10.猫は濡れ鼠になる
爆風に押し出されるように、アリシャは配管の中へ飛び込んだ。
次の瞬間だった。
大量の水が、押し寄せて来た。
「——っ!」
想定よりも早く、想定よりも多い。
配管の奥から一気に溢れ出した濁流が、細い肢体を容赦なく攫っていく。
必死に壁に爪を立てるが、滑る。
水音が耳を塞ぎ、方向感覚が失われる。
「ジェイク……!」
最後の空気を使って叫んだ音は、水に砕かれて消えた。
配管は長い。
曲がり、くねり、落ち、さらに加速する。
——だめ、離れちゃう。
そう思った時、視界が開けた。
どっと水ごと吐き出され、アリシャは地面に転がり落ちる。
ゲホゲホっと咳き込み、なんとか息を吸う。
彼女の頭から生えている先端の尖ったふわふわの耳も、今は濡れた不快感から垂れ下がっている。耳の穴に入り込んだ不快な液体を追い出すため、アリシャはぶるぶると頭を振った。
それから、尻尾の水気をぎゅうと絞りながら、やっと辺りを見回す。
そこは、アリシャも知る地下エリアの繁華街。
ネオンの光が反射する、路地裏の用水路だった。
全身、濡れ鼠。
頭を振ろうが、絞ろうが、
耳も尻尾も重く、水を吸って垂れ下がっている。
「……ここまで流されるなんて……どうしよ……」
アリシャの声はいつになく不安そうに震えていた。
一方、その頃。
爆発と同時に、圧倒的パワーでニホンザルハイブリッド達数匹を再起不能にしたジェイク。
自ら爆発を背中で受け止め、その背にはコンクリートや鉄、様々な破片が突き刺さり、熱傷も起こしている。
にも関わらず、彼の動きは力強く俊敏で、襲撃者たちは蹂躙されるしかなかった。
負け犬の遠吠えのように、猿特有の奇声をあげ、襲撃者たちは一部の倒れた者を抱えながら逃げ去って行った。
今日の仕事は、これで終わりだ。
ジェイクは、天井裏に通じる最後の配管を塞ぎながら、心の中で距離を測っていた。
長さ。
傾斜。
排出口。
——繁華街の裏にたどり着ける。
彼は、わざとそこへ流した。
人が多く、雑音が多く、A.P.の追跡が最も鈍る場所。
ムンドゥスの配管工としての判断だった。
アリシャを、逃がすための。ジェイクにとってはそれが最優先であり、それしか考えていなかった。
だが。
アリシャの考えは、大きく違った。
用水路から這い上がり、震える手で壁に掴まる。
寒い。
怖い。
それでも、胸の奥で一つの気持ちが燃えていた。
——戻りたい。
今すぐ、ジェイクのところに。
でも。
この状態で。そもそも、私、戦える?
あの猿たち相手に?
逃げること。
忍び込むこと。
隠れること。
それなら息をするのと同じくらい、得意。
だけど、戦うことは正直、向いてないと思う。
そんな自分が、今できる最善は?
「……まず、準備」
本当はジェイクのもとに駆け出したい気持ちを必死にこらえて。
自分に言い聞かせる。
アリシャは、自分の持つ隠れ家の一つへ向かった。
誰も通らない通路の奥、忘れられた廃墟の中の高層階。
その中の一部屋。現在地からもっとも近い隠れ家を選んだ。
そこで濡れた服を脱ぎ、体を拭き、乾いた服に着替える。彼女の服はほとんど仕事用の黒いスーツだけで、それを当たり前のように身にまとう。
それからしなやかな手つきで、壁の隙間から、布に包んだ盗品を取り出した。
——保険が必要。
ジェイクの元へ行くために。
そして、二人にとって、もしもの時のために。
スーツ姿のアリシャが盗品を手に向かった先は、闇マーケット。
彼女の隠れ家からはそう離れていない。
アリシャの身体能力ならば、屋根伝いにも、壁の突起物を利用しつつでも、簡単に移動できる。
地下街の一角、闇マーケット。
ジェイクの家が爆破までされたのに、同じ地下でも、ここは全く影響を受けていない。
雑踏の奥、照明の落ちた一角にある買取屋にアリシャは向かう。
そこには、アリシャと似たようで、少し違う形の猫耳を持つ猫ハイブリッドの青年が店番をしていた。
彼の青い瞳がアリシャを捉えた瞬間、その瞳孔が大きく開かれる。
「ア、アリシャ……!!」
彼は慌てて、手元にあった売り物の織物を引き寄せ、彼女の頭に巻きつける。
「顔、隠して!
