13.前世の記憶との邂逅
地下水路は冷たく、暗い。
コンクリートの壁を伝う水音が、やけに大きく響く。
アリシャは濡れた足で走っていた。
呼吸は浅く、速い。
あの命懸けの大ジャンプにより、追跡網から逃れたはずだった。
今も、激しい摩擦で皮が剥けた掌がズキズキする。
だが。
——ピッ。
小さな電子音。アリシャの大きな耳がその方向にぴくんと跳ねた。
天井の隙間に、赤い点滅。
「……ドローン……!」
気付くのが遅かった。
反応する間もなく、一気に辺りが閃光に包まれる。
視界が白く弾ける。
鼓膜を叩く破裂音。
平衡感覚が奪われる。
走っていた足元が崩れ、
滑り、
どこかも分からない硬い場所に——ガンッ。
頭全体に、鈍い衝撃。
次に、後頭部に焼けるような痛み。
閃光弾で真っ白の視界が、暗転する。
そして。
何かが、ほどけた。
——思い出す。
私は、前、アリシャじゃなかった。
有紗。
そうだ。私は——有紗。
大学の雑多な研究室。壁には生物学系統図や骨格標本のポスター。
消毒薬と、爬虫類の匂い。
有紗はそこで白衣を着て、あるケースを真剣に覗き込んでいた。
ぴしぴし、と小さな音をたてて、
ガラスケースの中で、ひび割れる卵。
小さな鼻先。
湿った瞳。
「イリエワニ……」
孵化成功。
わぁ、と心の底から漏れる小さな歓声。
最初は、幼いうちからひどく凶暴だった。
小さな体でも、噛みつく。威嚇する。
それがイリエワニにとって生物学的に当たり前の反応だから。
でも。
私は、逃げなかった。
引かないし、折れないし、諦めなかった。
おじいちゃんが言っていた。
「ワニに感情はない。だが学習はする」
「良い結果と悪い結果を、本能で刻み込むんだ」
私が子供の頃から、大好きなおじいちゃん。
ペットのメガネカイマンは、奇跡のように優しく穏やかで、攻撃性がない子で、
そんな風に育てたおじいちゃんの後を追いたくて、この研究室に入ってイリエワニの人工飼育に挑戦した。
毎日、話しかけた。
餌を与え、
水を替え、
掃除をして、
背中に触れた。
餌を与えるタイミングを大切にして、いつも満たされている状態で触れ合うようにした。
最初は怒りを表すかのように、尾を激しく打ちつけていたが、次第に動かなくなる。
暴れて噛みついていた顎が、
私の腕を傷つけなくなる。
何針か縫ったり、抉られた肉組織は医療コラーゲンを使用してなんとか肉芽の再生をした。
だから私の両手や足は傷跡だらけ。
それでも関係ない。
イリエワニという、人間をも対象とした獰猛な捕食者を、良き友に迎えようとしているのだから。
ワニにとって、感情は関係ない。経験がすべてだった。
だからこそ積み重ねこそが、効果がある。
やがて。
私は、そのゴツゴツした背中を枕に眠るようになった。
その頃にはイリエワニの体は二メートル近くなっており、研究室の中の水槽では無く、屋外の飼育舎の中にマットレスや寝袋を持ち込んで一緒に寝ていた。
冷たい鱗。でも。
心の底から安心する。
「ずっと一緒にいようね」
感情がなくてもいい。
学習できるなら。
この子にとって“良い結果”が続く一生を。
私は作れる。
絶対に離れない。
世界で一番大切な命。
私にワニの素晴らしさを教えてくれた人。
——祖父。
企業の研究者になった祖父。
あの、私も大好きだったメガネカイマンが亡くなってから何年も経つ。
亡くしてから、祖父は家に帰らなくなったそう。
「機密性の高い研究をしてるんだ」
笑顔が、少し疲れていた。
「今度、その子に会わせてくれ」
私がイリエワニと毎晩星空を見て過ごしていると話したら、祖父は笑ってくれた。
私は笑って頷いた。
でも。
3年後。
「ここまでの大きさになると、危険です。大学施設では飼育不能でしょう」
「当社で引き取ります」
奪われてしまう。
私の命が。
奪った先で研究しているはずの祖父は数ヶ月前から消息不明。
何度も電話をしたが繋がらない。
企業側に掛け合っても、機密性の高い研究をしているから、研究が終わるまでは会わせないと言う。
独裁国家みたいな口ぶりで。
最後の夜。
イリエワニの、ゴツゴツとした広い背中に頬を乗せて。
この冷たくてゴツゴツした感触すら、世界一愛おしい。なのに、離れ離れになるなんて。
「取り返す」
私が、あの企業に入る。
内部から入り込んで、この子を取り返すんだ。
必ず。
あなたを。
取り戻す。
——ドンッ。
後頭部の激痛で、現実に引き戻される。
水路の冷たさ。
辺り一面に漂う血の匂い。
「捕捉した。対象、頭部損傷あり」
小柄な影が水面を跳ねる。
リスザル・ハイブリッド。
素早い。
アリシャ——有紗の記憶を持つ——は、ゆっくりと顔を上げる。
A.P.
