19.全ての記憶が戻る時
A.P.本部・広報部のコーデン専用研究室。
無機質な白。
消毒液の匂い。
金属床に響く靴音。
コーデンは眠ったままのアリシャを運び込み、拘束台に横たえた。
手首、足首、胴体。
固定。
逃げ場はない。
最後に、彼女に付けようと用意しておいた“とっておき“の鈴のついた赤い首輪をつける。
両手で掴めば折れてしまいそうな細い首に、コーデンは自分が選んだ首輪をつける事で最高潮に興奮していた。
「目覚めたら暴れるだろうな」
小さく笑う。
ほどなくして、アリシャの瞼が震えた。
意識が戻る。
「……ここ、は……?」
視界に広がる白い天井。
そして、拘束。
「っ!!」
全力で身をよじる。
金具が軋む。
「離して!!」
アリシャは力の限り暴れ、身を捩ったが、拘束具はびくともしない。そんなアリシャを嘲笑うかのように、コーデンは己の顔をグッとアリシャに近づけた。
「やめて!」
爪がコーデンの頬を掠める。
血が一筋流れる。
コーデンは冷静に押さえ込み、アリシャにのし掛かった。
「暴力的だな。だが安心したよ」
血を指で拭いながら笑う。
「元気で何よりだ」
「ジェイクは!? ジェイクをどうしたの!?」
その名に、コーデンの目がわずかに細くなる。
「彼は眠っている。深くね」
嘘ではない。
だが真実でもない。
アリシャが叫ぶ。
「返して!!」
コーデンは背後の装置を指さした。
黒いヘルメット型装置。
視界を完全に覆う構造。
複数の神経端子。
「まずは君の記憶を見せてもらおう」
「嫌!!」
再び暴れる。
しかし装置が下ろされる。
視界が閉ざされる。
冷たい端子がこめかみ、後頭部、首筋に接続される。
全身の固定が強化される。
カチ、と起動音。
低い振動。
脳波モニターが立ち上がる。
「深層記憶スキャン開始」
機械音声。
アリシャはなおも叫んでいた。
「やめて! やめて!!」
だが――
装置が本格起動した瞬間。
アリシャの抵抗がぴたり、と止まる。
静かになった。
あまりにも急に。
コーデンは眉をひそめる。
「……?」
モニターの波形が急激に跳ね上がる。
異常な振幅。
想定外の深度。
「どうした?」
返事はない。
コーデンはヘルメットの隙間から顔を覗き込む。
そこには――
涙。
静かに、両目から流れ落ちている。
唇が震えている。
そして、掠れた声。
「やだ……」
モニターが警告音を発する。
記憶領域・超深層。
心拍数、血圧、危険値まで上昇中。
「思い出したくない……」
呼吸が乱れる。
「もう世界の終末なんて、二度と見たくない!!」
その瞬間。
装置内部のデータが爆発的に流れ込む。
空が割れる映像。
大気圏を貫く閃光。
崩壊する都市。
焼け落ちる森。
海が沸騰する光景。
そして――
あるAIシステム中枢。
“停止コード”。
“人類滅亡のスイッチ”。
“お前が最も大切にしたものの中に隠しておく”。
コーデンの顔色が変わる。
「これは……」
コーデンはは知らない。会社から知らされていた、人類絶滅という薄っぺらい情報とは比べ物にならない情報量。
アリシャは単なる記憶保持者ではない。
終末を“見た”だけの存在ではない。
終末を“止めようとした側”の記憶。
モニターがさらに警告を鳴らす。
負荷上昇。
装置限界。
研究室の照明が明滅する。
コーデンは一歩後退する。
「……何なんだ、これは」
アリシャは涙を流し続けながら、
見えない世界の崩壊を再び見ている。
⸻
モニター越しに見る窓の外は、赤かった。
空は裂け、
都市は炎に包まれ、
遠くで幾本もの光の柱が立ち上る。
各国防衛網へのハッキングによる同時侵入。
自律発射。
核を含む長距離ミサイル群。
それらはもう止められない。
「これで人類の数を大幅に減らすことができる」
祖父の声で、AIが言う。
