20.悪魔の甘言
装置が外れた瞬間。
アリシャの呼吸が荒くなる。
あふれ出す涙が止まらない。
世界を消し飛ばす強い閃光。
崩れる都市。炎に包まれる人々。
祖父の最後の声。
イリエワニの鱗の感触。
そして自分を、痕跡を一切残さないと決めて飛び出した最期。
全ての出来事が、アリシャに怒涛のように襲いかかる。
「……私が……」
震える。
「私が、あのスイッチを……」
ショックで青ざめ震えるアリシャとは対照的に、
コーデンはモニターのログを見ながら、恍惚とした表情を浮かべていた。
「素晴らしい……」
ハイブリッド誕生の真相、秘話。
祖父AIの正体はーー間違いなくA.P.の最高責任者。
人類終末兵器の起動経緯と、その起動スイッチを握る者。
これだけの情報があれば――
アリシャを使って最高責任者を脅し、
A.P.の中枢に食い込むことができる。
いや、コーデン自らが、A.P.を支配できる。
「あの旧式AIが最高責任者……? あんな古い物が我が物顔でムンドゥスを支配していたとはな、ふふ、笑わせる」
アップデートを重ねただけの遺物。
今の時代に相応しいのは、自分だ。
新型AIを使ってハイブリッド達を支配すればいい。
「ムンドゥスの舵を握るのは、この私だ」
コーデンはアリシャの脳スキャナーを外す。
おぞましいほど優しく丁寧な手つきで、
アリシャの頬に触れる。
涙を指で拭い――
その指先を、ゆっくりと舐めた。
「……!」
アリシャの目が嫌悪感を露わにする。
「アリシャ」
甘く囁く。
「復讐したくはないか?」
祖父を奪われ。
愛した存在を殺され。
利用され、世界を壊させられた。
「あのAIを、私と一緒に止めよう」
だがアリシャは睨みつけた。このテングザルは甘い言葉や、それっぽい言葉で人を惑わす。
「ジェイクを裏切って、傷付けて……」
声が震える。
「私があんたを信用すると思ってるの?」
コーデンはにやりと笑う。
診察台の横に腰掛ける。
そして、彼女の首元に触れた。
ちりん。
鈴の音。
「……ッ!? 何これ!」
細い金属製の輪。
取り外し不可能なロック機構。
「私が付けてあげたんだよ」
指先で鈴を揺らす。
ちりん、ちりん。
アリシャは抗おうとするが、拘束されていて一つも抵抗できずに、悔しさから涙を浮かべている。
「アリシャ。お前に選択肢はない」
首筋をなぞる。
「これからずっと、私の管理下で生きるんだ」
「は!? ふざけないで!」
拘束具が鳴る。
ガンッ。
金属音が響く。
コーデンは楽しそうに目を細めた。
「A.P.の顔にしてやる。宣伝女優だ。地上の快適な生活。何不自由ない環境」
そして声を低くする。
「お前に選択肢は無いんだ。お前はこれからずっと、私のものとして生きているしかないのだから」
アリシャの背筋に寒気が走る。
「言うことを聞けない時は……しつけが必要になるが、私はそんなひどいことは望んでいない」
ぞわり。
アリシャの顔に浮かぶ激しい嫌悪。
だがコーデンはそれすら愛おしそうに見る。
「その目だ」
反抗的な視線。
「そんな目で私を見るから……欲しくなってしまった」
狂気を含んだ微笑み。
「時間はある。この目が私を求めるようになるまで、いくらでも待ってやる」
「気持ち悪い……」
アリシャは吐き捨てた。
拘束具を鳴らす。
逃げなければ。
こんな男の玩具になるくらいなら――
その時。
室内の照明が一瞬落ちる。
端末が自動起動。
無機質な声が響いた。
「広報部部長コーデン、謹慎中扱いのはずだ」
凍る空気。
コーデンの顔から笑みが消える。
モニターに浮かび上がる文字は「着信・最高責任者」。