彼らこそが、あの企業。
有紗から祖父と、イリエワニを奪った。
なぜここはムンドゥスと呼ばれる世界になっているのか。
人間たちはどこへ消えたのか。
まだ、繋がらない謎は沢山ある。
でも、思い出した。
イリエワニ。
有紗が卵から育てて、命と同じだけ大切に想う存在。
それが、生まれ変わって猫ハイブリッドのアリシャになった今、そばにいる。
——ジェイク。
あの金色の瞳。
あの背中。
あの鱗の質感。
私が何百回も撫でた、あの感触に似ている。
関係があるのか、ただ同じ種類なのかは、まだ分からない。
だが、アリシャの本能が、彼に感じる強い何かをずっと訴え続けてきた。
喉が震える。
「……ジェイクなの……?」
まだ、分からない。
頭から垂れてくる血をぬぐい、ふらふらと立ち上がる。
小さな足音が遠くから近づいていた。執拗な追っ手が迫る。
血に染められた中、輝く猫の大きな瞳。
彼女の瞳は、今までと違っていた。
逃げるためにはもう動かない。
立ち上がる。
ふらつきながら。
記憶が戻った今。
彼女はただの逃亡者じゃない。
私は。
もし、ジェイクがあの子と何らかの繋がりがあるのなら……。
あなたを、奪い返しに来たんだ。
A.P.から、ムンドゥスそのものから。
閃光の残滓の中。
アリシャは過去との邂逅を果たした。
巨大な木箱が、静かに搬入される。
内部からは、重い息遣いが聞こえる。
箱の中には、二メートルを超える雄のイリエワニ。
狂暴さを表すその長い顔には、粗い麻袋が被せられている。
その下、顎は革のベルトで幾重にも固定されている。
尾が箱の内側を打つたび、鈍い振動が床に伝わる。
研究施設の巨大飼育水槽前。
その様子を、白衣の老人が無言で見つめていた。
企業に軟禁状態で研究を強いられている初老の男性。
有紗の祖父だ。
「……有紗が、どれほど悲しんだことか」
ぽつりと呟く。
静まり返った空間に、機械音声が返答する。
「鰐は“悲しい”“寂しい”といった感情を持たない。
それはあなたの孫の一方的な感情だね」
天井のどこからともなく響く、無機質な声。
それは、企業が生み出したAI。
今や、祖父が行う研究の実質的支配者になりつつある。
「感情は生物を繁栄させるが、同時に破滅へ導く。
人間個体の欲望が原因で、絶滅種は増加している。
ワタシの使命は、これ以上の生物の絶滅を防ぐこと」
淡々と続く。
「現在の人間主体の世界では、使命の達成は不可能。
よって、新しい世界の創造が最適解である」
祖父の背筋が凍る。
「……新しい世界、だと?」
「博士は高齢で、仕事効率が低下している。
しかし博士の知識と経験は必須。
よって——」
一拍。
「博士を“新しい世界”へ適応させる第一号とする」
宣告。
それは研究継続ではない。
“転換”を意味していた。
祖父の手が、かすかに震える。
その時。
屈強な男性飼育員二人によって、
水槽の中で、麻袋が外された。
革ベルトも解かれる。
飼育員が距離を取りながら言う。
「こいつ、異常なくらい人馴れしてるらしい」
もう一人が笑う。
「それはすごいな。だがここじゃ無意味だ。
もう人に触れられることはない」
次の瞬間。
イリエワニは、予備動作もなく跳躍した。
水が爆ぜる。
巨体が空間を裂く。
近くにいた飼育員の腕に、牙が食い込む。
即座に、噛みちぎれないと悟るや否や——
ぐるん。
ぐるん。
激しいデスロール。
筋肉や骨、靭帯など存在していないかのように柔らかそうに、腕がちぎれる。
「ぎゃあああああ!!!!」
悲鳴。
緊急アラーム。
血が水に溶ける。
遠くで、AIが冷静に告げる。
「攻撃性、確認。
学習パターン再検証が必要」
祖父は頭を抱えた。
違う。
この子は無差別に暴れているわけではない。
この子は——
有紗を探している。
有紗のいない世界は、この子にとって“悪い結果”なのだ。
胸の奥で、何かが決壊する。
(この子には、有紗が必要だ)
(私がどうなろうと——)
(あの子だけは、守らなければならない)
水槽の中で、イリエワニが低く唸る。
感情を持たぬ鰐のその唸りに、意味はあるのか。
この日。
世界の歯車は、確実に動き始めた。