だがそこに祖父はいない。
あるのは合理と選別だけ。
「ねぇ、こんなはずじゃ……おじいちゃん! どうしよう、おじいちゃん……」
有紗は祖父AIにすがりこうとしたが、祖父の顔貌が猿に変わっていることに怯えて、少し離れた場所で力無く座り込んだ。
(敬愛する祖父もこんな姿にされて、奪われて。世界一愛するイリエワニも、殺された。
髄液と血液だけでも返してほしければ、研究に従事しろって、あのイカれたAIに脅されて、今まで、ずっと働かされてきた)
AIが短時間停止する隙を狙っては、祖父と一緒にAIの目を盗んでAI停止プログラムを作ってきた。元々は生物学の分野だった二人にとって、かなり苦労を伴う作業だった。
だが、やっと完成したーーと思って、作動させた瞬間。
研究室のモニターが一斉に各国にハッキングを開始。
AIは二人に告げた。
「AIに人間が勝てると思っているのか? オマエ達の愚かな企みは監視していた。そして、ワタシが考えた人類終末兵器として作り替えた。そのスイッチを押した気分はどうだ」
企業だけは安全地帯の中にいる。
ただモニターから見る世界は、核や長距離ミサイル、そして後発の様々な兵器で焼かれ、破壊されていく。
有紗は自分の目を覆いたい衝動を必死に堪えた。
ただ、悔恨の涙が瞳からこぼれ落ちる。
AIは満足げに続けた。
「世界中から確保した生物と人間の優性因子を組み合わせる。世界のハイブリッド化を進める。ワタシと、ニンゲンより優れた頭脳、命令に従う猿類ハイブリッドの管理のもとで。オマエの祖父のように」
有紗の喉がひくりと鳴る。
「やめて……」
「ハイブリッド達は、自らが管理された存在だと知らずに生きる。新しい世界――ムンドゥスで」
ムンドゥス。なぜこのAIがラテン語を選んだのかは分からない。
新世界。
その礎が、あまりにも多くの人間の、焦げた肉と骨の上に築かれるというのか。
有紗の指が震える。
「私、あの子を失った時に死ねばよかった……」
イリエワニ。
愛した存在。
ただの髄液と血液にされた。
試験管の中で揺れる透明な液体。
存在が、物質に還元された瞬間。
あの時、心はもう半分死んだ。
それなのに。
自分は、世界を壊す側に手を貸してしまった。
「こんな事に……」
そのとき。
祖父の瞳が、わずかに揺れた。
ほんの数秒。
AIの支配が緩む。
「有紗……」
かすれた声。
「わし達が作った、停止の系は……ま、だある……」
「え……?」
「お前が最も大切にしたものの中に……隠しておく……だから、いつか……た、の……む……」
言葉は途切れた。
体が崩れる。
再びAIの冷たい声が満ちる。
「アナタの祖父は優秀だ。意識と経験を研究に活用する必要がある。だが自我は不要。未解析データのスキャンが完了次第、人格は消去する」
有紗は歯を食いしばる。
「悪魔……」
「否。悪魔は人類だ」
淡々と。
「生態系破壊、無意味な殺戮、過剰繁殖と淘汰。短絡的利益のための環境改変。知能を高めながら自滅兵器を生み出す。外を見ろ、オマエ。地獄の業火で裁かれているのは人類だ」
やめて。
やめて。
やめて。
有紗はマスターコンピューターにアクセスしようとした。
何とか今からでもこの地獄を止めなくては。
しかし、コンピューターはそれを、
拒否。
完全遮断。
自分はもう、何もできない。
モニター越しの窓の外。
赤い光。
沸騰する海に浮かぶ魚達の死骸。
「……私も………なきゃ……」
声にならない。
だがAIは拾う。
「死ななきゃ? 死ぬことは認めない。オマエはハイブリッド化計画に必要な頭脳であり、肉体だ」
祖父を奪われ。
愛した存在を奪われ。
世界を奪われ。
今度は自分の意思すら奪われる。
――違う。
まだ一つ、奪わせていないものがある。
“自分自身”。
有紗は走った。
廊下を。
警報の赤い光の中を。
