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15.油揚治療所

地下水路の奥。

ジェイクはアリシャを抱えたまま、迷いなく進んでいた。

選んだ道は、地下繁華街の中心ではない。


もっと外れ。

人通りも少なく、ネオンも途切れ、配管がむき出しになった寂れた区域。


繁華街中央には大きな医療センターがある。

だが、そこはA.P.の傘下。

監視カメラも、医療ログも、全て筒抜けだ。


ジェイクが向かったのは、誰の視界にも入らない場所。

錆びた看板が、かろうじて読める。


「油揚診療所」


アリシャは頭が割れそうに痛く、視界も滲んでいる。

だからその文字を読むことはできなかった。

もし読めていたら、きっと叫んだだろう。


「何この名前!?大丈夫なの!?」


——そんな元気があれば、の話だ。

今の彼女は、ぐったりと冷たい。

水路に飛び込み、濡れたまま強打した頭。

血の匂いがまだ消えない。


ジェイクの胸の奥が、鈍く軋む。

自分がもっと早ければ。

あいつらを、もっと早く叩き潰していれば。


そんな苛立ちを、思いをつい込めて、

小さな古びたドアを——


バン!!


と叩いた。


「やめろ!!」


中から若いハイブリッドのオスの怒鳴り声がする。


「お前の足音は遠くからでも響いてきてたからな、ジェイク!!」


ひん曲がったドアが、内側からぎい、と開く。

現れたのは——


金色の丸い目。

灰色の頭部。

左右にあるのは、白くふわふわの尖った耳。


キツネザルハイブリッド。

アリシャは朦朧とした意識の中で目を見開く。


「……サル……奴ら、じゃ……ないの?」


ジェイクは抱きしめる腕に少し力を込めた。

安心させるように。


「大丈夫だ。こいつはA.P.とは関係ない。信用できる」


「関係ない、どころか」


キツネザルは肩をすくめた。


「奴らから追われてる逃亡者だよ」


軽い口調。

だが目は真剣だ。


「すぐ治療しないと。診察台に——そっと、寝かせて」


“そっと”を強調したのは、目の前のイリエワニハイブリッドが規格外の力を持っているからだ。

だが。

ジェイクは驚くほど慎重だった。


触れたら落ちる花を扱うかのように。

優しく。

本当に優しく。

アリシャを診察台へ下ろす。


キツネザルは一瞬、目を丸くした。


「……その器用さ、どこで覚えたの」


ジェイクは答えない。

ただアリシャの手を握っている。


聞き出せないことを悟ったキツネザルは、素早く動き始めた。

触れるか触れないかの軽いタッチでアリシャに触れ、バイタルチェックが一括でできる器具をアリシャの手首と指先に装着した。


「僕はキャスビー。A.P.の医療研究部にいた」


包帯を広げながら言う。


「ちゃんとした医者だよ。今じゃ裏切り者の指名手配犯だけどね」


アリシャの頭部の傷を洗浄する。

滲む血。

アリシャが小さく顔を歪める。


「ごめんね、痛いよね、麻酔を使うよ」


素早く鎮痛剤を患部付近に注射。

震えが、少し収まる。

その隙に、洗浄されあらわになった大きな裂傷を、医療用ホチキステープで手際良く留めていく。


「僕、悪いことしそうな顔してないでしょ?」


キャスビーは軽く笑う。


「冤罪どころか、何が罪なのか分からないまま追い出されたんだ」


キャスビーは閉じ終えた傷口の上に包帯を固定し終え、小さく息を吐いた。


「出血は止まった。脳震盪がある。あと、脳の内部スキャンをするけど、寝てていいから、今は休ませて」


ジェイクは黙って頷く。

その巨大な体が、診療所の狭さを際立たせる。


キャスビーは器具を片付けながら、ぽつりと口を開いた。


「君たち、A.P.に“普通”の追われ方してないよね」


ジェイクの尾が低く揺れる。


「どういう意味だ」


キャスビーは視線を上げる。


「僕は三年前まで、A.P.の医療研究部にいた」


