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2.爪先で踏み込む、柔らかで硬くて不気味な感触

挿絵(By みてみん)




配管の影に潜んでみると、そこは思ったより冷たかった。


アリシャは息を殺し、壁に背を預けたまま、

ガラス玉のように大きく美しい瞳だけを動かして前を見る。


そこにいるのは、巨大な鰐ハイブリッド。


――とにかく、ひたすらにでかい。


身長は二メートル近いのではないだろうか。

その長身に加え、ジムで鍛え抜いた重量級アスリートを思わせる筋肉質な体躯。


そして、顔は完全に鰐。


爬虫類特有の、ゴツゴツとした冷たく硬い皮膚。

人の肌のような曖昧さは一切なく、意思を拒むような鱗が無表情に連なっている。


どのハイブリッドよりも長いのではないかと思える、異様に伸びた口元に、無意識に目が吸い寄せられた。


閉じられているのに、圧がある。

なぜなら、恐ろしさを超越するほど美しく咬み合わされた牙が、隠しきれずに覗いているからだ。


男の種はイリエワニ。

その長い口吻に並ぶ牙は、六十六本前後にも及ぶ。


その事実が、なぜかアリシャの脳裏に浮かんだ。


理由は分からない。

知識なのか、勘なのか、それとも――。


(……噛まれたら、一瞬で終わり)


なのに、足がすくむこともない。

体に無駄な力が入ることも、不安を感じることすらも、ない。


鰐ハイブリッドは配管に向き直り、黙々と工具を回している。

こちらを気にする様子は、まるでなかった。


さっき、確かに。

猿類ハイブリッドたちに対して、彼は一歩前に出た。


それだけで、状況は変わった。


庇った、というほど大袈裟じゃない。

でも――あれは確実に境界線だった。

しかもその線は、追われていたアリシャを守るように引かれていた。


アリシャは、ゆっくりと配管の影から出る。


靴音を殺すのは得意だ。

静かに歩み寄ることも、忍び込むことも、盗みも、逃走も、人生の一部。


胸が高鳴る。

彼に気付かれず、どこまで近付けるだろうか。

そんな小さなチャレンジ。


怖い。楽しい。


(生きてる感じ)


突然、記憶がよぎる。


校庭。

風を切る感覚。

身体が、思考より速く動く瞬間。


私は楽しみながら息を切らせて走っていた。

白いラインの中を、誰よりも速く。


……でも、今のほうが速い。

今の体のほうが、ずっと強い。


じゃあ私は、前は誰だった?


いつも、そうだ。

経験した覚えのない映像が、唐突に頭をよぎる。


その度、頭痛や吐き気、眩暈に襲われる。


アリシャはそれらを振り払うように軽く頭を振り、気を取り直して唇を開いた。


「ねえ」


声をかけると、鰐はわずかに肩を動かした。

だが、振り返らない。


(やっぱり、他人に興味ないタイプ)


自分の予想が当たり、アリシャは小さく笑う。


「さっきの猿たち、A.P.の社員だよね」


工具の音が、一拍だけ止まった。


〈Animalium Paradisus〉――動物達の楽園。

実質、この世界ムンドゥスを支配し「より良くする」と公言する企業。スローガンはこうだ。


賢き者は、より豊かに。


この深い地下で配管を修理する鰐男にも、

なぜか追われている猫少女にも、まったく価値のない言葉。


鰐男は短く、低く答えた。


「……そうだ」


それ以上の説明はない。


アリシャは一歩、近づく。


普通なら、ありえない距離。

噛みつかれても不思議じゃない。


けれど――

彼の口の奥から漂う、不気味な闇。


それが「予測できない闇の沈黙」だと、直感で分かった。


(この人、抑えてる)


強すぎるものを。

自分自身を。


「ねえ、あなた」


少しだけ声のトーンを落とす。

甘えるときの声。


「名前、聞いてもいい?」


男は、ようやく振り返った。


至近距離。

縦長の猫の瞳が、まっすぐに彼を映す。


彼女はぐっと閉じられた口を見つめる。

そこに闇があると、はっきり分かるのが不思議だった。


長い沈黙。


「……ジェイク」


名乗ったというより、

聞かれたから答えただけの声。


「ジェイク……いい名前」


アリシャは、嬉しそうに微笑んだ。

自分でも驚くほど自然に。


「私はアリシャ」


彼は頷きもしない。

興味がない。たぶん、今も。


それでも。


胸の奥が、じんわりと温かくなる。


「ねえ、ジェイク」


肩をすくめ、少し困った顔。


「行くところ、ないの」


嘘じゃない。

全部でもないけど。


「しばらく、一緒にいてもいい?」


理由は言わない。

彼の大きな口吻の中の闇に惹かれたことも、

自分の欠けた記憶が騒ぐことも。


ジェイクは、配管に視線を戻した。


面倒だ。

トラブルの匂いしかしない。


ただ――

猫ハイブリッドの横顔が、

ほんの少しだけ、可愛いと思った。


それだけだった。


「……好きにしろ」


アリシャの尻尾が、ふわふわと左右に揺れる。


「やった」


地下の配管が、低く鳴った。

ムンドゥスは、何も知らないふりをして、動き続けている。

正直に言えば、理由は分からない。


他人に興味を持ったことはないし、持つ必要もなかった。

あの猫ハイブリッドも、ただトラブルを抱えた一匹に過ぎない。


それなのに――

さっきから、配管の音に混じって、彼女の気配が消えない。


面倒だ。

そう思いながら、俺はまだ、口を閉じている。


口の中に潜む闇が、彼女を怯えさせないか、

そんなことを気にしている自分がいる。

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