アリシャにとっては、前世で耳にしたことのある音。
そう、祖父の声。
だが温度はない。一度「あいうえお」順に録音された音声を流しているかのようだ。
「被験体アリシャに対する無許可拘束および脳深層スキャンを確認」
静かな圧。
「説明を求める」
コーデンはすぐに表情を整える。
「これは会社への忠誠だ。彼女は極めて重要な情報を保持している。あなたの……過去に関わる情報をね」
沈黙。
数秒。
重い。
アリシャの首元の鈴が、かすかに震えた。
「……アリシャ」
祖父の声が、わずかに変わる。
演算ノイズ。
感情の残滓。
「生存を確認」
アリシャの目が見開かれる。
「……おじい、ちゃん……?」
コーデンの瞳が細くなる。
面白い。
これは、交渉材料どころではない。
切り札だ。
さて、この切り札をどう使って、最高責任者をその椅子から引きずり下ろすかーー
コーデンは舌なめずりした。
だが。
次の瞬間。
警報が鳴り響く。
A.P.本社正門がモニターに示される。
「侵入者を検知」
コーデンが舌打ちする。
「……誰だ」
モニターに映る影。
重い体躯。
背を丸めた低い姿勢。
ゆっくりと進むたび、地面が揺れそうな重厚感。
50倍の麻酔を打たれ、
瓦礫の中で生き絶えたはずの存在。
だがその瞳は――
燃えていた。
暗い。
重い。
今、潰れている。
さっき撃たれた麻酔の量は、おそらく致死量をはるかに超えている。
じゃなきゃこんなに動けなくなることはない。
普通のハイブリッドなら心臓が止まっているだろうが。
ジェイクは違っていた。
物心ついた時からそうだ。
普通は死ぬような麻酔も、怪我も、毒も、
ジェイクには効かない。
瓦礫の下。
崩れた居場所。
爆破された。
予定されていた裏切り。
視界は赤黒い。
右足は千切れかけ、骨が露出している。
腹部は石塊に押し潰され、内臓が軋む。
呼吸するたび、血の味が広がる。
それでも。
止まるつもりはない。
(守ると決めたのに)
指が動く。
瓦礫の隙間に、錆びたパイプ。
無意識に掴む。
(この手を離してしまった)
ぐ、と力を込める。
ミシ、と骨が鳴る。
筋繊維が裂け、同時に再生する。
異常回復。
祖父AIが設計した、ハイブリッドの極限耐久。
だがこれは本来、こんな使い方をするためではない。
ジェイクは唸る。
パイプを支点に、瓦礫を押し上げる。
石が動く。
崩れる。
内側から。
押す。
殴る。
弾き飛ばす。
石が砕ける。
血と粉塵が混ざる。
(俺は馬鹿だ)
今まではーー排水管の詰まり、水圧計算。
漏水箇所。
それだけ考えていればよかった。
地下で、静かに。
アリシャと出会うまでは。
彼女の小さな背中。
水面を覗く横顔。
あの目。
自分を見上げたあの瞬間。
胸の奥に、何かが灯った。
(もう二度と、あんなミスは犯さない)
瓦礫が崩れ左右が開ける。
片足が自由になる。
ぶら下がった肉片が揺れる。
骨が軋みながら、再接合する。
筋が繋がる。
皮膚が這い寄る。
痛みはある。
だが止まらない。
顎に刺さった金属片。
ぐ、と掴む。
引き抜く。
血が飛ぶ。
投げ捨てる。
(俺は甘かった)
あのテングザル。
狡猾な目。
アリシャを見る視線。
品定めするような。
触れていいものとでも思っているような。
あの目が、気に入らなかった。
結果、こうなった。
甘さが招いた。
瓦礫が完全に崩れる。
巨体が立ち上がる。
血まみれ。
だが眼は冴えている。
低く、喉が鳴る。
「……噛み殺す」
静かな声。
怒鳴らない。
叫ばない。
ただ決めた。
アリシャがダメだと言っても。
止められても。
それでも。
あいつは――噛み殺す。