金色の目が、わずかに遠くを見る。


「成績は優秀だった。だから最高責任者の医療担当に選ばれた」


ジェイクの眉がわずかに動く。


「三十年、誰とも話さないってやつか」


「キャスビーは包帯を固定し終え、小さく息を吐いた。


「出血は止まった。脳震盪はある。今は休ませて」


ジェイクは黙って頷く。


その巨大な体が、診療所の狭さを際立たせる。


キャスビーは器具を片付けながら、ぽつりと口を開いた。


「君たち、A.P.に“普通”の追われ方してないよね」


ジェイクの尾が低く揺れる。


「どういう意味だ」


キャスビーは視線を上げる。


「僕は三年前まで、A.P.の医療研究部にいた」


金色の目が、わずかに遠くを見る。


「成績は優秀だった。だから最高責任者の医療担当に選ばれた」


ジェイクの眉がわずかに動く。


「名前が一人歩きしてる、表舞台に出ない奴だな」


「そう。社員達にすら“話さない”。でも間違いなく存在はする」


キャスビーは静かに続ける。


「公式にはサル型ハイブリッド。高齢で、身体の機械化が進んでいる」


機械化肢体、神経接続端子、内臓補助装置。


「そこに高度なAIが組み込まれていた」


ジェイクは腕を組む。

AIはA.P.の大好きなツールの一つだ。

それだけじゃない。地上だけでなく、地下のハイブリッド達でさえ、通信端末はAIが組み込まれ日々の生活に役立てられている。


「A.P.の大好きな合理的ってやつだろ」


「僕もそう思った」


キャスビーは頷く。


「最も賢く、最も合理的な判断を下す存在なら、AIによる機械補助は自然だ」


一拍。


「でも、医療データを見ていて、奇妙なことに気づいた」


空気がわずかに張り詰める。


「DNA配列の一部が、極秘指定になっていた」


「何の配列だ」


「分からない」


キャスビーは正直に言う。


「名称が伏せられていた。ただ、ログの断片に“ニンゲン型参照”という文字列があった」


沈黙。


「……ニンゲン?」


ジェイクが低く繰り返す。

知らない響き。

キャスビーも首を振る。


「僕も知らない。調べてみたけど、生物分類データベースにも該当種はない」


診療所の蛍光灯が、じ、と音を立てる。


「ただ、最高責任者のDNAは、サル型のはずなのに、どの既存種とも一致しなかった」


「一致しない?」


「キツネザルでもマカクでもない。サルなのに、サルじゃない」


キャスビーは自嘲気味に笑う。


「それを解析しようとした翌日、僕は研究部から外された」


「理由は」


「“データの不正アクセス”」


肩をすくめる。


「優秀だった僕は一気に転落。地上追放、指名手配」


金色の目がジェイクをまっすぐ見る。


「だから思ったんだ。君たちが追われる側になった今、この話が何か繋がるかもしれない」


ジェイクは無言。

だがその瞳は鋭い。


診察台の上。

アリシャは薄く目を開けている。


「……ニンゲン……」


かすれた声。


ジェイクがすぐ顔を寄せる。


「知ってるのか?」


アリシャの瞳が揺れる。


頭の奥で、ぼやけた記憶が瞬く。


高い空。

ビル群。

“人間”という言葉。


——自分は、人間だった。


でも。

なぜ今、この世界に人間がいないのか。

なぜハイブリッドだけが存在するのか。

分からない。


断片だけ。

確信も証拠もない。


ここで話せば、混乱させるだけ。

ジェイクも、キャスビーも。

そして何より——A.P.に知られたら。


アリシャは小さく首を振った。


「……知らない。頭が、ぼんやりしてるだけ」


ジェイクは疑わない。


「無理するな」


その手が、優しく額に触れる。


キャスビーは二人を見て、何も言わなかった。

ただ、静かに思う。

——何かが、噛み合っていない。


診療所の外で、遠く微かな機械音が響く。

