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12.追う精鋭、逃げる優性個体

地下街は、どこもかしこも湿っていた。


天井を這う無数の配管から水滴が落ち、

薄暗いネオンがそれを鈍く照らしている。


地上のムンドゥスが洗練と秩序の街なら、

ここはその裏側。

地上に居られないもの、存在がひしめく影。


訳あり。

曰く付き。

太陽の下を歩けない者たちの巣。


穴蔵のような住居。

拾い集めた鉄屑で組まれた壁。

だが一角には、分厚い鋼板で溶接された“地下の豪邸”もある。


秩序からこぼれ落ちた者たちの、もう一つの社会。


その屋根の上を——

アリシャは走っていた。


まだ濡れた髪が背に張りつく。

換金したばかりの小袋が腰で揺れる。


息が荒い。

けれど、足は止まらない。


——ジェイクのところに行かなきゃ。


その瞬間。

背筋に、冷たいものが走った。


視線。

殺された気配。


追跡されることに慣れているアリシャは、

振り向かない。


だが、次の瞬間。


影が、三つ。

いや、四つ。視界に滑り込んでくる。


屋根の縁を、音もなく駆ける小柄な影。


リスザル・ハイブリッド。

子供のような体躯。

だが、子供ではない、異様な身軽さ。


A.P.隠密部隊。


「——ちっ」


アリシャは進路を変える。

飛び移る。

屋根から屋根へ。


だが、軽い。

軽すぎる。距離を伸ばすことが難しい。

追手のほうが、さらに速い。


金属屋根を蹴る音すら、ほとんどしない。

アリシャは視線を辺りに巡らせ、咄嗟に判断した。


地下街の繁華街、その中央へ飛び込む。

食料市場。


魚、肉、湯気、さまざまなハイブリッド達の怒号、値段交渉。


日陰を好むハイブリッド達がごった返す。


「通して!」


アリシャは屋台を蹴り、台を滑り、

人混みに紛れる。


匂い、熱、叫び声。

追跡は困難なはず。


だが。


視界の端に、小さな影が映る。


配管を伝い、

梁を走り、

真上から追ってくる。


このままだと包囲される。


市場を抜ける。

狭い路地。

足をバネのように跳躍し、梯子に飛びつく。


そのまま素早く登る。

さらに上。

屋上。


——行き止まり。


目の前は、暗い空間。

地下の奥に繋がる吹き抜け。


数階分の高さ。

下には、暗闇の中、鉄屑と水路がぼんやり見える。


背後に、気配。


「確保対象、停止を要請する」


小さな声。

感情のない声。


四方から囲まれる。

アリシャは、振り返る。

猫の瞳が、静かに細まる。


体が勝手に震えている。

怖くないわけがない。

今まで何となくA.P.の社員に追われていたのとは、訳が違う。

彼らが本気を出したのだ。

もう逃げ道は、無いのかもしれない。


でも。

捕まるわけにはいかない。


ジェイクの顔が、脳裏をよぎる。

あの、何も恐れていない金色の瞳。


「……悪いけど」


アリシャは、一歩後ろへ下がる。


「私、飼われる趣味ないの」


そして。

躊躇なく。


飛んだ。


リスザルたちの目が、わずかに見開かれる。

彼らの小さな体では届かない距離。


アリシャは、落ちる。

風が耳を裂く。


下の水路へ——


その瞬間。

体をひねる。

壁の配管を掴む。


衝撃。


猛烈な摩擦が起きて、手の皮が裂ける。

だが、離さない。


滑り落ちながらも、足で次の管を蹴る。

勢いを殺す。


そして。


水路へ落下。

激しい水しぶき。


沈む。


すぐに浮上。


咳き込みながら、流れに身を任せる。

屋上から、リスザルたちが見下ろしている。

だが、地下水路は複雑だ。


分岐。

暗闇。

消える。

水音だけが残る。


やがて。


屋上の一体が通信を入れる。


「対象、一時消失」


その報告は、即座にコーデンへ届く。


モニターを見つめる猿の瞳が、細くなる。


「……素晴らしい優性個体だな」


静かな声。


「逃げ足も一級か」


口元が、歪む。


「だが、逃げられると思うなよ」


一方。


水路の闇の中。

アリシャは、壁に手をつき、息を整える。

寒さと先程の恐怖から、震えが止まらない。


怖い。

悔しい。


でも。


「……ジェイク」


小さく呟く。

アリシャにとって、その名を口にするだけで、心が温かくなる。失われていた力が、戻ってくる。

行かなきゃ。

絶対に。


水音とともに、彼女は再び歩き出す。


地下街管理局に、奇妙な志願者が現れたのは三十年も前のことだ。


種別——イリエワニ・ハイブリッド。

体格——規格外。

年齢——不詳。


履歴は、ほとんど空白。

だが、希望だけは明確だった。


「地下街Aブロック全域の配管管理に配属してほしい」


理由の記載はなし。


Aブロックは老朽化が進み、

配管は複雑に絡み合い、

湿度も高い。


勿論、事故も多い。

志願者など、普通はいない。


面接室の椅子は、彼の体重でわずかに軋んでいた。

金色の瞳は瞬きすら少ない。


「なぜAブロックだ?」


担当官の問いに、彼は短く答えた。


「水の流れが多い」


それだけ。

淡々と。

まるで、そこにしか居場所がないかのように。


住居の希望も、地下低層階。

最も暗く、

最も湿り、

最も人目につかない区域。


地上に近い階層は拒否した。


「光は必要ない」


書類にはそう記録されている。

そうして、ジェイクは三十年も前に、どこからか現れて配管工の仕事に就いた。




実際のところ、彼は優秀だった。


太い腕で錆びた配管を軽々と持ち上げ、

破裂事故を未然に防ぎ、

水漏れの原因を即座に見抜く。


彼の仕事っぷりに、苦情はない。

その見た目や種族から想像されるような、暴力沙汰もない。


ただ——


たまに、工具を咥え直すとき。

鰐の中でも最も大きな大きな顎が、ゆっくりと開く。


その奥に広がる、深い暗闇。

喉の奥まで続く、底知れぬ黒。

光を吸い込むような空洞。


あれを見た新人作業員は、たいてい黙る。

不気味だ、と。

だが。


Aブロックの住民は言う。


「でかいが、静かだ」

「怒らせなきゃ、何もしないだろう」

「水は、あいつが来てから安定した」


巨大なイリエワニハイブリッドは、今日も地下を歩く。


湿ったコンクリートの上を。

配管の鼓動を聞きながら。


まるで。


地下そのものと同化するように。

そして誰も知らない。

なぜ彼が、配管工になったのか。

彼はどこから来たのか。

なぜ歳を取ったように見えないのか。


彼は自分の意思でAブロックの配管工になった。

地下低層階の住人になった。


と、本人は思っている。

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