16.試験管の中の残響
脳スキャン装置の低い駆動音が、規則的に響いている。
白いベッドに横たわるアリシャは、目を閉じていた。
ピコン、スキャンが終わった。
頭部の外傷は表面的なもので、脳に損傷はないと機械が告げる。
それでも精密検査のため、数時間はこのまま安静だ。
だが、静寂は休息を与えてはくれない。
意識の奥底から、またあの記憶が浮かび上がる。
断片ではない。
今度は、はっきりとした物語。
――有紗という名の女性の記憶。
愛するイリエワニを企業に奪われ、
敬愛していた祖父までも奪われた。
彼女は泣かなかった。
復讐と奪還のため、企業へ潜入した。
祖父と会うこと。
祖父の意思を確認すること。
そして、あの子を取り返すこと。
そのためだけに、生きた。
有紗は優秀だった。
国内有数の生物学の権威が教鞭を取る大学で、
彼の研究室に所属し、教授の論文作成にも参加するほどの実力。
企業への就職は容易だった。
祖父との血縁に触れられることもなく、
面接は順調に進み、内定を得る。
スーツに身を包み、
静かな覚悟を胸に、巨大企業の一員となった。
配属先は環境創造部。
地球への環境負荷を減らす新規事業の立案。
収益化までを設計する部署。
有紗は完璧に仕事をこなした。
目立たず、確実に成果を出し、昇級する。
だがその裏で、
昼夜を問わず社内の構造を解析し続けた。
間取りのデータを頭に叩き込み、
入れない区画の侵入方法を模索し、
祖父とイリエワニの所在を推測する。
五年。
五年かけて、少しずつ権限を広げた。
部署異動も重ね、
ついに祖父の研究室へ通じるカードキーを手に入れる。
祖父の研究はAIを中心とした、
絶滅しかけた生態系の保護と再創造の可能性の模索。
人間と生物の共存。
有紗はカードキーを握りしめ、扉の前に立つ。
だが、生体認証。
開かない。
絶望が胸を締めつけた、その時。
スピーカーから声が響く。
「よくここまで来たね、有紗」
祖父の声。
だが、どこか機械的なイントネーション。
「おじいちゃん……! 会いに来たの! 五年もかかったけど……今度こそ自由にしてあげる!」
こんな時のために持ち込んでいた工具を取り出し、必死に扉の電子制御を外そうとする。
すると。
扉は静かに、自然に開いた。
「おいで。有紗。お前には少し……残酷かもしれないが、ここまで来たんだ。知るべきだろう」
何故か、それは諦めを含んだ声。
研究室は広大だった。
奥の暗がりの中。
大きな椅子に、祖父が座っている。
だが――
近づいた瞬間、有紗の呼吸が止まる。
顔貌が変わっている。
人ではない。
猿そのもののように変質した顔。
首から後頭部にかけて埋め込まれた装置。
その装置から、存在を誇示するかのように、激しく点滅する光。
ジ――――。
不快な機械音。
有紗は反射的に顔を上げる。
暗闇の中で、何かが光った。
祖父の左目。
それは機械眼球だった。
金属のレンズが静かに回転し、こちらを捕捉する。
その音だったのだ。
「うそでしょ……なにこれ……」
膝が震える。
そこへ、祖父の声が続く。
「わしはもう死んだと思いなさい。このAIにほとんど乗っ取られ、自分の意思で動く事もままならない。だが……最後の力で、お前の大切なあの子の事は守ったからな……お前のことも……きっと、お前達がこの悪夢を終わらせる鍵になる」
その言葉に、有紗は顔を上げる。
「あの子は……どこ? イリエワニは?」
祖父だったものの片手が、ゆっくりと上がる。
指差した先。
ガラス張りの冷蔵庫。
その中に並ぶ、太い試験管。
無色透明の液体と、
赤い液体。
その小さな試験管二本だけが、そこにいた。
研究者として理解してしまう。
髄液と血液。