今、A.P.がアリシャを探してるって噂で……」
両耳を倒して周囲をきょろきょろと警戒する様子が、弱そうで頼りない。
「いいから、換金して」
アリシャは冷たく言った。
この青年の名はクーリス。アリシャと同じ猫ハイブリッドだが、ベースになっている猫の種類が違う。だからなのか、アリシャを前にするたびに、おどおどしながらもすり寄ってくる態度を取る。
その度に、アリシャはうんざりとした気分になっていた。
同じ猫ハイブリッド同士は、仲間意識も強いし、恋人同士になる事が多い。正確に言えば、猫以外の種族を滅多に好まない。
クーリスがアリシャに好意を持っているのは明らかだが、アリシャは逆に彼の弱さが不快だった。
しかも、そんなアリシャの気持ちに気付く気配すらない。
「……大金があってもさ」
クーリスは声を潜める。
「ムンドゥスで、どうやってA.P.から逃げるんだ?」
アリシャは、ぴたりと動きを止めた。
「じゃあ、捕まれって言うの?」
冷たく、低い声。
「あの猿どもに?
何されるか分かったもんじゃない」
一拍置いて、吐き捨てる。
「最悪、私の剥製がA.P.本社のロビーに飾られたりするかも、しれないでしょ?」
「そんなの——!」
クーリスは、過剰なほど強く否定した。
「だめだ、絶対だめだ!
俺が、守る……!」
でも、その声は震えていた。
この猫男には、力がない。
覚悟も、ない。
その姿を見て、アリシャは思ってしまう。
——ジェイクなら。
噛まなくても、立ち向かう。
あの刹那の爆発の中、迷わず、自分を逃がした。
「……もういいわ」
アリシャは、盗品と引き換えの現金を受け取ると、背を向けた。
「私は行く、捕まりたくなんかないもの」
クーリスには目もくれず。彼の情けない涙ぐんだ顔と、下がり切った尻尾が視界に入れたくなかった。
人混みに紛れながら、歩き出す。
早く、ジェイクのところに行かなきゃ。
やっぱり私は——
彼と離れて、生きていけない。
※クーリス目線
アリシャは、不思議な子だ。
猫ハイブリッドの中じゃ、まだ若い部類に入る。
耳の動きも素直だし、眠い時はすぐ顔に出る。
鶏肉の燻製の匂いを嗅ぐと、欲しそうにちょっとだけ目が丸くなる。
そういうところは、まだ幼い。
なのに。
目の奥だけは、いつも遠くを見ている。
何度も追われて、何度も隠れて、
そのくせ、誰にも縋らない。
堂々と盗品を持ってきて、値踏みされても動じないし、
こちらの好意にも気づいているくせに、利用することも媚びることもしない。
自分で立っている。
それが、かっこよくて。
……正直、たまらない。
あんなに細いのに、折れない。
さっきも、濡れ鼠みたいに震えていたのに、目だけは燃えていた。
誰のために?
たぶん、最近一緒に居始めた、あの配管工の鰐男のためだ。
思い出しただけで、胸がざらつく。
俺じゃ、だめなんだろうな。
守るって言ったとき、自分の声が震えているのが分かった。
強くなれない自分が、悔しい。
でも。
あいつが戻ってきたら、すぐ匿うだろうし、
金だって融通する。
店にとっちゃ迷惑だって分かってるのに。
それでも。
アリシャは、そうさせる子なんだ。
子猫みたいで、
でも、誰よりも自由で。
……だから、好きなんだろうな。