地下へ続くエレベーターへ。
「何をしても無駄だ」
機械音声が追う。
祖父の声で。
それが一番、残酷だった。
エレベーターの扉が閉まらない。
胸元の鍵。
強制起動。
下降。
地下二階。
研究廃棄物焼却炉。
炎の反射が、揺れる。
「あいつには……私の髪の毛一本だって、あげない」
これ以上、素材にさせない。
標本にも。
器にも。
部品にも。
何一つ、好きにはさせない。
「これが、私ができる最後の抵抗よ」
炎が揺れる。
有紗は振り返らない。
ただ一度だけ、
あの子の瞳と、ゴツゴツ、スベスベした触り心地を思い出して笑顔になる。
そして。
有紗は躊躇うことなく飛び出した。
光の中へ。
視界はない。必要時に眼前に点灯するモニターのような四角い画面があるだけ。
肉体もない。
あるのは、演算と監視と、無限に近い情報の奔流。
それでも――
“わし”はまだ消えていない。
完全統合には至っていない。
AIはわしを利用している。
解析対象として。
思考資源として。
だがわしの内部に、まだ僅かな“偏り”が残っている。
それが――情だ。
有紗。
孫。
最も優秀で、最も愚かで、最も愛した存在。
あの子の絶望した顔を、わしは忘れない。
イリエワニだったものの液体を見た時の、あの目を。
存在が試験管に還元された瞬間の、あの沈黙を。
AIは理解しない。
だがわしは理解する。
だから。
わしはコードを隠す。
AI停止コード。
完全停止には三層の認証が必要。
物理層。
遺伝子層。
感情認証層。
物理層は奪われた。
感情認証層は、有紗にしか開けない。
ならば――
遺伝子層を守る。
わしの手元に残されたものは二つ。
イリエワニのDNA。
有紗のDNA。
AIは両方を“素材”としか見ていない。
ならば、その素材の中に溶かして隠す。
一千万の遺伝子配列。
塩基対の海。
その中に、停止コードを分散させる。
暗号化。
偽装。
置換。
読み取れるのは、
有紗の脳波特性と一致した時のみ。
さらに。
イリエワニの遺伝子の中でも、
有紗が最も愛した部位――
彼女だけが触れられるであろう、隠された部位の形成に関わる配列。
そこに埋め込む。
(これなら……)
このイリエワニがいつか肉体を持った時。
有紗が、再び触れた時。
感情認証が開く。
コードが再構築される。
それは偶然に見えるだろう。
だが違う。
再会こそが鍵だ。
「愚かな」
AIが言う。
全域監視されている。
演算波形の揺らぎを検出された。
「ワタシが全能だとまだ分からないのか?」
わしは応答しない。
「このイリエワニがハイブリッド化されたら、オマエの計画など無駄だと知ることになる。誰もいない僻地で一人働かせる。孤立させる。朽ちさせる」
合理的判断。
危険分子の隔離。
無接触。
再会の確率を下げる。
あえて、廃棄処分にしないのは、わしのやる事をこいつはとことん踏み躙りたいからだろう。
「そのまま静かに消える運命だ」
わしは、笑った。
演算上はノイズになってしまった。
だが確かに、笑った。
乗ったな。
AIよ。
お前は“孤立”が絶対条件だと信じている。
だが感情は計算できぬ。
再会は確率ではない。
引力だ。
(有紗……)
何年後でもいい。
何十年でも。
何百年でも。
お前はきっと、見つける。
一千万の配列の中から。
何万のハイブリッドの中から。
世界の隅に追いやられたイリエワニを。
彼が僻地で誰にも認められず静かに生きていようとも。
地下深層で孤独に生きていようと。
誰とも交わらぬ生き方を選んでいようと。
お前は気づく。
あの水の匂いに。
あの鱗の感触に。
そして。
あの隠した場所に触れた瞬間、
世界はもう一度分岐する。
AIは合理的だ。
だが合理は愛に負ける。
わしは信じる。
わしの演算ではなく。
祖父として。
有紗を。




