17.予期せぬ来訪者
「ここも安全じゃなくなってきたな」
ジェイクの低い声が、診療所の空気を震わせた。
「A.P.はすでに気付いている。見張りもついているはずだ。俺たちは地下深くへ潜る。地の利がある。あいつらの装備も制限される」
キャスビーは腕を組む。
「なんで君たちは追われてるの?」
静かな問い。
アリシャは視線を落とした。
「きっと、話したところで信じられないと思う」
「信じるかどうかは僕が決める」
キャスビーは真顔だった。
アリシャの脳スキャンをしていた機械を指差す。
「脳スキャンしてた時、君の脳波に異常があった。異常に強い“夢”みたいな何かを見ていた。寝てるはずなのに、強すぎる覚醒反応。そんなの聞いたことも見たこともない。それのせい?」
アリシャは、ゆっくりジェイクを見上げる。
――信じてくれる?
その瞳に、迷いと不安。
ジェイクは迷わず頷いた。
どんな話でも受け入れる。
その準備はできている。
「私……なんでA.P.に追われてるのか、ずっと分からなかったの」
ぽつりと。
「でも、たぶんキャスビーの言ってることのせい。すごく鮮明な夢を見るの。夢なんてもんじゃない。本当に体験してる感じの」
話しながら、不安げにジェイクへすり寄る。
細い尻尾が、彼の太い腕に絡みつく。
ジェイクは満足そうに鼻を鳴らした。
「それは、記憶なんじゃない?」
キャスビーが言う。
「その記憶がね、いつのか分からないなら……本当に昔の、過去の。前世とか」
「そんなの、有り得る?」
「うん。A.P.には前世の記憶があるかどうかを調べられる診断機があったよ」
沈黙。
そんな機械がある事も、何のために使われているのかも、皆目検討がつかないからだ。
ただ、もし前世の記憶があるとして。
「どうして……前世の記憶があるからって、捕まえようとするの?」
その瞬間。
ジェイクの体が硬直した。
次の瞬間には、アリシャを抱き上げている。
「誰かがここに向かってる」
空気のわずかな振動。
床下の共鳴。
巨大なイリエワニの感覚器官が、先に察知する。
僅かに開いた顎の奥。
深く、底の見えない闇。
アリシャは一瞬、そこに目を奪われる。
引き込まれそうな、暗黒。
「アリシャ、俺の後ろに隠れてろ」
はっとして目を逸らし、彼の背後に回る。
キャスビーはいつの間にか護身用麻酔銃を手にしていた。
靴音。
診療所の扉が、ゆっくりと開く。
現れたのは、スーツ姿のテングザルハイブリッド。
「私はA.P.広報部部長のコーデン」
両手を上げ、武器を持っていないことを示す。
ぐるりと三人を見回す。
視線がアリシャで止まり――かけて、すぐ逸らされた。
(今は見るな)
コーデンが内心で自分に強く言い聞かせる。
アリシャを見ようとするだけで、ワニ男の警戒が一段上がるのが分かる。
耐えろ。
今は取引が最優先だ。
キャスビーがコーデンを見て冷ややかに言う。
「血も涙もない超合理主義者だ。広報部って言うけど、対外活動担当。危険なやつだよ」
コーデンはふっと笑う。
「久しぶりだな、キャンビー君。突然の解雇で補償もなく、私や会社を恨むのも当然だ」
「キャスビーだよ」
「これは失礼」
ジェイクは直感する。
――一番嫌いなタイプだ。
笑っているが、目が笑っていない。
計算だけで動く猿。
コーデンは淡々と言う。
「この診療所は包囲され始めている。三十分で逃げ場はなくなる」
キャスビーの眉が動く。
キツネザルハイブリッドの彼は戦闘に長けているわけでもなく、専門分野は医療。しかも大事な診療所を抱えている。
「私なら止められる。診療所は破壊されない。補償も出す。君たちが逃げるのも手伝おう」
「理由は?」
ジェイクの低い問い。
「最高責任者の秘書に恨みがある。ひいては会社に。報復したい。そのために君たちに力を貸す」
三人は真っ先に思った。
(怪しい)
アリシャの背筋が冷える。
このテングザルハイブリッドの、時折見せる粘着質な視線が怖い。絶対信用してはならないと本能から分かる。
「深い地下に潜るつもりだろう? 物資を手配する。地下繁華街へ出る必要もない」
「それでお前に何のメリットがある」
「会社の業務を妨害できる」
「それはお前の利益じゃない、テングザル」
一瞬の沈黙。
そして、コーデンは薄く笑う。
「私はA.P.の最高責任者になりたい。これが本音だ」
空気が変わる。
「お前、イリエワニハイブリッド。お前の生態データは把握している。お前の能力なら、反A.P.組織をまとめ、A.P.に圧をかける事が可能だろう。私を最高責任者の椅子に座らせる事ができたなら、私はお前たちの安全な暮らしを保証する」
狡猾。
だが、理屈は通る。
キャスビーは尻尾をぶんぶん振って強く疑っている。
だがこのまま包囲されれば、診療所は破壊、自分も処分。
命さえ、残るものが無くなってしまう。
渋々、頷く。
ジェイクはコーデンを睨みつけたまま、低く囁く。
(少しでもおかしな素振りを見せたら——こいつの喉笛を噛みちぎる)
初めて。
明確に「噛む」と言った。
今までは、噛まないで、と言われていたが、
アリシャもコーデンの異質さに、頷く。
(できれば噛まないでほしいけど……怪しすぎる)
コーデンはにこやかに微笑む。
「では、私の部隊で突入を撹乱しよう。地下深層部の入り口までは同行する」
その笑顔の裏で。
計算が静かに回り始めていた。
取引は成立した。
だが。
この場にいる全員が、まだ互いを信用していない。
地下へ。
より深い闇へ。
物語は、静かに加速する⸻
コーデンはようやくモニター越しではないアリシャを二つの眼球で見ることができ、興奮する自分を鎮めるのに必死だった。
とにかく多大な精神力を要する作業だった。
アリシャ。
メインクーンハイブリッド、アリシャ。
完璧な美貌、大きな尖った耳、そしてふんわりと長毛がかった長い尾。均等の取れた美しい肢体。
猿類より低脳と思っていた猫類ハイブリッドに、こんな感情を抱くとは、完全に予想外だ。
予想外なアリシャが悪い。
前世の記憶の断片を遠隔スキャンしたところ、ニンゲンだった頃の記憶をいくつか見ることができた。
そしてーー最高だったのは、おそらく、最高責任者とアリシャの前世のニンゲンは、何らかの関係があったようだ。
彼らに接触する直前まで、あのボロい診療所の脳スキャンのハッキングを行っていた。
そこで断片的に拾い上げたデータに、かつての最高責任者らしき者がうつっていたのだ。
そして二人は会話を何度も交わしていた。
これはーーアリシャは最高の切り札になる。
ただ美しいだけじゃない。利用価値がすでにあった。
まずA.P.の広報の宣伝塔にする。愛らしく能力の高い猫ハイブリッド。自由な生き方をしていると、ムンドゥスの住人たちに錯覚させることができる。
それから、コーデンの愛人にする。
万人から好かれ、愛される女優やタレントを自分の女として飼い慣らし、連れ歩くあの快感。
アリシャが上目遣いで自分に媚びてくる姿を想像しただけで、コーデンは自分の体が熱くなるのを感じた。
そこに。
これから潰そうとしている最高責任者との繋がり。
これは、最高の切り札になるだろう。
アリシャの記憶はこれからじっくりと紐解いていけばいい。
忌々しいワニを処分して。