それだけ。
「いやああああああああ!!」
叫びが研究室に響く。
あの美しい瞳も。
艶やかな鱗も。
低く鳴らす鼻音も。
重く優雅な尾も。
何も残っていない。
試験管二本。
それだけ。
膝から崩れ落ちる。
世界が音を失う。
「有紗……」
祖父のかすれた声。
「守れたのが、それだけで、すまない……」
泣き叫ぶ有紗にその声が届いたかは、分からない。
そんな姿を嘲笑うかのように、機械眼球はキョロキョロと動き回った。
「ワタシは優秀な研究者を活用し、生物保全の為の研究を進めるだけだ」
AIの声が響き渡る。
冷酷で、理知的で、感情のない響き。
その瞬間、有紗の中で何かが砕けた。
生きる意味。
目的。
愛。
すべてが、空洞になる。
もう守るものはない。
取り返すものもない。
世界は冷たい装置の音だけで満ちている。
――
脳スキャン装置の中で、アリシャのまぶたが震えた。
涙が、こぼれる。
彼女はまだ知らない。
この記憶が、
今の世界とどれほど深く繋がっているのか。
そして。
試験管に残された“それ”が、
本当に終わりだったのかどうかを。
医療区画の簡易ベッドの横。
ジェイクは、まったく動かない。
アリシャが眠ってから三時間。
巨大なイリエワニハイブリッドが、まるで守護像のように、ベッド脇に座り続けている。
尾は静かだが、完全には止まっていない。
一定の間隔で、床をゆっくり擦る。
警戒のリズム。
キャスビーがカルテを片手に近づいた。
「……おい」
反応なし。
「巨大爬虫類」
金色の瞳が、すっと動く。
キャスビーがアリシャの額の包帯に触れた瞬間――
低く、喉が鳴った。
「触るな」
「診てるんだ」
「必要以上に触るな」
「だから“必要”を決めるのは医療担当の僕でしょうが」
ジェイクの尾が、重く床を打つ。
明らかに不機嫌。
キャスビーはわざとらしく包帯を巻き直す。
そのたびに、背後から刺すような視線。
「力が強すぎる。もっと丁寧にやれ」
「お前が言うな」
事実、ジェイクはさっき自分でやろうとして失敗している。
包帯を締めすぎて、アリシャに「ちょっと苦しい」と言わせた。
それが、まだ胸に引っかかっている。
守ると決めた。
ならば、完璧に守らなければならない。
なのに、自分は不器用だ。
だから余計に、他の手が触れるのが気に入らない。
キャスビーはにやりと笑う。
「それ、完全に縄張りモードの独占欲だぞ」
沈黙。
ジェイクは否定しない。
視線はアリシャから外れない。
「俺の隣にいる」
低い声。
それだけで十分だと言うように。
「だからって、抱え込んだ獲物みたいな目するなよ」
ぴく、と瞳孔が細くなる。
「獲物じゃない」
「でも“離さない個体”の目してる」
また沈黙。
否定はしない。
ジェイクの指先が、眠るアリシャの手の近くに置かれる。
触れない。
だが、いつでも引き寄せられる距離。
守れる距離。
自分の腕の内側に入れられる距離。
ワニは、一度噛んだものを離さない。
一度守ると決めた対象も同じだ。
キャスビーは肩をすくめた。
「三時間ここから動いてないぞ」
「問題ない」
「腹は」
「問題ない」
「……本気か」
ジェイクは小さく鼻を鳴らす。
アリシャが微かに身じろぎした瞬間、巨大な体が即座に反応する。
顔を近づけ、低く告げる。
「ここにいる」
それは誓いというより、本能だった。
選んだ。
だから守る。
誰が触れようと、
誰が奪おうと、
簡単には手放さない。
キャスビーは小さく笑いながら部屋を出る。
「会社に知られたら厄介だな、それ」
扉が閉まる。
残されたのは、
眠る小さな猫と、
その隣を離れない巨大なワニ。
不思議な組み合わせの二人の、
静かでほんのり甘い時間ーー。




