー。
歪められた未来だと、そう思っていた。
ジェイクと出会い、記憶を取り戻すまで、
アリシャは居場所もなく彷徨う野良猫だった。
出会えて、記憶が戻って、
そして、
互いを選び合った。
アリシャの切なくも満たされた声が、水音にかき消されてゆく。二人の熱が、金属のベッドを熱くした夜だった。
⸻
夢
ぬくもりの中で、アリシャは眠りに落ちる。
ぼんやりとした白い空間。
懐かしい雰囲気を感じる。
「おじいちゃん……?」
振り向くと、祖父が立っていた。
ハイブリッド一号にされ、猿顔にされ、AIを埋め込まれた姿ではなく、
人間だった頃の姿。
くたびれているが、かつての祖父の凛とした目。
「お前が最も大切にしたものの中に、あれを止めるスイッチを隠しておいた」
にこにこと笑う。
アリシャはしばらく考える。
最も大切なもの。
答えが、ひとつ浮かぶ。
「……もしかして、あの子のどこかに?」
祖父は心から可愛がっていた孫娘に、にこっとして見せた。
「あれはもう、ものを考えるにも処理落ちしかけている。わしも、長く生きすぎた」
声が、どこか遠い。
「どうか、一緒に眠らせてくれ」
それだけ言うと、祖父は光に溶けるように消えていった。
「待って……」
アリシャの声は、届かない。
懐かしさと、切なさ。
でも、言いたいことは分かる気がした。
アリシャの目から涙があふれる。
「おじいちゃん……」
もういない祖父に語りかける。
「あのね、私とあの子が出会えたの、おじいちゃんのおかげでしょ?」
声が震える。でも堰を切ったように、話し出すと止まらなくなってしまう。
「あの子、感情を持ってるんだよ? 二足歩行して、配管工やってて、私とおしゃべりしてくれるの」
笑いながら、泣く。
「四足でのしのし歩いて、ぼーっとしてたあの子が、今は私を大事だって言ってくれるの」
溢れてきた涙を拭う。
「ありがとう。私たちを生まれ変わらせてくれて」
深く息を吸う。祖父への想い、感謝、そして尊敬、それを伝える手段は一つしかない。
「だからね、おじいちゃんが眠れるように、私とあの子で力になるね」
決意。
夢は静かに閉じた。
⸻
朝
目を開けると――
イリエワニの顔が、目の前にあった。
本来のイリエワニなら浮かべるはずのない、不安そうな瞳。
あの子と同じ顔なのに、表情が豊かすぎて時々びっくりする。
「おはよう、ジェイク。どうしたの?」
「……寝ながら、泣いてたぞ」
ああ、それで。
アリシャは微笑む。
「大丈夫だよ。懐かしい人の夢を見ただけ」
ジェイクは、ほっと息を吐く。
(昨夜、痛いとか、怖かったのかと思ったが……違うらしい)
照れくさいので、口には出さない。
そんなジェイクを他所に、アリシャは急に真面目な顔になる。
アリシャは起き上がり、両手で彼の手を握る。
とても真剣な目。
出会った頃の無邪気な猫はいつのまにこんなに成熟した猫ハイブリッドになったのだろうか。
強さと覚悟を宿した目。
「ジェイク。私にはあなたが必要。お願いがあるの」
いつになく真剣な声に、だがジェイクは返答をためらうことなく。
「お前の頼みは、なんでも聞く」
無愛想な声。
だが彼なりに精一杯の愛情表現を込めた台詞。
アリシャは少し悲しげに笑う。
「私のおじいちゃんを、眠らせてあげたいの」
一拍。
「そのためには……A.P.を支配しているAIを、完全に停止させなきゃいけない」
空気が、変わる。
それは、ムンドゥス崩壊の可能性。
もしA.P.が支配機能を失えば――
世界は混乱する。
ハイブリッドたちの安全も、種によって異なるハイブリッド達が問題なく暮らせていたシステムも、全てが崩壊するかもしれない。
「世界が、大混乱になるかもしれないの。それでも……いい?」
アリシャの頭をよぎる、前世の記憶。
騙されてスタートボタンを押してしまった滅亡の始まり。
恐ろしさに震える。
また、あの世界崩壊を引き起こしてしまう可能性は、ゼロではない。それでも、あの時はAIに騙されて押してしまったボタンを、今度は祖父のために、自分の意思で押す。
ジェイクは、黙ってそんなアリシャを抱きしめる。
力強く。
揺るぎなく。
「お前が望むなら」
それは、深く盲目的な愛。
(お前のためなら、世界を壊してもいい)
DNAに刻まれた記憶が、そうさせるのだ。
彼女だけが、全て。
アリシャは愛おしげにジェイクの胸に顔を埋める。
「ありがとう」
小さな声。
世界を崩壊させた罪を、一人で背負うしかなかった前世。
今度は、一人で罪を背負わない。
愛する者と共に、二人で背負う。
ムンドゥスがどうなるのか――
まだ、誰にも分からない。
でも。
この朝は、澄んでいて静かだった。
おじいちゃんの願いを叶えることは、
前世で自ら溶鉱炉に駆け込まなければならなかった、哀しい自分の過去を清算する事にもなる。
おじいちゃんはそこまでも、計算していたのだろうか。
生物の多様性と、進化の過程を深く学び、研究者になったおじいちゃん。
前世であの子が殺されて搾取されてしまった後、仕方なく研究を手伝ってAIを完全停止させる機会を窺っていた時。
あのAIは、何かとおじいちゃんに依存していたんだ、今思えば。
研究効率が上がるとか言って、ハイブリッド化したおじいちゃんの背中から後頭部にかけて自分自身を埋め込んで、いつも一緒に話していた。
あのAIは研究用AIをおじいちゃんが愛用していたもの。
だんだんと、おかしな思考に向かって行って、ついには人類絶滅と言い出したけど。
本来なら、AIはそう言ったことを考えることはできないように作られてるんだよ。
だからあのAIは本当におかしい。壊れてたのか、それとも何か変えられたのか……。
だとしたら。
あのAIを変えられる人は一人だけ。
でもそんな可能性、信じたくない。だって、私の予想がもし本当ならーー
おじいちゃんは生き物を愛してた。
進化の過程で次々と変化することの素晴らしさを説いてくれた。
だからって、私たち人間を、ハイブリッド化する、そんな危険思想を実現してしまうAIを、育てたなんて……
きっとこれは私の考えすぎ。
今や、ボロボロの古くなったAIと、想像もつかないほど長生きしたおじいちゃんを、一緒に眠らせてあげよう。
そのせいでムンドゥスが崩壊してしまっても……
きっと、ジェイクがいれば、私は幸せだから。