キャスビーの耳がぴくりと動く。


「ここも安全じゃないかもしれない」


ジェイクの尾がゆっくり持ち上がる。

アリシャの手を握り直す。


油揚診療所。

逃亡者と裏切り者。

そして——何かを“思い出しかけている”少女。


世界はまだ何も明らかになっていない。


だが確実に。


真実は、アリシャの内側に眠っている。

端末の光だけが、暗い部屋を照らしている。

コーデンは画面から目を離せなかった。


拡大されたアリシャの顔。

血に濡れ、意識を失いかけている瞬間。

それでもジェイクの腕に縋りついている姿。


指先が、ゆっくりとディスプレイをなぞる。

意味はない。


ただの光だ。

だが、なぞらずにはいられない。


「……どうして、あれなんだ」


低い声が漏れる。

なぜジェイクなのか。

なぜあの爬虫類なのか。

理屈ではないことは分かっている。


だからこそ苛立つ。

ジェイクの腕の太さ。

包み込むような抱擁。


あの距離。

あの体温。

あの“特別”の位置。

思考が、そこに絡みつく。


意識からそれが離れない。

アリシャがジェイクを見上げる映像を何度も再生する。


スローで。

拡大で。

その瞳の動きを追う。


恐怖。

安堵。

信頼。

——信頼。


その表情を、自分に向けさせる。

それを達成しなければならない。


それだけでは足りない。


あの細い手が、自分の袖を掴む。

あの声が、自分の名を呼ぶ。

ジェイクではなく。

自分を。


想像が、勝手に膨らむ。

コーデンは無意識に椅子の肘掛けを強く握る。

会社の資産に値するハイブリッドを守る、という言葉で自分を正当化する。


だが本音は違う。

あの体を、自分の管理下に置きたい。

視線も、行動も、接触も。

誰に触れられるかを決めるのは、自分であるべきだ。


ジェイクの手が、アリシャの背に回る映像で再生を止める。

その部分だけを凝視する。

爪が食い込むほど拳を握る。


「あれは、力任せだ」


自分なら違う。

もっと適切に触れられる。

もっと壊さない。

もっと丁寧に。

もっと——


独占できる。


画面をさらに拡大する。

首筋。

鎖骨。

包帯の隙間から見える白い皮膚。


視線が、そこから動かない。

呼吸が、わずかに浅くなる。


「君は価値がある」


それは事実だ。

会社が動くほどの特異個体。

だが。

それだけではない。


あの小ささ。

あの脆さ。

あの“自分を必要としている”ような表情。


それが、離れない。

頭の中で繰り返し再生される。

ジェイクの腕から引き剥がす場面を想像する。


怯えるか。

泣くか。

抵抗するか。


そのどれもが、妙に鮮明だ。

抵抗しても構わない。

最初は。

いずれ分かる。

コーデンの方が合理的だと。

コーデンの方が安全だと。


依存させればいい。

他のもの全てから隔離すればいい。

選択肢を減らせば、従う他無くなる。

ハイブリッドは皆そうだ。

ジェイクの存在を削れば。


彼女は必ず揺らぐ。

その揺らぎに入り込む。

優しく。

理解ある顔で。

救済者のように。


そして、気づいた時には。

彼女の世界の中心が、自分にすり替わっている。


コーデンの唇が、ゆっくり歪む。

これは恋ではない。

欲望だ。

粘りつくような、所有衝動。


彼女が笑うのも。

怯えるのも。

呼吸するのも。


全部、自分の影の中で起きるべきだ。

ジェイクの腕の中ではなく。

自分の掌の中で。


画面を閉じる直前、コーデンはもう一度アリシャの瞳を見る。


「いずれ、君は分かる」


低く、囁く。


「誰の隣にいるべきか」


ハイブリッド達の中で最も賢いとされ、ムンドゥスを支配してきた猿類ハイブリッド。

コーデンは欲望に溺れ、賢さを失いつつあった。

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